第7巻 第4章 エララの涙(2)
軋み。気圧が一段階下がる。頭蓋の内側に薄い金属を擦るような音が走り、天は幾何の線で覆われた。青でも、魔王が撒いた鉛色でもない。淡い斜光が重なり、透明の層が何枚も重ねられた絵具のように空を満たす。
「死の森」と呼ばれた黒い沼は、泥と瘴気の匂いを絶やさず、人の骨まで柔らかくして呑み込む土地だった。今、湿った腐臭は凍った石の匂いへと変わる。泥は白い板へ変じ、足裏には磨いた大理石の冷たさが吸いつく。枯れた幹は内側から光を宿し、表皮は透けた結晶の肌触りに変わった。ざらついた風の音は、薄く澄んだ鈴の重なりに変調する。浄化、と呼ぶには優しい。もっと乱暴だ。世界の表皮を剥がし、別の皮膚を貼り替える行いに他ならない。
「馬鹿な……! 我が闇が……薄い飾りへ変わるだと!」
黒い巨影が吠える。吐息ひとつで草木が灰になり、歩けば国が途切れ、視線が触れたものは全部腐り落ちた。永く、ひたすらに、世界を低い音で震わせ続けてきた存在。その吐き出した魔力は、触れた空間を捻じ切るはずだった。
けれど、光の幕に触れた瞬間、冬の朝に溶ける霜のように輪郭が溶けた。いや、消えるだけではない。面と角度が変えられる。瘴気は薄い膜の上で屈折し、線となり、色となり、天に広がる模様の一部へ組み込まれていく。黒の衝動も憎しみも、透明な構図の素材に変えられていく。
「我は魔王ぞ! 世界を零へ戻す者ぞ! 誰が我を、誰が――」
咆哮は反響した。壁の目に見えない小部屋が音を拾い、余韻の大きさを調整する。低音は少し抑えられ、高音は細く伸び、ひとつの和声になって空間の隅へ吸い込まれた。荘厳な合唱のように聞こえたのは、意図した効果だ。
光を浴びた銀髪が、星砂を混ぜた絹糸みたいにきらりと動いた。指揮台に立つ人間の静かな横顔。いや、もっと近い。世界の輪郭を撫でて線を描く手つき。アレスはただ見つめる。視線は冷たいのに、奥に熱がある。壁の向こうで、なにかが鳴っているのを聴くみたいに。
「……音が混ざる」
短く言い、指を一つ折った。空の線が微かにずれて、光の層が一枚、より薄くなる。風が変わり、温度がほんの少し落ちる。
「貴様……っ、人間が、我を雑音と呼ぶか!」
魔王の怒りは重たかった。闇が凝って長い刃となる。空間の縫い目を切り離し、次元の縁を裂くための黒い刀身。見た者の神経が先に切れて、痛みが追いつく前に感覚が終わるような刃だ。
刃が降りた。角度は完璧。躊躇はない。――ただ。
アレスは見上げもしない。顎の高さが一寸も動かない。視界の端、歪な黒だけが近づいてくるのを嫌うように、眉間に小さな影を刻む。
右隣、静かな息が寄り添っていた。竜姫エララの体温が、薄い布越しに伝わる。左腕は水晶だ。指先まで硬い。光を受けて虹を撒く。それが代償だと誰もがわかる形。彼女はそれを気にする様子を見せない。頬は温かい色を帯び、視線は横顔から離れない。
「アレス様……今日の色、触れるだけで胸が鳴ります。あの黒、こんなふうに散らすなんて、他の誰にできるでしょうね」
言葉に合わせず、彼女の背で冷気が揺らめいた。長い髪がわずかに浮き、床に淡い霜の線が走る。微笑みはやわらかい。目だけが動かない。まっすぐ、横に。
「でもね、視界に触れてくるのは、気に入らないの。あれ、あなたの輪郭に擦れたでしょう? 私、少しだけ手を動かしてもいい?」
足先が半歩出る。結晶の指が衣の裾に触れて、薄く音が鳴った。
アレスは掌を軽く上げただけだ。止まる。細い動作で、すべてが止まる。
「あとでだ、エララ。今は要らない」
「……わかった。じゃあ見てる。いちばん近いところで」
彼女は小さく息を吸い、頬に手の甲を当てた。水晶の冷たさで熱を落ち着ける仕草だ。背後の冷気は細くしぼみ、床の霜が音もなく消える。
黒の刃が、光の幕に触れた。ぱき、と乾いた音。七つの色に割れ、紙のように軽く舞い落ちた。祝祭の紙片みたいに。魔王が目を見張る。理解という名の床が、足の下からすべて抜け落ちる気配。
「……うるさい」
アレスが囁く。指先を払った。その一拍で、刃から残った名残の音も、重たい唸りも、全部吸い込まれた。
「貴様ァ――!」
黒い塊が吠えて暴れる。腕を振るい、爪で壁を刻もうとする。口から熱が噴き出す。炎は色がついていない。赤でも青でもなく、視神経を焼く無色。光の網はそれを受け、薄い揺らめきだけをひとつ増やした。受けた衝撃は、内側で回され、強度の糧に変わる。動けば動くほど、檻は厚くなる。
「動くな。ここは私の庭だ」
アレスは言う。声は平板。耳の近くで鳴る水音のように一定だ。
「外からの手は触れられない。色は私が決める。線もだ」
「庭、だと……? 我がいる場所が、貴様の遊び場だと言うのか!」
魔王の影が、壁に散った光を乱暴に蹴るように揺れた。
「遊びなら、もっと汚していい。ここは違う」
指が空中で二度、三度と軌跡を描く。その度に、光の線は角を増やし、多面体が重なっていく。魔王を中心とした空間が、宝石の内部のような切り子の層で包まれた。精緻という言葉を形にしたかのような檻だ。呼吸の音さえ、形をもつ。
「閉じ込めるつもりか! 我は――」
「お前の黒、その形、その手癖。全部がずれている。調和を壊す」
アレスは淡い息を吐いた。微かな石の粉の匂い。磨いた床の上に落ちる光の粒が、角度を変えた。
「だから、直す」
魔王の体表に触れた光が、薄い蒸気のように立ち上る。焦げる香りはない。熱も冷えもない。皮膚が肩から剥がれる感覚も、痛みも欠けている。代わりに、輪郭がもぎ取られては別の場所で組まれていく違和感がある。変換、と呼ぶしかない現象が、何度も何度も繰り返される。
「ぐ、あああっ! や、やめ――何を、何をしている! 我を、我を何にする気だ!」
「消えるわけじゃない」
アレスは首を傾げた。
「昇華だ」
ひどく簡単に言う。目は、作品の完成を待つ時の目だっている。
「我は世界の呪いぞ! そうだ、思い出したぞ、人間。貴様は一度、消えたではないか。第七の戦いで、骨も魂も、無へ流したはずだ!」
魔王が唇を歪め、低く笑おうとして失敗する。口角が引きつっただけだ。
「戻るはずのないものが戻り、我の庭を塗り替える。何の理屈だ、それは!」
エララがそっと笑った。音は出さない笑みだ。視線だけで魔王を見る。冷たい視線。凍った川の上に立っているような静けさが、彼女の背中から漏れる。
「理屈なら、ここにあるもの全部で説明できるわ。――いえ、しなくてもいいでしょうね。私が連れ戻した。そういうこと」
水晶の左手が、胸元で合わせられる。透明な爪が、布にかすかな引っかかりを作った。
「代わりに、指が動かない日が増えたの。握るとね、光が指の中で転がるのよ。ねえ、見える?」
「エララ」
アレスは横目に彼女を見る。薄い微笑。それだけで、背の冷気はまた細くなった。
「私は足りないものだけ拾った。お前は余計に渡しすぎた」
「足りる、足りない……その言い方、好き。あなたの言葉で私は温度が決まるの」
彼女が立ち位置をほんの少し調整する。光の角度が変わり、アレスの頬に落ちる影が薄くなる。
「邪魔してるものは、ひとつだけ。ねえ、あれ、早く片づけて。あなたの視界に濁りが残ると、胸が痛むの」
魔王は二人のやり取りに歯軋りを立てた。音はまた壁に吸われ、薄いベルの連なりになって消えた。
「貴様ら、何を――我を、飾りにする気か!」
「そうだな」
アレスは首肯した。静かに。
「お前の闇は、ガラスの奥に閉じ込めた方が映える。設計のうちだ」
「ふざけ――」
「ふざけていない」
言葉と同時に、多面体の層が縮む。刃が内側へ畳まれるように、光の面が寄り、魔王の巨体は圧迫されていく。骨が鳴る音はない。代わりに、波打つような粒子のざわめきがあった。触れた部分から、黒は微細な光へほぐされ、空中に散らばる。それがまた、別の面へ吸い込まれ、形を取る。
頬。肩。胸甲。漆黒の鎧は、別の黒へ変わる。ガラスの中で冷えた火のように光を飲む黒曜の肌だ。吐き出していた瘴気は、薄い霧の姿で彫像の周囲に定着した。触れれば湿っているのに、水ではない。息に触れても冷えない。存在だけが残り、質量はない。魔王の顔は、歪んだ状態で止まった。目は見開いている。叫びは閉じた唇の奥で固まった。
「……これが、完成形だ」
アレスは少し離れて眺めた。光の加減を見るため、角度を変える。肩に落ちる光の線が乱れないよう、右手で空中の別の線を一本だけ、ほんの少しだけ撫で直す。床に落ちた光の粒が、星砂みたいに散った。
「見事、でしょう」
耳の近くで、微笑む声がそっと落ちた。エララが背中に頬を寄せる。熱が伝わる。頸の後ろに彼女の髪が薄く触れ、石の匂いに混じって肌の匂いがわずかにする。
アレスは彫像へ視線を戻した。魔王だったものの周囲に漂う霧が、薄く揺れる。音はない。静謐という言葉が似合う沈み。その静けさは、耳ではなく皮膚で感じる。空気の重みが安定し、呼吸が一定になる。美しい。あえて言葉にすると、彼の美意識の的に触れていた。
「お前は、ここに残る」
彼は彫像に向かって告げた。それが遺言ではなく、配置の確認のような調子なのが、決定の重さを際立たせた。
「永遠に、ここで役目を果たせ」
淡い光が像の輪郭をなぞる。角が立たず、面が滑る。瑕疵は見つからない。
像の中から、かすかな名残が漏れかけた。言葉にならない残響。だが、光が一つ揺らいだだけで、音は止まった。
「気に入らないなら、黙っていろ」
アレスはささやく。軽い揶揄に聞こえるほど短い。エララが肩で笑う。声にしない笑いは、氷が薄く割れる音に似ていた。
だが、足の裏に微かな震えが伝わった。結界の外縁から。遠い。しかし確かな圧。魔王の本体は砕けたが、世界に撒かれた瘴気の残滓はまだ脈打っている。この檻の中の彫像は核に過ぎない。枝葉は外に広がったまま。
「……まだ、終わっていない」
アレスは顔を上げた。天の幾何が、外縁の一角で揺らいでいる。微かな歪み。彼の美意識が許さない種類の乱れ。
「外に出る。残りを片づける」
エララが背中から離れた。水晶の左手が拳を作り、目に冷たい光が戻る。
「一緒に行く」
「当然だ。お前の紅がなければ、外縁の色彩が足りない」
彼女は笑った。牙が覗く。戦いの前の笑みだ。
アレスは掌を翻し、多面体の層に一筋の道を開いた。光の壁が左右に割れ、外の空気が流れ込む。湿った土と腐葉の匂い。瘴気の残り香。結界内の清浄とは異なる、生々しい世界の匂いだ。
二人は歩き出す。背後で、彫像が永遠の沈黙を守る。光の檻は閉じ、内側の時間は凍る。外へ向かう足取りは静かで、速い。まだ終わっていない。世界はまだ、彼の理想には遠い。




