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第7巻 第4章 エララの涙(1)

冬の星々が放つ凍てつく光が、死の森の黒樹の梢から梢へと鋭く走り抜ける。塩の結晶のように細やかな粒子が夜空から降り注ぎ、それは触れたものを焦がすことなく、ただ配置の均衡を計り、余白を測り、結晶の骨格を繊細に組み替える。消え去ったはずの男が戻ってきた地点、枯れ葉に埋もれた円環の中心に私が立つ。私の瞳には世界が常に設計図であり、すべてが線と面、色彩の対話であり、無秩序さも陰影の一要素として不可欠に映る。


冷気に満ちた空気の中、なおも腐敗の匂いがわずかに漂う。魔王の撒き散らした瘴気は、目に見えぬ流砂のように大地を覆い尽くし、風の透明度を奪い、音の輪郭を鈍らせていた。しかし、私の指先から零れる最小単位の意志、星屑はその瘴気に触れるたびに音もなく形態を変え、中和の律動を奏でながら世界のあらゆる層へ浸透していく。


エララが静かに背後から腕を回し、その竜鱗は夜露の煌めきを帯びている。彼女の胸の内で燃え盛る竜心は、前巻で自らを裂き、私を呼び戻すために星血を流した。その傷はまだ完全に癒えておらず、刻まれた跡は赤い糸の如く脈動し、彼女の愛情の証として、今も熱を孕んでいる。銀に近い白の髪の一本一本が星屑の繊維を引き寄せ、彼女自身が結界の揺るぎない支点となっている。


「あなたの視界を曇らせるものはすべて消し去るわ。どんな者であろうと、何であろうと。あなたの前に醜悪なものを残さない」


「醜悪なものもまた、陰影の一部だ」私は目を閉じて呼吸を整える。「だが瘴気は陰影ではなく、破壊そのものだ。形なき破壊は世界の構成要素になり得ない。だからこそ、中和する。それは焦がすのではなく、正しい場所へ戻す行為だ」


エララは頷きながらも微笑みを浮かべる。「あなたがそう言うなら、私はその中和に必要なだけ血と炎を貸そう。あなたのためだけに、世界を整える」


彼女の声は執着の色に染まっていたが、それは今や私にとって不可欠な色彩となっている。私は両腕を広げ、星屑の流れを感じ取る。あの粒子は単なる光ではなく、遥か古代の星々が燃え尽きた後に残された記憶の砂。その中に私の意志が織り込まれている。微細な幾何学構造を持ち、音の振動数に応じて反応し、匂いにも、温度にも、視線にも敏感に反応する。私が世界に線を引くたび、星屑は筆であり絵具であり、素材であり法となる。


「……うるさい」


指を鳴らす。それだけで、敵の軍勢が幾何学模様の光塵に還元された。


それに呼応するように、エララが竜語の古代の響きを吐息のように紡ぐ。「星の炎よ、彼の意図に従え。私の心臓を支柱に、骨を梁に、皮膚を膜に。愛の血を糊に、炎に。彼の描く線以外、私は認めない。彼の願う秩序だけが世界。彼以外の視線は、焼き尽くす」


彼女の詠唱は、刃のような鋭さと蜜の甘さを帯びていた。彼女が注ぎ込むエネルギーは凶暴な炎の如く強烈で、世界を焼き尽くす力を秘めている。その奔流を受け止め、アレスは星屑の理に巧みに溶け込ませる。星屑は炎を吸収し、冷たく凍てつく火へと変質させる。粒子一つ一つが、その内部構造を微細な変化で塗り替える。構造は雪の結晶の六角形を思わせるが、さらにその内部に十二の小さな格子が組み込まれ、下位層には無数の点群が広がる。点群は瘴気の分子に接触するたびに反応を変え、瘴気の配列を乱さず、熱を奪うことなく、構造のみを「正しい配置」へと修復していく。


地の奥底から、魔王の声が響いた。低く、重く、色彩を失った音が空間を揺らす。「また秩序を。再び装飾を。終わりなき無意味な飾り立てを。崩す悦びを忘れてしまったのか、結界師よ」


アレスは応答を拒み、言葉を発することを避けた。話しながら線を引く行為を嫌い、言葉は余計な装飾に過ぎず、線は沈黙のまま引かれるべきだと心得ている。首を傾げ、微細に変化する風の角度を調整し、星屑の降り方を繊細に変化させた。粒子の速度が緩み、死の森の黒々とした樹々の間を縫うように降り積もる。積もるその様もまた、ひとつの調和だった。積もり方には法則があり、枝の強度や角度、湿度に応じて、配置は最も繊細で調和的な形へと自律的に変化していく。星屑が織りなす薄膜は単なる光の層ではなく、音を調律する膜へと昇華した。風の囁きは澄み渡り、遠くの水音が清らかに大地へと響きわたる。


「見て」エララの囁きが耳元で震える。「あなたの星屑が、世界の隅々に降り注いでいる」


二人の視線が向く先では、死の森を越え、遠く連なる山脈の稜線にも星屑が触れた。砂漠の波打つ砂丘、氷海の砕けた氷板、都の崩れた塔の隙間、そして海の表皮までもが星屑に包まれる。降り注ぎ、沈み、漂い、揺らぎ、冷たい光を放つ。冷たさは炎を受け止めるための条件であり、星屑の薄膜は世界全体に張り巡らされ、見えざる天蓋となって広がった。夜空の紺碧に溶け込み、星々の間から降り注ぐ本物の光と揺らぎが絡み合い、違感のない共鳴を紡ぎ出す。


「これが、究極の調和だ」アレスの声は幼子のようにひそやかだ。至高に近づくほど、彼の声は内側へと閉じこもり、小さくなる。目の前に広がる図面が整い、興奮は内面へと沈潜していった。それでも手は止まらずに動き続ける。天空と大地の距離、樹々の間合い、砂粒の密度、波の周期、空気の屈折率。全ての数値を向けて探り、精密に調整する。星屑はその探求に呼応し、世界のあらゆる局所で形を変え、薄い層を幾重にも重ねていく。


魔王の瘴気は激しく抵抗を試みた。瘴気は色を持たず、黒でも灰色でもなく、ただ「欠損の総量」として存在する。そこに音も匂いも温度もなく、朽ち果てた心に侵入しやすく、人を無感覚に変え、視界を曇らせる。星屑が瘴気に触れるたび、粒子は繊細な震えを生じさせ、その震えは共鳴へと発展し、瘴気の無を音楽へと昇華させる。低音から始まった調べは徐々に高まり、やがて均衡の地へと落ち着く。星屑による中和は音楽であり、香りでもあった。朽ちた匂いは消え去り、代わりに石や水や風の香りが満ちあふれる。空気は軽やかに変わり、肌が夜空に触れるかのような感覚が広がる。人々の胸に押し込められた圧力は緩み、視界は鮮やかに開かれた。


「中和が始まった」アレスは粒子の動きを見つめながら告げる。「第一位相は成功。瘴気の無の配列が崩れ、構成要素へと還元された。第二位相は再配列。構成要素はこの空間の法則に従い配置される。第三位相は祝福。人にとって意味ある音、香り、光が戻る」


「急いで」エララの指が背中に食い込み、焦燥を訴える。「早くあなたの設計した世界で覆い尽くして。彼の呼吸が、あなたの調和を汚してしまう気がして、耐えられないの」


「急ぐ必要はない。美は慌てることを知らない」アレスは張り詰めた天蓋の端を視野に捕らえ、この結界が世界の果てにまで届く精緻な計算を頭の中で進めていた。彼の脳裏には広大な世界地図が広がり、緯度経度、気圧帯、風の流れ、海流、山脈の方向、朽ち果てた都市の影、そして人々が求める穏やかな線――それらすべての変数が複雑に絡み合い、表の中で軽やかに舞っている。彼は微笑みを浮かべた。外部の目線など必要としない。自身の美意識こそ、世界の基準として選び抜いた。それが冷酷さの源であり、同時に優しさの根幹でもある。彼の美は人を救い、その救いは従属を伴う。


魔王は嘲笑した。「救いとは縛りだ。美とは牢獄だ。結界師よ、お前は人々を閉じ込める。設計された空間に」


「その設計された空間こそが楽園だ」エララは牙を剥いて反論する。「あなたの瘴気は牢獄。感覚を蝕み、思考を壊す。彼の世界は感覚を取り戻す場所。彼の美は、世界を動かすための均衡。私は彼の美に囚われることを選んだ。彼の牢獄で息をし、彼の視線を通してのみ世界を認識する。それ以外は必要ない」


アレスは彼女の言葉に目を向けることなく、両手を広げた。詠唱が再び流れ出し、その長さは前回を凌ぐ。


「星々の滅びを数えよ。個の終焉が群の秩序を生む。砂は風に溶け、風は音に溶け、音は水に溶け、水は光に溶け、光は花に溶け、花は石に溶ける。溶けて、そして配列せよ。十二の環の外に十三番目の幽環を。幽環は人の心の影を測るためにある。影が濃ければ、光は深く。影が薄ければ、光は淡く。世界のどこにも、過剰な白を生み出してはならない。白は視線を殺し、黒は心を抹殺し、灰は魂を眠らせる。星屑よ、灰を捨てよ。灰を無に。無を音に。音を線に。線を世界に。法を宣言する。設計された空間の名は、瑕疵のない世界」


死の森の外、砂漠の真ん中で流浪の民が星空を仰ぎ見る。星屑が降り注ぎ、砂の粒子が冷えて固まり、絵画のような砂紋を刻んでいる。彼らの頬は日差しに焼かれた赤みを帯びているが、星屑の冷たい光が肌に落ち、焼けつく熱を徐々に和らげている。遠く北の氷海では、氷の裂け目が一つ一つ閉じ、氷の板が軋みながらも歌い始めている。都の廃墟では、倒れた柱の周囲に光の筋が走り、崩れた石がまるで一枚の絵画の構図を形作り始めていた。海の上では青色が深まり、波の頂点が星のように白く輝く。世界は星屑に覆われ、その星屑は透過する膜となって全体を包み広げている。


魔王の瘴気はその膜に触れるたびに和らぎ、中和されていく。中和の過程は目を奪うほどの光景だ。瘴気の虚無は星屑に吸い込まれ、匂いのない空気は徐々に香りへと変化する。その香りは大地の匂い、木の匂い、水の匂い、火の匂い、風の匂いを帯びている。香りは人々を眠りから覚まし、目が開き、涙が頬を伝う。瘴気は「失われたものたちの沈黙」であり、星屑はその沈黙を歌に変え、歌は記憶を呼び覚まし、人々の手のひらに温もりを取り戻す。


「痛みはある?」エララが囁く。彼女を支える心臓が軋みを感じさせる。「あなたの世界のために、私の血はどれほど流れたの?どれだけ流せば、あなたは満足する?」


「もう十分だ」アレスは彼女の手の甲に自身の手を重ねる。彼の指先は冷たく、しかしその冷たさは落ち着きと静謐さを宿している。「君の血で、この世界は十分に温まった。あとは、整列させるだけだ」


彼は彼女を見ることなく、視線を逸らすことで彼女をこの世界の一部へと溶け込ませていく。彼女の存在は彼の設計された空間の核心を成す。正確に配置されるべき色彩、絶対に外せない点。彼は彼女を配列し、その他すべてを従わせる。もし誰かがその配列に異議を唱えれば、それは彼の世界ではなくなる。彼に容赦はない。美は慈悲とは異なる。それでも、彼の美は救済の形を持つことを、世界は今、静かに感じ取り始めている。


魔王の声が揺らぐ。「お前は世界を救うふりをしながら、己の視線で世界を支配する。星屑の膜は天蓋であり、天蓋は監視網。お前はすべてを見通しているのだ」


「見ること、それ自体が愛の形だ」──エララの笑みは鋭利な針のように響く。「彼の視線は、あなたの瘴気を凌駕する強度を持つ。彼の眼差しの中で私は燃え上がり、その炎を彼の線に沿わせているのだ」


アレスの詠唱は最終段階へと突入する。


「最終律、祝福。設計された空間の外には設計された空間は存在しない。世界全体こそが内側である。星屑の粒子よ、重力の束縛を解け。その代わりに、美の軌跡に従え。汚れよ、貴様は悪ではなく、陰影として配されるべき存在だ。破壊よ、貴様は美に属さず、中和の中に位置せよ。魔王の瘴気よ、貴様の無は私の有に変換され、音となる。ここに宣言する。美は法であり、法は祝福、祝福は世界、世界は設計された空間、設計された空間は瑕疵のないものだ」


星屑は静寂を保ち、その後、世界全体に微細な震動が広がる。大地の下の鉱脈が共鳴し、砂の下の水脈もまた呼応する。空の上の風が波紋を描き、遠方の星々が連鎖反応を起こす。魔王の瘴気はこの共鳴の波に抗えず、ゆっくり崩れ去る。崩壊の過程は柔和で、何かが砕ける音は一切聞こえない。ただ、無が有へと移り変わり、そのたびに空気の味わいが変化する。金属のような苦味は消え去り、甘美な果実の香りが漂う。死の森の黒樹は深緑へと色を戻し、葉の表面に星屑の薄膜が光の角度を調整し、葉脈の影が地面に柔らかく落ちる。かつて腐敗していた土壌は温もりと湿気を帯び、菌糸の網が白い糸を伸ばして無数の小さな命の芽を迎え入れる。


「あなたの設計された空間は、完成に近づいている」──エララの声が震動を孕む。「あなたの世界の中で、私たちは生き続ける。私だけがあなたの中心に立ち、誰もあなたに触れることは許されない。誰もあなたの眼差しを奪えず、誰もあなたの手の動きを止めることはできないのだ」


「君こそが中心だ」──アレスは率直に認める。「君の狂気は極めて精緻な愛の形態の中で最も鋭利な線であり、君を核に据えて線を引く。君の血は紅く、君の怨念は漆黒、そして君の君への愛は透明である。その透明さを私は基準に採用している。誰にも見えぬ色だが、私には確かに見える。それこそが私の理想の美だ」


エララは満足げに息を吐く。勝ち誇った猫のような表情で、その満足は彼の言葉における自分の存在位置から来るものだった。彼女は彼の設計された空間の核であり、世界中の星屑を髪に絡め、竜の尾を大地に伸ばして世界の果てを掴み、結界の布を引き伸ばす。魔王の瘴気がその布に触れるたび、中和されて布の模様に変貌する。瘴気の痕跡は模様の陰影となって設計された空間の一部となる。


「見よ」──魔王の嘶きが空気を震わせる。彼の姿はまだ顕現せず、瘴気の源は地下深く、古の穴の奥に潜む。「お前の星屑は私の瘴気を飲み込み尽くした。しかし飲み込むほどに飢えは増す。飢えは永遠だ。お前の理想は飢え続け、欠損を埋めようとする限り、飢えは尽きることがない」


「飢えこそが創造の原動力だ」──アレスは言葉を紡ぐ。「飢えは線を延ばす力であり、線を延ばし続ける限り、理想は死を知らない」


星屑の薄膜は世界の隅々まで伸びる。海の水平線の彼方、空の青の頂点、雪山の鋭峰、砂漠の中心、都市の心臓部、廃墟の隙間、地下洞窟、水底、火口。薄膜は多層に重なり、目に見えぬものだが、触れた者は確かに感じる。その感触に涙を流す者もいる。涙は中和の証。硬さが柔らぎ、冷たさが温もりへと変わる。魔王の瘴気は完全に中和され、世界から無色の要素が消え去り始める。消失は滅びを意味せず、無が変化し、音へと転じる。音は人の言葉に近づき、人々は互いの声を聴き合う。かつての沈黙は深い溝だったが、その溝は今、静かに埋められている。


アレスは最後の詠唱の余韻を耳に残しながら、崩れゆく世界の記憶をふと呼び覚ます。彼が消えた瞬間が存在した。世界の糸が断たれ、すべてが重力の束縛から逃れ、形を崩し始めた。エララは自らの心臓を裂き、竜姫の血は星の灯火のように煌めく。光の粒子が零れ落ち、彼の名を呼び続ける。その呼び声は狂気を孕み、狂気は純度を増すほどに研ぎ澄まされる。研ぎ澄まされた狂気に、美が耳を澄ます。彼は帰還した。戻るその瞬間に目にしたのは、彼のいない設計された空間だった。彼のいないその空間は空虚であり、その虚無は彼の存在に耐え難いものだった。彼は帰還し、線を引き、今、この世界に無数の線を巡らせている。


「ありがとう」彼の声は小さく震える。エララの肩に口を寄せて告げる。「君が呼び、君が支えた。君の愛こそが、私をこの結界の内側へと戻した。君の愛は狂気に満ちている。しかし、私の感覚もまた、その狂気と共鳴している。互いに響き合うのだ」


「響き合うなら、私たちは結ばれるべき」エララは突然そう宣言した。「あなたの結界と私の血が一つになる。指輪は不要。指輪に代わるものは、世界を包み込む力」


「包み込んだ」アレスは頷きを返す。「世界はリングのようなもの。星屑の環。感覚の輪。君の髪が織りなす輪」


呼吸が交わり、温かい空気が生まれ、その気配さえ星屑の薄膜に触れて整えられる。魔王の声は遠ざかるのではなく、薄い膜の中で音色を変えていく。敵意に満ちた音は消え入り、無の響きは薄れ、木の葉が擦れる音、海の潮騒、子どもたちの笑い声へと移ろう。世界全体が薄く透明な結界の中に包まれているように見える。その結界は閉じられていない。蓋は存在しない。蓋がなくとも、世界は守られている。守護は監視ではなく、監視とは愛の視線であり、その視線は線となり、線は世界そのものを形作る。


「終わったの?」焦りを含んだ声がエララから漏れる。待つことを嫌う彼女にとって、待機の時間は苦痛そのものだ。彼女は彼の手を握り締め、まるで壊してしまいそうなほどの力を込める。


「終わりと始まりは一体だ」アレスは答えた。「完成という概念は死を意味する。しかし、今、この設計された空間は極めて近い完成を迎えた。瘴気は完全に浄化され、世界は私の線の上に生まれ変わる」


エララの微笑みが深まる。「ならば、あなたの線に私を重ねて。あなたの結界に、私の炎を縫い付けて。誰一人として破れぬように」


「必要な縫い目だけを」アレスの眼差しは冷たく、しかし内側には熱い情熱が宿る。「縫い目だらけでは、調和を損なう」


彼は両手を広げ、薄膜の高さを微調整する。星屑の膜がわずかに降り、世界全体が音もなく深い息を吐くかのように緩みを見せる。緩みこそが調和の証だ。緊張と弛緩、過剰な弛緩は堕落、過剰な緊張は悲鳴を呼ぶ。その狭間にある緻密な線が、いま世界へと引かれた。魔王の瘴気は消え去り、その消失は恐怖をもたらさない。消えるべきものは消え、留まるべきものだけが存在し続ける。


「魔王」エララは地の底へ向けて囁く。「あなたの虚無が、感覚の中で歌となった。もはや彼の織りなす世界を汚すことは許されない。あなたが遺したものは陰影に過ぎず、その陰影はこの設計された空間の味わいとなる。あなたは私の爪のささくれよりも、はるかに小さい存在」


魔王は笑いを止め、声も消えた。瘴気の根源が沈黙したわけではない。星屑の薄膜が音を選別し、必要な音だけを世界に通す。必要な音は風のざわめき、鳥のさえずり、波のうねり、人々の声、笑い、涙、囁き。そしてアレスの心の奥底から紡ぎ出される小さな詠唱。彼はなお線を引き続ける。線は世界の緯度と経度を再定め、人々の営みの線、街路の線、森の小径、航路、川の流れを穏やかに再配置する。すべてが調和へと近づいたとき、人々は安堵を得る。安堵は彼が示す最上の慈しみだ。慈しみは支配の形態でもある。支配は悪ではなく、秩序。秩序は調和。調和は祝福。


エララは彼の首筋に唇を寄せ、告げる。「愛している」


「繊細だね」アレスはぎこちなく返す。彼の言葉はいつも少しだけずれて響く。その微かな狂いこそが彼の個性となる。愛の言葉でさえ、彼の手にかかれば一本の線となる。その線は星屑の粒子に命じられ、世界へ「祝福」を散布していく。


世界は夜の闇に包まれている。闇は深く、深いからこそ星は輝きを増す。星は遠く、遠いからこそ人は憧れを抱く。憧れは線を引き、その伸びた線は世界を包み込んだ。星屑の防壁が全てを覆い尽くす。薄く張られた膜は目に見えず、だが触れれば存在を確かに感じさせる。強すぎず弱すぎず、きわめて精緻な強度で張り詰めていた。魔王の瘴気は完全に中和され、その溶解が配置を生み、配置は祝福へと変わる。祝福は光となり、世界の隅々にまで満ちていく。夜の葉は光を帯び、石は輝きを宿し、水面は煌めく。風が光を纏い、人々は笑い、涙し、抱きしめ合う。彼らは知らない。誰がこの救いをもたらしたのかを。知らなくていいのだ。知られぬこともまた、味わい深いもの。彼らがただ「美しい」と感じることこそが、アレスの願いであり、感じることが彼の理想の世界を形作っている。


死の森の中心に佇む二人。結界師と竜姫。その影が地面に落ちると、星屑の膜に柔らかく溶け込み、輪郭はぼやけて世界の陰影に融け込む。エララの指がアレスの胸の上に置かれる。彼の鼓動がその掌の中に小さな波紋を生み出す。その脈動もまた星屑の共鳴の一片となり、世界は二人の鼓動に満たされている。彼らは世界の核であり、世界は彼らの設計された空間であり、その空間は祝福の輪となって広がっている。


「これで、あなたの理想が形になった」エララの声は柔和でありながら、内に秘めた刃の存在を隠さない。「誰にも渡さない。誰にも触れさせない。あなたの世界は私のもの。私の身体で守り抜く」


「世界は誰のものでもあるまい」アレスは微笑む。その微笑みは珍しい。彼の表情に稀に浮かぶ柔らかな翳り。「だが、私の視線の中心は君にある。私の世界の核は、君だ」


エララは目を閉じ、世界の息づかいを感じ取る。星屑の膜が彼女の肌にそっと触れ、竜の心臓の傷跡に触れてもその熱を奪わず、ただ存在を配置する。傷の位置は美の中枢に重ねられ、彼女の狂おしい愛は彼の理想の法として受け入れられ、透明な空気の中へ溶けていく。その法を知る者は誰もいない。知らなくていい。法は目に映らないからこそ強固だ。見えるものは壊れてしまう。見えぬものだけが、世界を支える柱となる。


「次は」エララが瞳を開く。星を映すその瞳が冷たく光る。「彼を完全に消し去る。彼をあなたの世界の陰に変える。影と呼べぬ、透明な存在に」


「中和は破壊ではない」アレスはひそかに告げる。「彼は既に無となった。無は影にすら形を与えない。世界の法に溶け込み、私の設計した空間に吸収された。彼を消し去る必要はない。彼はもはや世界を汚すことができない」


エララは首をかしげるが、すぐに微笑みながら頷いた。「あなたの言葉が法。あなたの望みが私の望み。あなたが満たされれば、私は満たされる。あなたが飢えれば、私は血を流す」


アレスは彼女の手を握り締める。その手は温かく、さらに星屑の膜が包み込むことで温もりを増す。世界は温もりに満ちている。夜の闇の中でもなお温かい。火の温度ではない。温かさは秩序そのもの。秩序は理想。理想は祝福。祝福は終わりを知らない。終わりを迎えないが、終章の幕は開かれた。星屑の防壁が世界を覆い尽くす中で、彼らの真実の愛は法となり、世界となり、設計された空間へと結実する。魔王の瘴気は完全に中和され、ただ理想の陰影へと変じ、世界は歌い始めた。歌声は柔らかく、遠くまで響き渡る。彼らのために。彼らの視線のために。彼らの創り上げた空間のために。


その夜、死の森の上空から一つの星が落ちた。消えることなく、星屑となって薄膜の中へ溶け込んだ。世界はそのことを知らず、ただ穏やかに時を刻む。アレスはそれを知っていた。エララもまた知っていた。二人は目を合わせ、目を閉じ、呼吸を合わせて、設計された空間の中心で静かに祝福の言葉を交わす。


「これで、私の理想だ」アレス。


「永遠の誓い」エララ。


二人の声は星屑の薄膜に溶け込み、世界全体に微かな震動となって広がった。風の中に紛れながらも消え去ることなく、残響として漂うその余韻は祝福の証しだった。祝福は世界そのものとなり、世界は彼らの設計された空間となる。魔王の瘴気は寸分の狂いもなく消え去り、夜の闇は澄み渡り、朝の訪れがゆっくり近づいている。急ぐ必要はない。時の流れは速度を持たず、愛の行方もまた焦ることを知らない。ゆっくり、しかし確実に、世界を満たしていくのは彼らの視線であり、交わる軌跡であり、彼らが築き上げた空間の中に漂う星屑の煌めきでもある。終わりと始まりの境界に立ち尽くし、彼らはただ見つめ続ける。呼吸を重ねながら、世界の瑕疵のない姿を。

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