第1巻 第3章 竜姫の重すぎる忠誠(4)
「待て。待て待て待て」
言葉より先に、足が止まった。肩に落ちた銀灰の髪を指先で払いつつ、視線だけで通りを切り取る。結界の天蓋に触れた朝靄が薄くほどけ、色温度の落ちた光が白壁に反射した。石畳は夜の冷えをゆっくり手放す。漂う湿り気の中、問題の一点だけが浮きすぎる。
「誰が、あれを許可した」
朱の扉。白と灰と青緑の階調で揃えた通りに、一滴だけこぼした絵具。目がそこへ吸い寄せられる。息のリズムが乱れる。
「あ、アレス様。おはようございます」
犬耳の青年ガルドが扉の向こうから顔を出した。寝起きの目を擦っていた手が、私を見た瞬間に固まる。
「ガルド。この扉の色について、説明を求める」
「えっと……赤い扉は、故郷では魔除けでして。縁起が——」
「却下だ」
私は懐から薄い手帳を出した。革の表紙に金文字が沈む。「街区設計指針・第三版」。自分で書き、自分で改訂した街の骨格。
「第二章第四項。『個別家屋の外装色彩は、当該区画に指定された色調範囲内に収めること』。この区画の指定色は白から青灰系。赤は入らない」
「で、でも、少しくらいアクセントが——」
「アクセントは私が決める」
声に力はない。抑えた平坦さのほうが効く。ガルドの喉仏が上下した。
「……分かりました。塗り直します」
「色見本帳の七番から十二番で選べ。迷うなら九番。午前の光を受けたとき、隣家の壁との明度差が一番きれいに出る」
「九番……灰青のやつですね。すぐに塗り直します」
「やれ」
背を向ける。表情は動かさない。視線は通りの奥へスライドする。
空は結界の膜で均された。濁った外光が濾過され、金に寄る柔らかな照度が街を撫でる。白漆喰の壁が光を返し、青灰の屋根が受け止める。石畳は靴裏に乾いた感触を伝える。風路は計画通りで、鍛冶場の煙が上層へ引かれていく。焦げた鉄の匂いが、鼻腔に薄く残る程度で流れて消えた。
「アレス様、おはようございます!」
「今日も指示をありがとうございます、アレス様!」
角の女、鱗の老人、翼の子ら。挨拶の波が起きる。
「手前の看板、少し高い。視界を切る」
私は歩みを止めずに指先で高さを示した。店主が顔を青くして「すぐ直します」と頭を下げる。
「パンの香り、良い。窯口はそのまま。排気は今の角度を維持しろ」
「はい!」
パン屋の少年が、焼き上がりの音とともに笑った。焦げ目の香りは街の呼吸に近い。許容。
「アレス様」
声をかけたのは鍛冶の親方だ。煤で黒くなった額に汗が光る。
「煙、上手く抜けてますな。風が変わっても、上に持ってかれる」
「風路の溝を二本増やした。上層の流れが安定したから、逆流は起きない」
「ありがてえ。表の通りに煙が溜まらねえのは助かります」
「景観を損ねる煙は、排除する」
短い言い切り。親方が太い首を縦に振った。
中央広場に出る。槌音、水音、笑い声。層の違う音が重なって、耳の奥に心地よく響く。噴水は三段の受け皿を流れ落ち、霧状の水が肌に冷たい点を打つ。石の縁に座る子供が、私を見上げた。
「ねえ、アレス様。お水、おいしい」
「湧き水だ。硬度が低い。胃に優しい」
「かど?」
母親が苦笑しながら子の肩を抱く。「難しい話は後でね」と目で合図してくる。
広場の北側では、三階建ての骨組みが空に線を引いている。木の香り。樹皮のざらつきが手のひらに浮かぶようだ。
「おい、そこの柱! 三度傾いてるぞ! アレス様に見つかる前に直せ!」
ボルグの声が場を締めた。背が低く、肩の張ったドワーフの棟梁。鬚に木屑が引っかかっている。
「ボルグ」
呼ぶと、彼は額の汗をぬぐって振り返る。
「おう、アレス様。現場、順調だ。明後日には屋根の骨までいける」
「進行は把握済み。西側の帯飾り、蔓草の浅い彫り物。石は手配済みか」
「ああ、結界の東端の採石場から引いた。目が詰まってて、欠けにくい。腕のいい若いのが彫ってる。なあに、責任は持つ」
「広場沿いの意匠と合わせる。ズレるな」
「分かってるとも。俺だって職人だ。見苦しい筋は残さねえ」
言い切る声が乾いて気持ちいい。私は頷く。
広場の空気は、朝の冷たさを少しだけ残している。木陰に座る老婦人の毛糸が、針先で小さな音を立てた。盤を挟む老人たちの指が、石を置くごとに白い粉を残す。絵本のページがめくられる音。街の音が重なって、耳朶に柔らかく満ちた。
端整だ、と思う。建物の連なり、人の流れ、植栽の配置、光と影の分配。私の図が立ち上がった風景。外の混沌を遮る壁の内側に、私の…私の趣が息をする。
だが、まだ遠い。
南東角に視線を送る。屋根の傾きが僅かにずれている。隣と〇・五度。昨日の風か、施工の誤差か。いずれにせよ、修正対象だ。
手帳を開き、炭筆を走らせる。「南東角・屋根傾斜修正要」。炭の粉が指に移る。筆先が紙をかすめるざらりとした音。
ふ、と止まった。
「傾」の字の一画。刹那、指が迷う。寝不足か。深夜まで新しい区画の図を引いたせいか。いや、次の瞬間には手が動いた。何でもない。
その時、石畳を踏む軽い音が背中に近づいてきた。音は薄く、足裏が石の角を拾う感じが小さく伝わる。誰かは分かる。気配を消さない者。こちらに気づかせることを楽しむ者。
「アレス様。おはようございます」
振り返る。エララ。黒髪が朝の光を拾って、漆の艶のようにきらめいた。紅玉の瞳がこちらを射抜く。白い肌の上、鱗の影が淡く揺れる。人の形をとりきる必要を感じない者の余裕が香る。
今日は淡い藤のドレス。私が寒色系を推奨した日以降、彼女は衣装をそれに合わせてきた。理由は街のためではない。私の言葉を軸にするためだ。
「エララか。早いな」
「巡回の時刻は、覚えましたから」
微笑とともに一歩、間を詰める。手の甲に冷たい気配が走り、彼女の背後、空気が薄く凍る。指先でほどくように、その余波を絞る。結界が小さく震えた。
「ついでだ。南東区画の新築を見に行く。付いてくるなら、気づいた点を言え。お前の目は遠い」
「はい。視るだけで、お役に立てるなら」
視線は柔らかいのに、芯が硬い。従う仕草で、支配を確認する。そういう目だ。私は正面を向いた。
半歩後ろに、エララが付く。彼女が決めた距離。近すぎない、遠すぎない。触れられないが、他者は割り込めない。絶妙な間合いを保つ動き。呼吸音まで合わせてくる。
南東区画。木の匂いが強い。石灰を混ぜた漆喰の香りが甘く残る。砂の袋が通り端に積まれ、結び目から粉が落ちた跡がある。骨組み、壁だけ、塗装前。段階が混在する光景は、目に棘のような違和感を生んだ。だが、急くわけにもいかない。今できる範囲を、最高に仕上げるだけだ。
「アレス様、あの窓」
エララが顎で示す。左手の二階。私は視線を走らせた。
「ああ。左右の枠の幅が違う。右が二ミリ太い」
「やっぱり。私の目では、三ミリくらいかと思いました」
「二だ。木目の密度、影の出方、金具の位置。全部合わせて二」
「学べて嬉しい」
エララが微笑む。笑みの奥で、何かがきしむ音がした気がする。彼女はその音を楽しむ。
手帳に八つ目の修正点を書く。炭筆の芯が減る。ポケットに差した削り器の金が冷たい。
区画の奥。新築三棟が並ぶ。左は外壁の刷毛が最後の往復を描いている。中央は大工が梯子の上で枠を合わせ、金槌の高い音が風に刺さる。右は骨だけ。木の端から樹液の甘い匂いが微かに漂った。
三棟の屋根の高さが、揃っていない。左が一番高い。中央がわずかに低い。右は柱の丈から見て、三つの中で最も低くなる見込み。通りから見た稜線が、なだらかに下る形になる。
「エララ」
「はい」
「あの三棟の棟梁を呼べ。今すぐ」
語尾を落とすと、彼女はすでに動いていた。空気を切り裂く小さな音。職人に声が届くまで、二十数心拍。
熊のような体躯の獣人、青い肌の水人族、角の欠けた鬼人の古い手。三人の棟梁が前に並ぶ。木屑と汗の匂いが混ざる。
「聞け」
私の声は乾いている。三人の目が上がる。
「この三棟の屋根高を揃えるつもりはあるか」
「え……」
獣人が自分の棟と隣を見比べる。
「揃えるってのは……図の通りにやってますが」
「図の問題ではない。通りの稜線の問題だ」
手帳を開き、簡単な断面図を描く。三本の線、数字、通りからの視線角。炭の粉が漂い、鼻腔に乾いた匂いが入る。
「人は歩くとき、無意識に屋根の線を追う。線が水平なら安定を感じる。上下が均等なら、リズムが生まれる。不規則な高低差は、目に違和を残す。この三棟は左から右へ不規則に下がる。修正しろ」
「し、しかし、右端はまだ骨だけでして。今さら高さを——」
「できる。柱を延ばすか、土台を上げるか。やり方は任せる。ただし三棟の差は五センチ以内。期限は三日後の検査まで」
古い鬼人の目が細くなった。反発ではない。納得だ。職人の指が、長年の勘で合点を出す。
「……承知しました。やり直します」
「よろしい」
私が手帳を閉じる音が、薄い金属音のように耳に残る。エララが一歩、横に寄る。視線が私の横顔を撫でた。
「アレス様は、本当に細部が見えるのですね」
「細部ではない。全体だ」
「全体」
「街は無数の細い点の積み重ねだ。一つ一つは小さい。だが、百、千と重なれば全体が決まる。私が見ているのは点ではなく、その裏にある意志だ」
「……ええ」
エララは薄く笑う。声音は静かで、背後の空気だけが僅かに冷える。誰かが遠くでくしゃみをした。
通りを戻る。朝の光が結界を透過し、角度を変えて落ちる。壁に沿った影が、正午に向けてゆっくり短くなる。槌音、言葉、笑い。混ざり合い、広がる。死の森の中に生まれた小さな王国。その中心に、私の庭。
「アレス様」
すれ違った有翼の少年が勇気を出した顔で声を掛けてきた。
「噴水のとなりの木、僕の家からも見えるんだ。葉っぱがきらきらしてる」
「銀葉樹だ。朝の斜光があたると、葉の裏が光る」
「うん!」
「でも、枝が伸びすぎたら切る。通りの線を隠すな」
「は、はい!」
少年が羽をぱたつかせて笑い、走っていく。私は手帳の片隅に、小さく「銀葉樹・南側剪定」と書いた。
パン屋の前をもう一度通る。焼き上がりの香りの層が濃くなり、腹の底に暖かさが落ちた。空気の温度が一度だけ上がり、また流れて戻る。
「アレス様、さっきの赤い扉、すぐ塗り直しますから!」
ガルドが道の端から叫んだ。手には九番の灰青の塗料缶。
「乾燥に時間を取れ。急ぐな。塗膜が波打つ」
「はい!」
彼の耳がぴくりと動き、尻尾が申し訳なさそうに下がる。私は頷きだけ返した。
「先ほど、手が止まりましたね」
エララが小さく言う。私の歩調に合わせて、靴音の間まで合わせてくる。
「寝不足だ」
「昨夜は、図面を?」
「ああ。新区画の骨組みの線を引いた」
「……」
一拍置いて、エララは微笑む。唇が薄く開き、閉じる。言葉の代わりに、彼女の影が私の影と重なって伸びた。重なりすぎない距離で。
「水の音、好きです」
突然、彼女が言葉を変える。
「あれは、人の声と混ざっても邪魔にならない。昨夜、噴水のそばで少し立っていました」
「水音の帯域を決めた。子供の声の上に乗らないように」
「そう。…素敵」
頷きだけ返す。
街は私の図から立ち上がった。外の怪物が踏み入れない壁の内側に、白い壁、灰の縁取り、青灰の屋根。風は決めた路を通り、煙は上に抜ける。香りは残すべきものだけが残る。人の動きは、通りの幅と曲がりで滑らかに流れる。
端整だ。だが、まだ遠い。
「アレス様」
今度の呼びかけは別の職人だ。水人族の若い者が両手を拭きながら駆けてくる。
「中央通りの角、看板の文字、間隔が詰まって読みにくいとお客から」
「字体を変えろ。線が太い。間を広げる。空白もデザインだ」
「はい、空白も」
彼が反芻するように繰り返し、走って戻った。
私は手帳を閉じ、掌で革の表紙の肌理をなぞる。柔らかな手触り。人の指の油を吸い込んで、色が深くなった。「街区設計指針・第三版」。この街の憲法。私が書いたもの。私が書き換えるもの。
この庭は完成に向かっている。私の美…趣が、形になっている。一分の隙も許さない意図が、石に、木に、水に、風に、染み込んでいく。
けれど、知っているか。平穏は長く続かない。
今はまだ、誰も知らない。私も、まだ。




