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第1巻 第3章 竜姫の重すぎる忠誠(3)

夕暮れが、死の森の頭上に薄い紫の幕を広げつつある。樹々の影は湿った刃のように重く、地には古い骨の粉塵がまだわずかに混ざっている。風は匂いを運ぶ。朽ちたもの、腐ったものの気配。遠雷の気配もある。ほんの少し、空気が震える。森の奥では、誰が作ったとも知れぬ石碑が黒い舌を出している。そこまで続く世界の層を、彼の結界がやわらかに断ち切った。


 アレスは結界の最上端に立つ。正確には、村の北端に設けた木造の見張り塔の踊り場に立ち、目を眇めて一望した。その目は、色を数える目だった。形の重心を測る目だった。線を、音を、匂いを、温度を数式に置き換えて眺める目だった。彼の指は欄干に触れ、木肌の滑らかさの中にわずかな節の高低を感じ取ると、小さく息をついた。


「……いい」


 声に出す必要はない。けれど彼は言葉を漏らした。彼の喉は乾いていた。日中の作業で汗はとうに乾き、彼の指先はまだ何かを探して空気を撫でる。絶対という概念は、彼にとって剣にも鎧にもなる。脆い自分を守り、脆い世界を切断する道具だ。彼は世界に穴を開け、この小さな村を「在るべき姿」に固定した。


「アレス」


 柔らかく、それでいて床下に潜む溶岩のような熱を孕んだ声が、背後から降りてきた。足音はなかった。彼女は、足音という概念を結界の中で消してくる。


 アレスが振り返るより先に、腕が彼の肘のあたりから滑り込んできた。冷たくも熱くもない温度。華奢に見えて、しなやかで、どこか鋭い筋肉の気配。その腕の圧が、彼の側腹に寄り添った。香りがした。火と、夜の湖と、古い金属のにおい。彼女──エララが、彼の肩に頬を寄せた。ぴったりと、ずれることなく。風が彼女の髪を持ち上げ、うっすらと鱗の光沢が見えたかと思うと、また人の髪の質感に戻る。


「終わったのね」


 耳元で囁かれた言葉は、ほとんど息だった。アレスは小さく頷き、彼女の手の強さをわずかに緩めさせるために、肘をわずかに動かした。エララは離れない。その動きが、彼の意図に気づいたことを示すだけだ。


「ああ。ほとんどな」


「ほとんど?」


「広場の西の角。風の層が明けの口に少し乱れる。明日の朝、アンカーを一センチ南にずらす。あとは、夜の鐘の音。少し通り過ぎる」


「鐘?」


「鳴らさない。鳴らさないのに、音の予感がするのは良い。だが、今は少し、軽すぎる」


 エララは笑った。彼の耳に、こくん、と喉が鳴る小さな音が届く。笑い声は綿で包んだ刃だ。柔らかいが切れる。


「あなたの村は、あなたの音で満ちてる。わたしにはそれで十分」


「それは私の好みであって、村の最適ではない」


「村はあなたの閉鎖空間。最適は、あなたの好みの別名でしょう?」


 言い返す気にはならなかった。彼が近頃学んだのは、彼女の言の端に潜む鋭さを刃として扱わないことだ。エララは彼を守りたがる。守るためには、何でもする。彼女の「何でも」は広い。彼の結界が概念を調整するように、彼女は現実を調整する。それはしばしば暴力に近い形で現れるし、実際、今日もそれは現れた。


「さっきの……」


 アレスは言葉を選ぶ。エララの腕がわずかに硬くなり、次の瞬間にはまた柔らかさを取り戻す。


「招かれざる客?」


「客という言い方はやめよう。巡りの猟師だ。あれはこの森で生きていた」


「もう、ここは森じゃないわ」


「森だ。森であり、閉鎖空間だ。設定は変えられない」


 エララの指が彼の肘を撫でる。彼女は視線を上げ、結界の膜の星の雨を見つめる。その瞳は深い。深海の熱泉に生まれる結晶のような青黒い光。竜の瞳だ。


「彼は、わたしが傷つけたくて傷つけたわけじゃないの」


「エララ」


「あなたに近づいた。あなたの設計図を踏みにじりかけた。彼の血がこぼれれば、あなたの石が汚れる。音が乱れる」


「私の石は汚れない。私の結界がある」


「結界は強い。でもあなたは……あなたは、人間だもの」


 それ以上の説明はなかった。アレスは言葉を飲み込んだ。森の外縁に低く伸びる薄霧が、夜気に触れて横に流れる。結界の境界で舌のように揺れ、触れるたびに消えている。音がしない。アレスは音がしないことを選んだ。彼の選ぶ沈黙は、息づく沈黙だ。動きが消えたわけではない。動きはある。あるが、響かないように伝わるだけだ。


「彼は帰らせた。命は」


「取っていないわ」


「そうか」


「あなたが嫌がるから」


「……そうだ」


 エララの体温が、言葉の重さを軽くした。彼は肩をわずかに傾け、エララの頭に自分の頬を寄せた。それだけで、彼女がふっと震えるのが、わかる。


「あなたは変わらない。わたしがどれだけ殺せるのか知っているのに、嫌がる。それがいい。嫌がるあなたが、わたしを止める。止まるから、わたしはこの場所を、美しく守れる」


「守ることと、壊すことは近い」


「境界線はあなたが引く。わたしは、あなたの線に従う」


 彼女は「従う」と言いながら、それが彼女の意思と一致している時に限ると、アレスは知っている。だが、今、この瞬間においては、それでいい。彼は再び村を見渡した。夕闇が深くなる。光は青く、冷たい。冷たいのに、暖かい。


 広場の中心には一本の灯が立っている。燭台ではない。柱ではない。地に埋め込んだ結晶に、透明な幕のひとひらを折り畳んで差し込んだものだ。星の粒が柱の周りで溶け、わずかな光の泡が生まれては消える。子供の笑い声そのものの光なのに、この村にはまだ子供はいない。いずれ来るのかもしれない。彼は知らない。今はただ、構成を満たすための空白だけがある。その空白でさえ設計に組み込んだ。


「できたの?」


 エララの問いは、実のところ答えを求めていない。アレスの声が聞きたいだけだ。


「できた」


 言葉にした。彼の内側に、氷の板が音を立てて割れる。長い日々、針で細かく突かれてきた生地が、ようやく形になって、針が布から外れる瞬間の手応え。彼は微笑んだ。目でなく、口の端でなく、喉の奥で笑う。彼は笑うことが得意ではない。だからエララが、彼の笑いを誰よりも上手に拾う。


「よくやったわ、アレス」


 肩の上の重みが少しだけ増す。称賛の重さは、彼には時に重荷で、時に救いだ。今日は救いだ。彼はエララの指先に、自分の指先を軽く合わせた。指は冷たくない。生きている温度を持っている。彼は人間だ。彼女は竜だ。けれど彼は彼、彼女は彼女だ。境界は、ここにもある。


 遠く、森が息をした。古い木が一本、裂ける音。獣の咆哮。潮の満ち引きのような空気の圧力のうねり。光幕はすべてを受け、無音に変換する。村の端の風見が、わずかに回った。偶然ではない。風見の羽根の形は、星の図形に呼応するよう作られている。回る速度が一定になるよう、軸には油ではなく、果実から取った樹脂を使う。油の匂いが好きではないからだ。この村に、油の匂いは似合わない。パンの焼ける匂い、濡れた木の匂い、夜の土の匂い。そういうものだけが似合う。


「ねぇ、アレス」


「何だ」


「あなたの防壁は、わたしたちを閉じ込める?」


「閉じ込める」


「永遠に?」


「永遠は、嫌いだ」


「わたしは、好きよ」


「知っている」


 エララは彼の返事に納得したのか、あるいはただ、彼の声の後に来る沈黙の形が気に入ったのか、それ以上は求めなかった。彼女は彼の腕に頬を預け、目を閉じる。その睫毛が、彼の衣の布地に触れて、わずかな音を立てる。気付く者はいない程度の微かな音だ。「音」は彼の領域で、彼女はそこに遠慮を示す。彼が望む音だけがこの小さな世界に住む。


 アレスは広場の端の石に腰を下ろした。石は冷たすぎない。わずかに温い。昼に受けた陽光がまだ石の芯に残っている。彼は視線を上げた。光膜の向こう、遠い空には、本当の星がひとつ、光っている。彼の作った星ではない。彼が捕まえたのでもない。世界の星だ。その光は結界を通り抜け、彼の世界の夜を照らす。彼は目を細め、その一点が、彼の設計した線や角度にどのように影響しているかを測る。わずかに、修正したい気がした。しかし、今はしない。今は完了の時だ。


「アレス、名前は?」


「名前?」


「この村。あなたの設計された空間」


「名前は『村』だ」


「それじゃ、足りない」


「足りている。形容詞は、劣化を呼ぶ」


「詩は嫌い?」


「詩は嫌いではない。ただ、詩を貼るのは好きではない」


 エララは唇を尖らせた気配をしたが、すぐに微笑み直した。彼女の尾があったとしたら、満足げに揺れていたかもしれない。人の姿の背中に、見えない尾の重みがからまっていた。


「じゃあ、わたしが呼ぶ。星降る領地。あなたの村は、星の降る領地」


「好きに呼べ」


「あなたが嫌がることはしない」


「君はよく嘘をつく」


「あなたが嫌がったらやめる」


「それは、嘘ではない」


 星が降る。光膜が夜を包み、森の闇が外で渦巻く。風は境界線で折り返し、別の風に変わる。音は薄くなり、光は濃くなる。広場の中心の結晶灯に、星の粒が一つとまった。実際には、彼が作り出した微弱な魔流の渦の収束点に、反射の最高点が重なっただけだ。それでも、見えることは大切だ。見えることは現実だ。


 アレスは目を閉じ、光幕の全体を一度、手で撫でる感覚で意識した。東のアンカーは既定位置で固定、南の流束は微調整が必要だが許容範囲、北の膜の曲率は申し分ない、西の音の層は、明朝に微調整。全体は──首肯。彼の求める理想は、誰よりも厳しい。彼自身をも縛る。だからこそ、彼は今、首肯した。その重みが、彼の胸を内側から満たした。安堵であり、空虚でもある。完成は終わりであり、始まりでもある。


「アレス」


「なんだ」


「このまま、ここにいる?」


「いる」


「今夜は」


「明日は?」


「明日は、西の音の層を直す」


 エララは笑い、笑い声が広場の灯に乗って揺れた。彼女の笑いが、村の空気を、彼の許容範囲の中で震わせ、ちいさな波紋が石畳に落ちて、すぐに沈む。アレスはその波紋を目で追い、許す。彼の許すものだけが、ここに存在する。


 遠くから、石を叩く音が一つだけ届いた。結界の向こうのどこかで、木が倒れた。森は変わり続ける。死は移ろい、腐敗は形を変え、再生は生まれる。障壁はそれらを切り離し、ここを安定させる。安定の上に、彼は景色を造った。この庭。閉じた楽園。理想の名のもとに、無数の妥協は切り捨てられている。誰かの涙かもしれないものも、誰かの思い出かもしれないものも。彼は知っている。罪悪感は意匠の中に埋めた。見えないが、存在する。それでも彼は、この景色を選ぶ。


「あなたは、これを誰に見せたいの?」


「私?」


「うん」


「私は、自分に見せたい。私の眼に」


「それじゃ、わたしは?」


「君は、勝手に見ている」


「勝手に見るわ」


「勝手に見ろ」


 やり取りは柔らかい皮肉で覆われているが、その中に剥き出しの感情がある。互いの依存と衝突は、光幕の内側でしか成立しない均衡だ。外に出れば、どちらかが壊れる。だから、今夜はここにいる。


 彼は掌を地に触れた。石の冷たさが指の腹を通って骨に沁みる。石の下にある土。土の下にある基礎の板。板に封じた符。符が吸う魔力。魔力の流れ。流れの温度。彼は一つ一つを確認し、ずれるところがないことに満足した。満足は危険だ。飽くなき欲求の敵だ。しかし、今は許す。今夜に限って。


「アレス」


「なんだ」


「あなたを愛してる」


「そんなことは知っている」


「いつも言うの、好き?」


「好きではない」


「でも、言うわ」


「好きにしろ」


「あなたも、言って」


 彼は少しだけ黙った。彼の沈黙は、拒否ではない。彼は言葉を扱う際に、形と音と意味の角が自分の心の中でどう転がるかに敏感だ。彼はその角が傷を付けないよう、そっと手のひらを回して、角を布で覆う。


「私は、君に頼っている」


 エララが息を詰めた。彼女は、それを愛と同じくらい尊い言葉だと理解している。彼女の抱擁は強くなり、それでいて彼を傷つけない程度に緩んだ。彼は、その力加減の正確さに、わずかに微笑んだ。


「ねぇ、アレス。わたし、あなたの村を守る。誰も入ってこさせない。あなたが望むなら、誰も出さない」


「望まない」


「あなたが望まないことはしない」


「望まないことには従うのか」


「あなたの望まないことは、わたしの望まないこと」


「なら、いい」


 エララは満足げに眉を寄せ、彼の肩に額を擦りつけた。竜の柔らかな仕草だ。どこかで雷がくぐもって鳴った。雲が集まる。光膜の上に、細かな電の縞が走る。星と電の縞が重なり合い、彼の結界の内側の夜は一層美しくなる。偶然ではない。彼はこの天候の遷移も読み、結界に織り込んでいた。


「見て」


 エララが指で空を指す。彼の指と重なる。膜の上に、ひとつ、ふたつ、星の涙が滑った。星の涙に見える現象は、水分ではない。大気中の微粒子と光の屈折の演出だ。だが、その「見える」が大切だ。アレスは頷いた。彼の求める光景は、嘘を真実にする力を持つ。人は、見たものを真実と感じる。彼はその感性を信じている。


「これで終わり?」


「最初の区切りかもしれない」


「何の話?」


「庭の構成の話だ」


「あなた、そういうことを言うのね」


「言わない方がよかったか」


「ふふ、好きよ。あなたは自分のことも、世界のことも、この庭のことも、全部設計するのね。それでも、あなたの笑いは予定調和じゃないから」


「笑っていたか?」


「今、笑ってる」


 彼は、笑っている自分に気づいて、また少し笑った。石の上に座る彼と、その肩に寄り添う竜の姫。二人の影は長く、光膜に近い地面に伸びて交わる。頭上の星は降り続ける。村の家々は静かに佇み、扉は閉じている。窓の布は風にわずかに揺れるものの、音はしない。パンの香りはまだない。水車はまだ回らない。子供の声はない。だが、この庭は整った。あとは、息を吹き込むだけだ。彼は知っている。寸分の狂いもない設計は、不完全な生を受け入れなければ持続しないと。だから、彼は待つ。彼は呼ぶのではない。呼ぶ権利は、彼が持っていないと知っている。彼の持つのは、境界線だけだ。


「アレス」


「なんだ」


「わたし、明日、村の外を見てくる。あなたの光幕に触れるものがあったら、全部、優しく追い返す」


「優しく」


「ええ、優しく」


 彼は頷いた。彼は、彼女が「優しく」という言葉の意味を、彼の好みに合わせて学んでいることを知っている。彼の側にいることで、彼女は彼女の暴力の形を変えた。それが良いことかどうか、彼は判断しない。ただ、今の夜の静けさが保たれるなら、それでいい。


 彼は立ち上がり、広場の端から端まで、目でなぞりながら歩いた。各家の屋根の角度。煙突がまだないこと。煙突が建つときの影の落ち方。おがら木の束を置く位置。畑の畝の中で、最初に芽吹くであろうハーブの名。井戸の縁に座る影の大きさ。夜の鐘の音の予感。すべてが位置を得ている。指先で、空気に一つ印を描いた。見えないけれど、確実に封じの仄かな層が、そこにひとつ新たな節を生む。


「おめでとう、アレス」


 エララが言った。おめでとう、という平凡な祝いの言葉が、彼の世界の中で、異常に美しく響いた。完成という語は鋭いのに、おめでとうは柔らかい。その柔らかさが、彼の胸に沈む。


「ああ」


 彼は素直に頷き、彼女の手を取った。彼女の手は面白い。人の手の形をしていながら、骨の一本一本がわずかに硬い。竜の骨は密だ。彼はそれを感じた。感じながら、良いと思った。異物を愛するのではない。異物を異物として、愛する。彼の小さな王国もまた、異物だ。死の森の中にある、人工の精緻。世界の方が異物かもしれない。どちらにせよ、彼は選んだ。彼の選んだものは、彼の責任だ。


 星が最後の層になった時、彼の障壁が静かに鳴いた。誰でもない誰かだけが聞ける鈴の音だ。境界が、境界として存在を完了した合図。彼は目を閉じ、その音を胸で受け止めた。結界師としての、本能の核に響く音。彼は、心のどこかでようやく剣を鞘に戻す心地で、息を吸った。


「これで、完成だ」


 彼は誰にともなく言った。だが、隣のエララが頷く気配があった。彼女は彼の言葉を、彼が想像する以上に大切にする。彼が「完成」と言えば、それは世界に刻まれる。彼の障壁が世界に穴を開けるのと同じくらい、それは強い。


 どこかの家の前の風鈴が、音もなく揺れた。音がしない風鈴は、音の予感だけを降らせるために彼が作ったものだ。予感は大切だ。明日を呼ぶ。彼はもう、明日に手を伸ばしていない。彼は今夜、ここにいる。エララとともに。星の降る領地の中心で。


 透明な幕が夜の色に溶け込み、外の死の森の気配が遠のいていく。仕上がった空間は、自ら呼吸を始めた。石が冷える音、木が湿る音、土が眠る音。音は聞こえないのに、音ばかりがある。アレスはその色を確かめ、形を確かめ、香りを、温度を、流れを確かめる。すべてが、彼の設計した通りに、そして彼の想定の外側のわずかなずれの中で、調和する。


「行こう」


 彼はエララに言った。エララは頷いたではなく、彼の腕を取った。二人は広場を横切り、小径へと滑り込む。石の角、苔の端、風の層。すべてが彼の足の裏に密やかに触れる。家々の窓辺に吊るされた草籠が風に揺れ、影が彼らの足元を横切る。その影は、彼の設定した順序で流れる。二人の歩調は、設計した歩幅に自然と合う。彼は満足した。満足は危険だ。だが、今夜は許す。理想通りの空間が完成した夜を、彼は許すことにした。


 空から落ちた星の粒が、彼らの肩に降り、触れずに通り過ぎる。エララが微笑み、星を舌で捕まえるふりをする。彼はそれを横目で見て、口の中で笑った。星は捕まらない。捕まらないから、目を奪う。捕まらないものを、艶やかに見せるために、彼は封じを張った。


 村の端に着いたとき、一瞬だけ、光膜が揺らいだ。森のうねりが大きくなったからだ。エララが反射的に彼の前に出る。彼は彼女の肩に手を置き、首を振る。彼女は理解し、下がる。膜はすぐに安定した。彼は西のアンカーの方へ目をやり、明朝の調整の微細な手順を、頭の中で反復した。順序が決まると、彼の心は静かになった。


「おやすみ、アレス」


 エララが言う。彼女は眠らないかもしれない。竜の眠りは人間の眠りと違う。彼女は彼が眠るあいだ、結界の外縁で宵闇を睨むだろう。彼の光幕に触れる影を、優しく追い返す。その優しさの定義は、彼が再定義した。彼女はそれを守る。彼はそれを信じる。


「ああ。おやすみ、エララ」


 彼は言った。言葉は軽く、けれど約束の重さを持っている。彼は小径を戻り、広場に戻る。星の降る夜の中心にもう一度立ち、深く息を吸う。この空気は、彼の作ったものだ。この空気の重みと軽みは、彼が選んだ。彼はそう思い、目を閉じる。


 夜がそっと降りた。星は降り続ける。隅々まで計算された庭は、ようやく完成した。長かった。彼の結界師としての矜持と、彼の美意識が、形ある庭となって息をし始めた。死の森は外をぐるぐる回り続ける。だが、ここは違う。ここは彼の村。彼の領地。星降る領地。彼の満足は、静かに夜に溶けていく。彼の胸の中の剣は、鞘の中で眠りに落ちる。


 理想通りの空間の完成とともに、夜が深まっていく。明日はまた、修正が待っている。だが今夜は、ただ、息を呑むほどだ。そう、彼は小さく呟き、夜の中へと、その声を落とした。

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