第6巻 第3章 竜の長との対立(2)
指先で銀盤の縁をなぞると、薄氷を弾くような澄んだ音が響いた。
観景塔。アレスがこの結界世界を統べるために築き上げた純白の螺旋塔だ。頂には十二翼の水晶天蓋、その下に世界各地の支結界を映す「銀盤」が円卓のごとく広がる。本来なら青、白、緑と呼吸するように色を変えるはずの表面が――今は三割、濁った紫に染まっている。
「……ひどいな」
声に怒りはない。嘆きもない。ただ、純粋な不快感だけが滲む。蒼い天窓光が銀髪を揺らし、整いすぎた横顔に淡い影を落とす。腐った果実の匂いに似た何かが、紫に染まった領域から漂ってくる気がした。彼の鼻腔が、かすかに動く。
澄んだ音に呼応して、銀盤の上に立体映像が浮かぶ。最初に映し出されたのは西の港湾都市――かつて「白珊瑚の都」と呼ばれたミルベリオンだ。
『……聞こえておりますか。こちらミルベリオン総督ガレオン、第四回緊急通信です』
声は途切れがちで、海鳴りに混じるように震える。映像の中の総督は別人だった。豊かだった髭は半ば白く、頬は痩け、左腕には黒ずんだ包帯が幾重にも巻かれている。背後の港は黒い油のような瘴気に覆われ、白亜の建築群は内側から崩れかけていた。珊瑚瓦は黒い斑点に侵食され、街路樹は枝先から灰になって崩れ落ちる。
『瘴気が市街地第三区に到達しました。住民の三割が高熱を発し、皮膚に黒い結晶が浮き出る奇病に――いえ、四割に増えました。たった今、報告がありまして……』
「ガレオン総督」
アレスは遮った。
「あなたの肺も、すでに侵蝕されている」
総督が激しく咳き込む。その口元から黒い霧がわずかに漏れる。アレスの琥珀色の瞳が、それを一瞬で捉えた。眉が一ミリだけ動く。彼にとって、それは激情の表現に等しい。
『……お気づきになられましたか。お恥ずかしい。ですが、せめて結界の修復を。民は、白珊瑚の輝きを取り戻すことを願っております……』
「修復用の代替陣を送る。応急処置だ」
指を銀盤に走らせる。指先から金色の符が立ち上り、空気中に紋様を描いて収束し、一通の「結界状」として虚空へ消えた。距離を越えてミルベリオンの祭壇に届くだろう。
だが、傷口に布を当てるだけだ。内側で進行する腐敗は止まらない。
「本格的な再構築は……後だ」
『ありがとうございます、ありがとう――』
アレスは通信を閉じる。塔の天蓋の水晶が、ぴしり、と鳴った。
「不完全だ」
誰にでもなく、呟く。
「……あまりに、不完全だ」
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次の映像が立ち上がる。北東の山岳地帯――エルディン王国からの通信だ。
『結界師アレス殿。エルディン王国第三王女、リーゼロッテにございます』
漆黒の喪服、銀の冠。まだ少女と呼ぶには酷な年齢だが、王女としての矜持が背筋に宿る。背後では半壊した王城の尖塔が見え、城壁の亀裂から紫黒の瘴気が間欠泉のように噴き出していた。
『父王、ならびに兄上二人は、三日前の「黒い夜」にて崩御。私が暫定の王として、救援を要請いたします』
声は震えていない。震えることを許されない者特有の、研ぎ澄まされた静けさがある。
「……状況を」
『北方の鉱山地帯から噴き出した瘴気が、山脈一帯を呑み込みました。鉱夫五千名、行方不明。山麓の三つの村は地図から消えました。文字通り、地形ごと、消えたのです』
「地形ごと?」
アレスの声に、初めてかすかな色が混じった。
『はい。瘴気が触れた岩盤が黒い砂となって崩れ落ち、谷を埋め、川を堰き止め……そして新たな地形を、瘴気自身が作り出しているのです。何かが、そこに住処を築こうとしているように』
眉間に、わずかな皺。
彼の空間の中で、彼以外の何かが地形を作っている。その事実が、アレスの奥底にある何かを、根から引っ張った。
「……魔王軍の前衛か。あるいは、瘴気そのものに意志が宿り始めている」
『どうか、民の避難経路にだけでも、結界を――』
「北東回廊に第三級の隔壁を展開する。二十日。それ以上は保証しない」
『充分でございます。そして、もし可能であれば――』
通信が、砂嵐のように乱れた。王女の姿が紫色の靄に呑まれ、消える。エルディンの通信塔が瘴気に侵されたのだろう。
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背後で、衣擦れの音がした。
振り向かずとも分かる。エララだ。
竜姫エララは、足音もなく、アレスの三歩後ろに佇んでいた。黒髪を結い上げ、漆黒の鱗で編まれた礼装を纏っている。その紅い瞳は、消えかけた映像の残滓――リーゼロッテ王女が立っていた場所を、じっと見つめていた。
喪に服する黒衣。痩けた頬。それでも凛と立つ姿。
エララの喉の奥で、ごく低く、誰にも聞こえぬほどの唸りが漏れた。
「……王女様」
エララがゆっくり口を開く。声は穏やかだ。穏やかすぎるほどに。
「お若いのに、ご苦労なことね」
アレスは銀盤から目を離さない。
「救援要請だ。当然の判断だろう」
「そうね」
一拍、間が空く。
「……ねえ、アレス。あの王女、また通信してくるかしら」
「塔が生きていれば、するだろう」
「そう」
エララは微笑んだ。口の端だけで、静かに。背後の空気が、ほんの少し、冷えた気がした。
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世界各地からの通信は、雪崩のように押し寄せる。
南方の砂漠連邦。オアシスの水が一夜にして黒く変色し、駱駝の群れが死滅した。砂丘の上に、人ならざる影が立ち並んでいるのが目撃されたという。アレスが「熱砂の揺籃陣」と名付けた支結界は、今や砂の下で腐っている。
中央山脈の修道院。夜ごと聞こえる「歌声」のために修道士たちが次々と森に消えていく。その歌声は、報告によれば、美しいのだという。聞いた者が自ら歩いて消えるほどに。
東方の海島連合。海底から立ち上る瘴気の柱が空に達し、雲そのものを毒の雲に変えている。
そして――ヴェルティス聖王国。
かつてアレスが最も丁寧に結界を施した、最大の文明圏だ。
『結界師アレス殿。聖王国の南国境、三百の村が壊滅。聖騎士団は三度の遠征で全滅。我らはもはや、ただ貴殿の慈悲に縋るのみであります』
映像の中の聖王は、アレスが「美しき統治者」と認めた男ではなかった。白髪が乱れ、片目は瘴気の毒で白濁し、玉座は半ば焼け焦げている。背後でステンドグラスが砕け散る音が響く。
『どうか――白亜の都を、お救いください』
「……」
アレスの指が、銀盤の上で止まった。
ごくわずかに、震えている。
一つ、二つではない。十、二十。数えることを諦めるほどの数の悲鳴が、同時に、彼の元へと届く。彼ひとりの手では、もはや、すべてを保つことができない。
「足りない」
声が、低く落ちた。
「私が、足りない。一人では――足りない」
背後で、エララの息が止まった。
彼女が知っているアレスは、常に揺るがなかった。寸分の狂いもなく、常に。その彼が今、震えている。声が、揺れている。
エララは足を踏み出した。三歩後ろから、一歩、また一歩。アレスのすぐ背後まで歩み寄り――手を伸ばして、触れずに、止まる。
「アレス」
声が変わっていた。いつものねっとりとした熱を帯びた声ではない。真冬の湖面のような、澄んだ声だ。
「私が、いるわ」
アレスは振り向かない。だが、肩のこわばりが、わずかに緩んだ。
「竜の力を使えばいい。私の鱗を、血を、魂を、いくらでも。あなたの結界の燃料にすればいい」
「……それは」
アレスが、ゆっくり振り返る。琥珀色の瞳が、エララの真紅の瞳と正面から交わった。
「君の命を削るということだぞ、エララ」
「ええ」
「了承するのか」
「ええ」
一切のためらいがない。
アレスは長い沈黙の後、ふっと表情を揺らした。笑ったとも気づかぬほど淡い、微笑とすら呼べない揺らぎだ。
「……後で、考えよう」
彼はそう言って、再び銀盤に向き直る。
エララは、その背中を見つめたまま、動かない。
最近、彼女の中で何かが変わり始めていた。アレスの背中を見るたびに、その輪郭が以前より薄く、朝靄に溶けかけているように感じる。彼を手放したくないという衝動と、彼を喪いたくないという恐れが、同じ重さで揺れていた。今この瞬間、後者がわずかに勝っている。
だから彼女は、王女の映像を見ても動かずにいられた。
だから彼女は、今、ここに立っていられる。
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塔の天蓋の水晶が、また鳴った。
今度の音は先ほどより、長い。何かが根本から軋んでいるように、塔全体に響き渡る。
「……ねえ、アレス」
エララが、静かに口を開いた。
「この塔、最近よく鳴るわね」
「気のせいだ」
「そう」
間があった。
「……本当に、気のせいかしら」
アレスは答えない。銀盤の上で、また新たな映像が立ち上がろうとしている。北の氷原から。南の灼熱から。東の群島から。西の港湾から。絶え間なく、世界の悲鳴が押し寄せる。
アレスはその音を、確かに聞いた。聞いて、しかし、聞こえぬふりをした。
軋みの正体を認めてしまえば――彼が築き上げた光幕の内側そのものの崩壊を、認めることになるからだ。
エララは、その音を別の意味で聞いていた。竜の本能が、はっきりと察知する。この結界は保たない。そして防壁が崩れるとき、結界に魂を縛られたアレスもまた――。
彼女は、瞳を伏せた。深紅の睫毛が、頬に淡い影を落とす。
「北の氷原からも、来たわね」
独り言のように、エララが言う。
「……ああ」
「大変ね」
「ああ」
「私は、ここにいるわ」
返事はなかった。
けれどアレスの肩が、ほんのわずか、エララの方へ傾いた。気づかないほどの角度で。気づかないふりをするほどの、傾きで。
銀盤の上で、また一つ、新たな悲鳴が立ち上がる。
世界の各地から、報告は、終わらない。




