第6巻 第2章 箱庭からの外出(2)
風が、途端に息をやめた。
耳に当てた手のひらが、空気の振動を拾わない。葉の擦れ合う微音も、滝の飛沫が運ぶ涼しさも、ぴたりと止まる。死の森を覆う大結界の最深部——アレスが三年かけて織り上げた空気の道筋は、本来なら毎朝、同じ角度で頬を撫でるはずだ。銀色の下草を撫でて、石畳の隙間から生えた芽をやさしく揺らし、樹冠の影を極細に震わせるはずの、あの風。
「やめて……止まらないで。あなたは、あの人の呼吸なんだから」
エララは呟き、息を呑み、さらに加速した。竜の翼を半ば顕現させ、人の形のまま大気を切り裂く。背骨に嵌め込まれた翼の付け根が軋み、筋が悲鳴を上げる。真の姿を解けば速い。だが、翼の影だけでも、この織り目は軋む。
「……ダメ。触れたら、痛むもの」
彼女は顎を引き、上昇気流を避けて斜めに突っ切る。黒曜石の爪先で空気を蹴り、黒髪を鞭のように翻し、半分しか開けない翼でなお音の壁を抜けた。眼差しに笑みはなく、艶もない。あるのは、肺の奥に針を詰められたような焦りだけ。
「間に合って。ねえ、お願い。見てて、すぐ行くから」
これほど弱い声を、誰も知らない。彼女の影さえ知らない声音だ。
知っている。最後の四天王、シオン・ノクトゥルヌが何を仕掛けたのか。三日前、森の入口で伝令を噛み砕いた時、舌に金属の味が広がった。彼の肉に仕込まれていた管ごと引きちぎった情報が、喉を滑り落ちて腹に落ちる。
「暴走。炉心ごと消える……自分を使って、ここに穴を穿つつもり」
ただの自爆ではない。自傷の快楽でもない。
シオンは——あの男は——アレスの結界の作り込みに取り憑かれている。だからこそ、死の瞬間を、他人の作品の中心に据えることを選んだ。血の署名を、もっとも白い部分に、という趣味の悪さで。
視界の彼方、白亜の塔が近づく。螺旋階段の縁が午前の光を受けて線のように光る。結界の制御核。七層目のテラス——彼は今頃、茶の湯気を目で追っているかもしれない。
「待ってて、触れさせない」
舌先で唇を湿らせ、彼女は息を詰めた。胸の内側が焼ける。焼けた鉄を丸呑みしたみたいだ。腕の内側に鳥肌が立ち、体温が上がる。笑みが自然と浮かびかけて、彼女は歯を噛んで押し殺した。
「名前、聞かれたらどうする? ふふ……」
そこまで言いかけて黙る。微笑むだけ。頬はゆるむのに、背中から漏れる熱が、風のない周囲を揺らす。茶の香りの記憶が、鼻腔の奥でほどけた。
*
アレスはテラスの欄干に肘をかけ、磁器のカップをわずかに傾けた。湯面に映る朝の空が、薄い銀の輪になって震える。
「五十一度。今日の茶は、よく香る」
独りごとが空に消える。整えられた庭は、刈り込んだ銀葉樹の枝が角度を揃え、葉の枚数が揺らぎの規則に従っている。午前十一時の光は斜めに差し、影が階段のように重なる。奥の人工の滝は毎秒七十二リットル。落ちる水の音は帯域が美しくそろって、耳殻の内側を撫でた。肌に細かい水の粉が乗る。香りは湿った石と新しい星苔。
「……いいね」
彼は目を細め、吐息を一つ零す。流れる空気の温度と水の粒の大きさ、唇に触れるカップの縁の冷たさ。雑味がない。瑕疵と呼べる揺らぎがない。
「完璧だ。今日も」
声がわずかにとろんとする。
「エララは、まだか」
アレスは庭を見たまま問う。答えはない。彼は肩をすくめ、口の端を上げた。
「また狩りかな。森の入口で、血の臭いがしたから」
彼にとって竜姫エララは、庭に住まう珍しい鳥に近い。視界の構成要素の一つ。光の中を走る線。彼女が何を思って飛び、何を抱えて黙っているのか、半分も理解しようとしてこなかった。
「……それでも、彼女がここにいるのは悪くない。配置の話だ」
彼は自分の嗜好に照らして納得する。薄い笑み。
「北東四十二区の星苔、色が沈んできたね。配列を変えよう」
カップを皿に戻し、アレスは立ち上がる。白い外套が静止した空気の中でわずかに揺れた、その時だ。左手の薬指、銀の指輪が微かに熱を帯びる。わずかに。だが、彼には温度の差がわかった。
「外周、第三層……」
目が紫水晶色に細まる。
「お客様、か」
呟きは穏やかだ。眉は、ほんの少しだけ上がる。面白い。そういう顔だ。彼は片手を持ち上げ、空を撫でるように動かした。空気が指の周りで波打つ。手の中に、草のしずくの匂いが集まる。
*
最外縁、霧の濃い場所で、シオン・ノクトゥルヌは膝をついた。吐く息が白く糸を引く。彼の胸の中央、心臓があるべき位置には、青白い脈動が剥き出しで明滅し、皮膚は焼け、骨の縁が光る。自分の体を素材に組んだ爆弾。血と燃えた魔力の匂いが鼻を刺す。
「間に合った。ええ、間に合いましたとも」
灯りを愛でるみたいな目で、彼は笑った。唇はひび割れ、声は掠れる。周囲に散らばった何百枚もの紙、それは結界式の写し。森の樹液で湿った紙面に、微かな指の跡が残っている。三年。泥にまみれ、毒にやられ、血を吐いた三年。盗み続けた図面。
「見事だな、アレス殿」
シオンは紙を撫で、端を軽く弾いた。薄い音がした。
「寸分の誤差も許さない。隙間がない。だから——」
彼は息を吸い込み、喉を鳴らす。
「ここに、私という異物を打ち込む。あなたの図面に、最後の線を引くのは私の死。作品を完成させるための欠け。磨き上げられた表面に残る、小さな傷。腕のないヴィーナス、欠ける月、散る桜」
青い瞳が灯を宿す。炉心の脈が速まる。鼓動が胸を内側から叩くたび、骨が音を立てる。涙みたいな液体が目尻に溜まり、熱で蒸発した。背後の結界の織り目が、初めて軋む。耳鳴りのような高音が、霧の中を走る。
「さあ、始めよう」
彼は両手を広げ、額を天に向けた。唇を薄く開く。
「アレス殿。あなたの——」
言葉の残りは、光に呑まれた。
世界が裏返る。最初の刹那、音はない。視覚も聴覚も、触覚すら、一点にぎゅうっと引き寄せられて白く消える。森の上空に第二の太陽が生まれる。紫紺と漆黒が綾を描き、螺旋が重なる。決して昇ってはならない、呪いの太陽。
四天王最後の一人、虚無のシオン。その小さな身体に溜め込まれた魔力は、個という枠をはみ出していた。魔王軍が三百年かけて培養し続けた終末の種子。それを心臓に植え、自らの崩壊で起動させた瞬間——半径数キロが、悲鳴とともに崩れ始める。
最初に、空が割れた。
アレスが幾年もかけて織った淡い菫色の天蓋。星の位置を定め、雲の角度を正し、月光の向きを固定していた上層結界。内側から拳で叩かれた硝子の天井みたいに、ひびが伸びる。
ぴしり。
ぴしり、ぴしり。
細い音が、やがて世界の襞を引き裂く咆哮へ変わる。罅の隙間から、本来の空が覗く。赤黒い雲は腐り、月は腐肉の色。アレスが隠し、塗り替えた天井が剥がれ、壁紙の下から染みが顔を出す。
「アレスっ!」
エララの声が、衝撃波の前に滑り込んだ。白い翼を限界まで広げ、肉の裂ける音を無視して飛ぶ。薄紅の鱗が震え、光が細かく跳ねる。
「動かないで、そこにいて。お願い」
彼女は降下の途中で身体を捻り、アレスの背に自分の胸を押し付けるように抱き留めた。彼の頭が彼女の首筋に埋もれる。腕で肩と腰を縛る。脚で彼の脚を絡め取る。翼を繭にし、尾で輪を作る。隙間を埋める。身体のすべてを使って、彼の輪郭を自分の内側へ運び込む。
「エララ、避けろ。君まで巻き込まれる」
アレスが、背中越しに言葉を投げた。声がかすれた。
「いや」
短い拒絶。彼女は次を重ねる。
「それだけは、しない。あなたの指も、睫毛も、一本でも減らしたくない。それだけは、嫌」
「馬鹿なことを——」
「聞かない」
低く言って、彼女は笑った。柔らかい笑い。眉はほんの少しだけ下がる。呼気が彼の耳を撫で、熱が頬に乗る。笑顔のまま、背から熱が漏れる。空気が歪む。
その瞬間、衝撃が来る。
風ではない。光でもない。概念の塊。圧力になった暴力が押し寄せる。苔の緑は色ごと剥がれ、小石は粉のさらに細かい何かへ砕け、観賞用の枯れ木は形の定義を剥奪される。アレスが「見事」と名づけた配置が、まとめて拭われる。
「っ——」
エララの背が裂け、鱗が剥がれ、肌が裂けた。翼膜が紙みたいに千切れる。噛み殺した声が喉奥で震え、血が唇を濡らす。それでも彼女は腕を緩めない。むしろ強める。押し付ける。彼の存在を、自分の中に沈めるように。白い首筋を流れる鮮血が、アレスの銀髪を赤に染めた。匂いは鉄と焼けた皮の混ざったもの。
「……あつ、ね。アレス」
彼女はわずかに笑う。笑みは震えて、目はまっすぐだ。
「いいの。これでいいの。こうして抱いていられるなら、それで——」
「やめろ、エララ!」
アレスの声が跳ねた。いつもの平板さを外れ、生身の響きになった。喉の奥で震える。舌の下が苦い。彼の耳元で、彼女の鼓動が弱くなる。温度が下がる。皮膚の下の熱が、指先から逃げていく。
上で、空は砕け続ける。
地脈に沿わせてあった幾何学図形が、一筋ずつ消える。北の浄化陣は黒い瘴気に飲まれ、湿った布みたいに溶ける。東の遮音は甲高い悲鳴を残して断ち切れた。西の認識阻害が反転し、隠していた魔王城の輪郭が地平の向こうに黒く立ち上がる。
「封印が——」
アレスは息を詰めた。眼下、森の中央の祭壇から、半円の巨大な魔法陣が空に浮かぶ。残りの半分は薄い影になって、今にも消えそうに揺れる。
地の底から、何かが、ゆっくり息を吸い始める。三百年ぶりの、それ。大気が吸い込まれ、押し戻されていく。木々は同じ方向にしなり、同じ方向へ倒れる。鳥は落ち、獣は固まり、虫は動きを止めた。生き物の骨の中に仕舞ってある本能が、膝を折る。香りが変わる。花の匂いが消え、湿った土と腐敗の前触れが喉の奥に残る。
「……見事な破壊だ」
アレスは、皮肉でも賛辞でもなく、事実として呟いた。耳が熱い。舌に鉄の味が広がる。指先が震える。彼の世界を満たしていた調和が音を立てて崩れ、代わりに、何もない風景が風鈴のように鳴った。
「アレス様、」
エララが、すりガラス越しの音みたいな声で呼ぶ。彼の首に額を押し当てたまま、かすかに息を吐く。
「見て。あなたの空、きれい。だから——」
「黙っていろ」
彼は小さく制した。それでも優しい響きが滲む。声帯が勝手にそうする。
「君は喋らなくていい。今は」
「うん」
短い同意。彼女は頷いた気配だけを伝える。言葉は続かない。代わりに、彼の耳朶に温い吐息が一つ触れる。温度が、また少し下がる。血の匂いが濃くなる。
結界は崩れ続ける。上層のひびは網のように広がり、下層の線が千切れていく。色は失われ、光の角度が乱れる。音が濁る。滝の音は太さの違う糸に裂かれ、庭の砂利の馴染んだ触感は指先の記憶から抜け落ちた。組んだ庭の「設計」は、紙の上の線みたいに薄くなって、指の間から滑り落ちる。
「アレス殿——」
遠く、誰かの声が残響になって揺れた。シオンの声。もう肉体がないのに、音だけが揺れ、霧の向こうで溶ける。彼の笑いの余韻が、空気の隙間に引っ掛かっては消えた。
「くだらない」
アレスの口が勝手に動いた。舌が口内で重く転がる。歯を噛む音が、エララに聞こえる距離で響く。
「欠けで完成する? 仕上げに傷が要る? どこかで拾った比喩で、他人のものを触るな」
自分に向けるように、彼は吐き出す。目の端に熱いものが滲み、風がないのに頬が冷えた。手のひらの汗が乾く。指輪が皮膚に食い込む。
「アレス、」
エララが少しだけ強く抱いた。彼女の爪が、外套の布越しに彼の脇腹に触れる。力任せではない。ぎゅっと、確かめるみたいに。沈黙が言葉の代わりに間を埋める。笑みが、まだ口の端に浮かんでいるのがわかる。
「あとで怒って。約束、聞くから」
「……」
アレスは返さず、彼女の肩に額を預けた。血の匂いがさらに強くなった。舌に乗る塩気。彼の耳に、遠雷みたいな音が届く。封印の半円が、たわみながら耐えている。
森の中央。祭壇の石は地熱で温まり、霧が立ちのぼる。半円の魔法陣は空に焼き付いた痕のように残り、残り半分の影は、呼吸に合わせて濃くなったり薄くなったりする。地面が、まるで生き物の腹みたいに上下する。石畳の繋ぎ目から微かな蒸気。苔は茶に変色し、触れれば油のような感触になりそうだ。
「……エララ」
アレスは、彼女の名を呼んだ。今までと違う響きで。装飾ではないものとして。世界の中心が、彼女の輪郭に一致する感覚の中で。
「聞こえているか」
「いる。ここにいる。ずっと、いる」
返事は小さく、でも、確かだ。彼の首筋に押し当てられた額が、ほんの少しだけ頷いた。ほんの、少しだけだ。
「やっぱり、手、綺麗。汚したくない」
彼女は、そこで言葉を切った。息が細くなる。血の滴る音が一瞬だけ強くなって、すぐに薄れた。
アレスは目を閉じた。目の裏に、庭の線が一瞬浮かび、すぐに壊れた。指先で彼女の背に触れる。裂けた皮膚の縁が熱い。そこに彼の熱も移った。彼は、何かを唱えかけた。喉が動いた。だが、言葉は出さない。長い詠唱で埋める場所ではない。ここは、短くていい。彼は小さく息を吸う。
「……耐えろ」
それだけ言って、彼は彼女の背に手を当てる。指が、硬い鱗の根元に沈む。微かな光が掌から広がり、体温が、ほんの少しだけ持ち上がった。彼女の呼吸が、一瞬だけ楽になる。
「うん」
エララの声は微笑んでいる。声で微笑むということがあるなら、今がそう。彼女は彼に身体を預け、目を閉じた。
崩壊は、止まらない。だが、まだ全部ではない。ひびの間から覗く元の空は、こちらを笑っている。封印の影はまだ半分残っている。地の底の呼吸はなる。地表はゆっくり下がる。塔の石はきしみ、テラスの欄干にひびが走る。磁器のカップは床に転がり、鈍い音を一つだけ残して止まった。
「アレス、茶、こぼれる」
エララが、いつもの調子で言う。唇に、赤い線が伸びている。この状況に似合わないやりとりだとわかっていても、彼女は口にした。彼がそういうことを気にかける人間だと知っているから。だから、つい。
「後で拭く」
アレスは短く返す。目は笑っていない。声だけが平らを装う。自分に言い聞かせるための嘘。彼は彼女の肩を抱き、息を合わせた。胸の上下のリズムを重ねる。耳に、二つの音が混じる。まだ、間に合うかもしれない。そう思うのは、根拠がない。根拠がなくても、思うしかない。
「ねえ」
エララが、囁く。
「帰ったら、名前、また呼んで。さっきみたいに」
「……ああ」
アレスは頷いた。やっと、そういう約束の仕方ができる。指の力を少しだけ強める。
「アレス様、」
彼女は一度だけ、その呼び方をした。小さく、懐かしむように。
「好きな色、教えて。今度、庭に合わせる」
「今は何色でもいい。君が生きていれば」
短く切った言葉の末に、苦い笑いが混じる。普段なら絶対に言わない種類の台詞だ。喉が熱い。背中が冷たい。遠くで石が砕ける音。近くで誰かの息。
破片が降る。結界の欠片は星屑みたいに二人の周囲を舞い、光が角度を変えながら落ちる。手の甲に触れる感触は、砂より細かく、灰よりも軽い。彼が愛した庭は、もうない。流れ、香り、角度、温度——すべてが、まるではじめから存在しなかったかのように消える。
「……エララ」
彼は、もう一度、名を呼んだ。今度は、祈りとも命令ともつかない声で。自分の命令で世界が整う場所は、今ここにはない。命令する相手は、自分の腕の中にいる。
返事はない。ただ、彼女の額が、ほんのかすかに、頷いた気がした。それで十分だと、彼は思うしかない。
絶望は、まだ、序の口。ここからが本番。そう言わんばかりに、地の底が深く息を吸い込み、吐いた。
塔の影が傾く。庭の跡が灰色に沈む。風が戻り、でも、それはアレスが用意した風じゃない。温度も、匂いも、音も、別物だ。
「間に合って」
エララの唇が、最後に、もう一度だけ動いた。声にはならない。息だけだ。
アレスは目を開ける。紫色の瞳に、ひび割れた空が映る。彼の手は、まだ温かい。彼女の背に置かれた手の下で、命の熱が、薄く、しかし確かに残っている。
まだ、終わっていない。ここからだ。彼はそう決めた。言葉にせず、指先の圧で伝える。彼女の背に刻む、「離れない」の合図。
世界の均衡が崩れた音が、遠くで鳴り響いた。だが、彼の耳は、腕の中の小さな呼吸だけを拾った。どこかで誰かが笑った気がした。気のせいだ。笑いはここには似合わない。
深呼吸を一つ。茶の香りが、まだ薄く残っていた。目を閉じれば、庭の滝の音も、砂利の踏み心地も、指に戻る。すぐに、現実が塗り替える。彼はそれを受け入れた。受け入れながら、腕の力を緩めない。
彼の唇が、もう一度、名を紡ぐ。
「エララ」
彼女は、微かに息を吸った。頬が、ほんの少しだけ彼に寄った。
絶望は、まだ、始まったばかりだ。ここから、続く。彼と彼女にとって。世界にとって。




