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第6巻 第2章 箱庭からの外出(1)

「……シオン」


 朝露が白百合の葉を離れ、澄んだ音を立てて大理石の縁石へ落ちる。

 エララはその音だけで、いつもの朝と違うものを嗅ぎ分けた。

 水滴の響きは清らか。風も乱れていない。青い薔薇は淡い香を放ち、常緑樹の枝先は、アレスが定めた角度のまま陽を受けている。結界の内側を満たす空気は、温度も湿度も一分の隙なく整えられ、外界の瘴気など一粒たりとも入り込ませない。

 それでも、竜の血はごまかせない。

 白百合の茎が、ほんのわずかに震える。

 風のせいではない。土の奥、さらに遠い森の底から、腐った鐘の音にも似た魔力の反響が這い上がってくる。目には見えず、耳にも届かない。だがエララの鱗の記憶は、その波を知る。死者を縛り、魂を搾り、闇へ捧げる術式の脈動。


「……シオン」


 名を口にしただけで、舌に鉄錆の味が広がる。

 アレスの庭は、彼自身の美意識が形を取った小宇宙。白百合と青い薔薇、刈り込まれた樹木、水路の曲線、石畳の継ぎ目。すべてが計算され、しかも計算の跡を見せない。訪れる者の心から粗雑な感情を洗い落とす、精緻な安息の場所。

 その調和へ、森の奥から穢れた指が伸びている。


「アレス様には、気づかせない」


 エララは館の方へ顔を向けた。

 乳白色の壁に朝日が差し、二階の窓だけが淡く輝く。あの部屋で、アレスは結界術式の修復に没頭しているはずだ。記憶を失っても、彼の根にあるものは変わらない。ほんの小さな魔力の歪み、薔薇の花弁一枚分の乱れさえ、彼は見逃さない。

 もし知らせれば、彼は出る。

 自分の身がどうなろうと構わず、この設計された空間を守るために、死の森の中心へ向かう。

 その姿があまりにも容易に想像できて、エララの胸の奥がきつく縮んだ。


「私が終わらせる。アレス様の完璧な箱庭に、泥など一滴も触れさせないわ」

 いや、違う。

「……触れさせないの。絶対に」


 以前のエララなら、アレスの傍を離れること自体が耐えがたい苦痛だった。彼の視線を奪う者、声を届かせる者、同じ空気を吸う者。すべてが憎く、爪で裂き、炎で焼き尽くしたい衝動に支配された。彼を囲うことこそ愛だと信じ、その檻の中で幸福を名乗る。

 だが、彼が記憶を失った日から、エララの中で何かが砕け、別の形へ組み直された。

 見つめてほしい。名を呼んでほしい。自分だけを選んでほしい。そんな渇望は今も消えない。消えるはずがない。けれど、その底にもっと重い願いが沈んだ。

 彼に、生きていてほしい。

 彼が彼の望むものを守り、彼の好きな花を眺め、穏やかに息をする。そのためなら、エララ自身の命は代価として軽すぎる。


「行ってくるわね、アレス様」


 足元の草を踏まぬよう、エララは薔薇園の縁を抜けた。結界の境界は目に見えない。だが彼女には、薄い水膜にも似た魔力の壁が、庭の輪郭に沿って立っているのが分かる。外からの侵入には峻烈で、内側から出る者には条件を求める。アレスが施した、瑕疵のない防護。

 エララは掌を胸に当て、自らの魔力を結界の波長へ重ねた。

 赤い竜の魔力は本来、アレスの術式とは相性が悪い。燃え盛る本能と、冷ややかな秩序。けれど何度も彼の傍にあり、何度も彼の結界に触れ、何度もその呼吸を覚えた今なら、通れる。

 境界が水面のように揺れた。

 次の瞬間、甘い花の香りは背後へ消え、死の森の臭気が顔面を殴りつけた。


 腐敗した土。濡れた獣毛。毒を含んだ胞子。飢えた魔物たちの唾液。

 肺に入るだけで魂が黒ずむような瘴気を、エララは深く吸い込んだ。喉の奥が焼ける。だがその痛みが、竜としての肉体を呼び覚ます。


「グルルルル……ッ!」


 人の声ではない唸りが、胸骨の奥から漏れた。

 背筋に熱が走る。細い肩が軋み、骨格が内側から押し広げられた。皮膚の下で鱗が芽吹き、真紅の刃片となって全身を覆う。指は裂け、爪は黒曜石の鉤へ変わる。背中を突き破って翼が生え、皮膜が血を含んだ帆のように広がった。

 痛みはある。

 骨が組み替わるたび、肉が裂けるたび、脳髄に白い火花が散る。人間の器を捨て、竜の真体を呼び覚ます過程は、自らの身を内側から引き裂くような苦痛を伴う。それでもエララは声を押し殺した。アレスの耳に届かせてはならない。館へ振り返ることも許さない。振り返れば、行けなくなる。あの穏やかな空間に、甘えてしまいたくなる。

 額から二本の角が伸び、尾が地面を叩いた。枯葉と腐葉土が円形に跳ね上がる。

 少女の姿は消え、そこに真紅の竜が立つ。鱗の一枚一枚に魔力が脈打ち、黄金の瞳が森の奥を射抜く。


『急がなければ』


 思考は研ぎ澄まされ、余分な感傷が削ぎ落とされた。

 シオンの儀式は進行中。魔力の波は一呼吸ごとに太くなり、地中の根を伝って結界へ干渉し始めている。猶予は少ない。いや、もう猶予と呼べるものなど残っていないかもしれない。

 エララは翼を一度、強く打った。

 轟音が森を叩き伏せる。

 枯れ木がへし折れ、朽ちた幹が粉々に砕け、腐った土が噴水のように舞う。真紅の竜は一息で樹冠を越え、鉛色の空へ躍り出た。


 眼下の死の森は、膿んだ傷口の群れに見えた。黒ずんだ樹木が絡み合い、湿地は毒の泡を吐き、枝の隙間では無数の魔物が蠢く。彼らは上空を横切る竜の影に怯え、悲鳴を上げて散った。逃げ遅れた個体が毒液を吐き、別の魔物が黒い矢じりの魔法を放つ。

 エララは速度を緩めない。

 毒液は翼圧に裂かれ、呪矢は鱗へ届く前に砕けた。小さな敵を焼く時間さえ惜しい。尾の一振りで飛びかかってきた有翼の怪物を叩き落とし、そのまま魔力の源へ一直線に進む。風が唸りを上げ、真紅の巨体を押し留めようとするが、竜の推進力はそれを容易く引き裂いた。


『遅い。まだ遅い。もっと……!』


 焦りが心臓を爪で掻く。

 風は刃となって鱗の間を削り、目の端から涙を奪う。高度を落とせば森の毒気が絡みつき、高度を上げれば儀式の波を見失う。エララは本能で最短の軌道を選び続けた。翼の筋が悲鳴を上げても、奥底での火をさらに燃やす。

 もし間に合わなければ。

 その言葉が、何度も何度も牙の内側で砕けた。

 結界が破れる。

 あの庭が踏みにじられる。

 白百合は瘴気に黒ずみ、青い薔薇は灰になり、アレスが愛した景観は醜悪な魔物の足跡に汚される。

 そして何より、アレスが傷つく。

 その想像だけで、エララの視界が赤く染まった。


『どうか、どうかご無事で。私が必ず止めます。あなたの知らないところで、すべて終わらせるの』


 脳裏に浮かぶのは、窓辺で術式を書き直すアレスの横顔。記憶を失い、過去の名誉も恐怖も忘れ、それでもなお彼は彼であり続ける。指先で魔力の糸を結び、眉根を寄せ、納得のいかない線を何度も消す。その不器用なほどの真摯さが、エララには眩しかった。

 かつては、その横顔を自分だけのものにしたかった。

 今は違う。彼が誰を見ても、誰に微笑んでも、たとえ自分を忘れたままでも、生きていてくれるならいい。

 そう思うたび、胸で竜の誇りが痛む。醜い感情も、獣じみた執着も、まだエララの内側に巣食っている。けれどそれらすべてを踏み越えて、守りたいという願いが先に立つ。

 竜の瞳から涙が一筋、空へこぼれた。

 熱を帯びた雫は風に千切れ、誰にも見つからないまま消えた。


 死の森の最深部が見えた。

 そこだけ木々が倒れ、円形の空白が口を開けている。大地には赤黒い紋様が刻まれ、脈拍に合わせるように光を放つ。魔法陣の周囲には、魔物の死骸が山となって積まれていた。角を折られた獣、翼を裂かれた悪魔、内臓を抜かれた巨人。血は溝を満たし、魂の残滓が青白い煙となって立ちのぼる。

 中心に男が立つ。

 漆黒のローブ。顔の半分を覆う仮面。細い指先から伸びる魔力の糸が、魔法陣の全域へ張り巡らされている。

 魔王軍最後の四天王、シオン。


「……ほう。嗅ぎつけたか、番犬め」

 シオンは空を見上げ、仮面の下で唇を歪めた。焦りはない。むしろ予定どおりの来客を迎えるような、冷えた余裕がある。

「ずいぶんと急いできたようだな。だが、もう手遅れだ」

『シオン……ッ!』

「魔王様の復活を祝う宴に、竜の血肉は悪くない供物だ。お前もそう思うだろう?」

「ふふ……寝言は、その仮面ごと焼き尽くされてから言いなさいな」

 エララは上空で翼を大きく開き、急制動をかけた。空気が悲鳴を上げる。喉の奥へ魔力を集めると、胸腔が灼熱の炉に変わった。竜の炎は単なる火ではない。血統に刻まれた破壊の権能。岩を溶かし、鉄を蒸発させ、魔を焼き払う赤い審判。


「消え去れえええええええッ!」

 咆哮と同時に、炎の奔流が解き放たれた。

 真紅の光が空を裂き、地表を呑み込み、魔法陣ごとシオンへ襲いかかる。積まれた死骸が一瞬で炭化し、周囲の瘴気が焼けて白い火花を散らした。

 しかしシオンは一歩も退かない。


「無駄なことを。『絶対零度のコキュートス・シールド』」

 彼の右手が空中に印を描いた。

 透明な氷壁が立ち上がる。薄く見えるその障壁は、世界から熱という概念を抜き取った刃の集合だった。エララの炎が衝突した瞬間、爆発的な蒸気が生まれ、衝撃波が円形の広場を越えて森を薙ぎ払う。倒木が宙を舞い、岩が砕け、雲が裂けた。

 白煙が散る。

 シオンは無傷。魔法陣の線も途切れていない。


『……っ』

 エララの牙が鳴った。

 全力のブレスを真正面から受けて、なお傷一つない。四天王の名は飾りではないと分かっていた。それでも、ここまでとは。


「所詮はトカゲの熱病だ。我らが魔王様の復活を阻むには足りん」

 シオンは嘲ると、左手を魔法陣へ向けた。赤黒い光が太くなり、空の雲が紫に染まる。地中を走る魔力の脈が、遠くアレスの結界へ手を伸ばす。


『させない。絶対に、させないッ!』

「ほほう? その程度の炎で、私を止められるとでも?」

「止めるんじゃないわ。あなたを、ここで終わらせるの」

「大きく出たな。だが、お前の爪では私に届かん」

『黙れッ!』


 エララは翼を畳み、落雷の速度で急降下した。

 魔法で破れないなら肉体で砕く。竜の質量と爪、牙、尾。大地ごと抉り取る一撃で、シオンの防御を押し潰す。

 巨大な爪が氷壁を叩いた。

 ガギィィィン!

 金属を千本まとめて折る音が響き、火花ならぬ氷晶が爆ぜた。エララの腕に痺れが走る。障壁は揺らいだが、割れない。シオンは半歩だけ足を引き、指先を軽く回す。

 氷の棘が地面から突き上がった。

 エララは胴をひねって避け、尾で棘を砕く。続けて左の爪、右の爪、牙による噛み砕き。攻撃の合間に短い炎を吐き、氷壁の継ぎ目を探る。蒸気が視界を奪い、冷気が翼膜を凍らせ、焦げた土の臭いが喉を満たした。


「無駄だと言ったはずだ。お前の爪では、私に届かん」

「届かせてみせるわ……!」

「強がりを。その傷だらけの体で何ができる?」

「ふふ……あなたには、分からないでしょうね」

 エララは牙の隙間から笑みをこぼした。血に濡れた口元が歪む。

「守るべきものがある者の強さが、あなたのような空っぽの器に理解できるはずがないの」

「下等生物が、悟ったような口を利く」


 シオンの守りは崩れない。

 彼は最小限の動作で術式を重ね、エララの軌道を読み、力を受け流す。氷壁は割れてもすぐ再生し、砕けた破片は刃となって跳ね返った。真紅の鱗に白い傷が走る。血が散る。冷気に触れた血は黒ずみ、鱗の隙間で凍った。


『ぐ、うううッ!』

 痛い。

 だが、痛みがあるならまだ動ける。

 エララは地面へ降り立ち、四肢で魔法陣の外縁を踏み砕こうとした。

 だが紋様の周囲に見えない壁がある。踏み込んだ瞬間、足裏から骨まで冷える呪いが這い上がった。痛みを無視して力を込める。地面に亀裂が入り、魔法陣の赤い線が一部だけ乱れた。


「なるほど。執念だけは本物か」

「……ふふ、そうね。執念だけは、誰にも負けないの」

 エララは再び笑った。にっこりと、背後で炎の魔力を漏らしながら。

「あなたのその余裕、いつまで続くかしら?」


 そのわずかな反応に、エララは怒りを燃やした。

 効く。完全ではない。だが、何かを削れる。ならば削り尽くすまで。

 竜は再び跳んだ。

 翼で風を叩き、上空から尾を振り下ろす。氷壁に亀裂。すかさず炎。蒸気の中へ突っ込み、牙を立てる。氷の味が口内に広がり、舌が裂ける。シオンの放った黒い氷槍が肩を貫き、鱗と肉を抉った。


『ああああああああッ!』

 エララは槍を筋肉で締め砕き、そのまま至近距離でブレスを吐いた。赤い炎がシオンの仮面を照らす。氷壁が熱で鳴り、表面に蜘蛛の巣状の亀裂が走った。

 届く。

 あと少し。


 その瞬間、魔法陣が大きく脈打った。

 森全体が低く唸り、遠くの空で何かが軋む音がした。アレスの障壁だ。エララには分かる。あの優しい魔力の膜が、外から無理やり捻じ曲げられている。

 時間が、ない。


「……鬱陶しいな」

 シオンの声から、初めて余裕が薄れた。

 彼は舌打ちし、両手を胸の前で交差させる。周囲の温度が一気に落ちた。空気中の水分が結晶となり、エララの視界を白く埋める。

「少し黙れ。『氷結のクリスタル・プリズン』」


 地面から無数の氷柱が噴き上がった。

 上からも、横からも、背後からも、氷の槍が伸びる。エララは翼を広げて逃れようとしたが、肩の傷が動きを鈍らせた。一本が翼を貫き、次の一本が尾を縫い止める。さらに柱が重なり、檻となって巨体を閉じ込めた。


『ガ……ッ!?』

 極寒が鱗を噛んだ。

 氷の柱はただの拘束ではない。触れたものから熱と魔力を奪い、内部の生命活動まで凍らせる呪具だった。エララの四肢が鈍る。炎を吐こうとしても、喉の奥で火が震え、すぐに萎む。


「そこで見ていろ。お前の愛する主が守る障壁が、音を立てて崩れる様を」

「……させない。絶対に……」

「まだ口答えするか。愚かな獣め」

 シオンは魔法陣の中心へ戻り、両腕を高く掲げた。

 血と魂を吸い上げた紋様が、赤黒い太陽のように輝く。積み上げられた死骸の残りが灰になり、その灰すら光の柱へ飲まれた。


「さあ、目覚めの時は来た! 大いなる闇よ、今こそこの地に顕現せよ!」

 光の柱が天を衝いた。

 赤黒い奔流が雲を突き破り、見えない術式の網へ食らいつく。遠く、アレスの光幕が悲鳴を上げた。エララの瞳には、実際の距離を越えてその光景が映る。庭を包む不可視の膜に亀裂が入り、細い線が幾本も走る。水晶が割れる寸前の、あの取り返しのつかない音。


『アレス様……ッ!』

 エララは檻の中で暴れた。

 氷柱へ爪を立てる。折れた爪の根元から血が溢れる。牙で噛む。口内が凍り、歯茎が裂ける。尾を振ろうとしても、固定された骨が軋むだけ。冷気が肺へ入り込み、意識の端を白く染める。

 間に合わなかった。

 その言葉が、刃より深く胸を裂いた。

 自分の力が足りなかった。自分がもっと早く気づけば。もっと強ければ。もっと賢ければ。アレスが大切にしてきたものを、彼の知らぬうちに守れたはずなのに。

 防壁の亀裂が広がる。

 エララの心にも同じ亀裂が走った。

 だが、黄金の瞳から光は消えない。


『まだ……終わっていない……!』

「無駄なあがきだ。お前の命も、その障壁も、間もなく終わる」

「……ふふ、そうかしら?」

 エララは残った生命力をさらに絞った。

 竜の核が悲鳴を上げる。体内の熱を一点へ集め、凍りつく血管を無理やり開く。鱗の裂け目から血が噴き出し、氷の床を赤く染めた。その血がじゅう、と音を立てる。冷気に押し潰されながらも、わずかな熱が生き残る。


 シオンが振り返った。

「まだ動くか。見苦しい」

「見苦しくていいわ……醜くていい……!」

 エララの声は、喉を潰した獣の唸りに近かっている。

 それでも言葉は燃えていた。

「アレス様を守れるなら、私は何にでもなるの!」


 氷の檻の内側で、赤い光が脈打っている。

 一本、氷柱に細い亀裂が入る。すぐに冷気が修復しようとするが、血を燃料にした炎がそれを阻む。二本目。三本目。エララの身体は限界を越え、もはや崩壊へ向かっている。それでも彼女は止まらない。

 アレスのために。

 あの庭のために。

 彼が穏やかに明日を迎える、その一瞬のために。

 真紅の竜は氷の檻の中で頭をもたげた。

 命の炎は消えかけ、だが最後の瞬きほど強く燃える。

「さあ、ここからが本番よ……シオン」

 血に染まった牙を見せ、竜は笑った。その姿は、どんな美しい宝石よりも気高く、そして恐ろしかった。

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