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第6巻 第1章 竜の里からの使者(2)

竜の里の門前に立ったとき、空はもう薄紫に染まっていた。


長く尾を引く雲が、夕陽の余熱を吸って薔薇色の繊維を晒し、稜線の向こうには宵の一番星が控えめな光を瞬かせる。アレスは小さく顎を引き、その光景を一拍だけ見つめた。


「……うん。星を一つ、もう少し東に寄せてやりたいところだけど、ここはアステリアじゃない。私の管轄外だ」


呟きはほとんど独り言だ。

傍らに立つエララが、ぱっと顔を上げる。竜の鱗を思わせる銀の睫毛が夕光を弾き、緋色の瞳が彼の横顔へ吸い込まれるように向けられる。


「今、星のお話を?」

「ああ。竜の里の空も、悪くないけれど、もう一手だ。いや、いい。余所の庭に口を出すのは無粋だからね」


アレスはふっと笑い、足元の白い石畳に視線を落とす。武闘のバルガスを討ち、四天王の三柱目までを葬ったあとの帰路にしては、彼の所作は呆れるほどに静かだ。袖口に飛んだ煤も、靴の踵に刻まれた裂け目も、彼の関心を引かない。彼が気にしているのは、もっと別のもの。視線の届く全ての「線」が、整っているかどうか、ただそれだけだ。


エララはその横顔を盗み見ながら、唇の裏で小さく息を噛む。


(綺麗。今日も、おそろしいほど)


夕陽の朱が彼の頬骨を細く削り、長い睫毛の影が瞼にひと筋落ちる。それを見るたびに、胸の奥でなにかが暴れる。獣だ。喉を擦らせて、低く唸る。誰にも見せたくない。誰の眼にも触れさせたくない。あの薄紫の光が、彼の瞳にだけ宿るのなら、世界の他の場所はすべて夜であっていい。


その昏い熱を、エララは自分の手のひらをぎゅっと握り込むことでなだめる。爪が掌に食い込み、薄く血が滲む。痛みは、最近の彼女にとって唯一の手綱だ。バルガスとの戦いを越え、彼女は知った。「アレスのために強くなる」ことと「アレスのために誰かを壊す」ことは、似ているけれど、ぜんぜん違うのだと。


里の長たちに別れを告げ、転送陣の前に立ったとき、エララは小さく咳払いをする。


「戻ったら、まず何を?」

「結界の点検だ」

「お休みは……」

「景観の歪みを放置するくらいなら、私は眠らない方がいい」


迷いのない返事だ。

エララは、こっそりと頬を緩める。困った人だ、と思う。それでも、こういう人だから、こんなにも惹かれてしまうのだ。


転送陣が淡い金の光を放ち、ふたりの影を呑む。

視界が砂ばかりに崩れ、再構成され、次の瞬間、アステリアの空が頭上に展開する。


「……ただいま、私の庭」


アレスは、無意識にそう呟く。


森の梢は均一に整えられ、月光の通り道が三本、寸分の狂いもなく地面に伸びる。葉の落ち方さえ計算されたその風景は、巨大な絵画の中に足を踏み入れた錯覚を抱かせる。空気の湿度、虫の鳴き声の密度、苔の照り。すべてが彼の思い描いたとおりに息づく。


エララは、彼の隣で息を吸う。アステリアの空気は、いつだって少しだけ甘い。蜂蜜と、雨上がりの石と、ほんのわずかな鉄の匂い。寸分の狂いもない空間が呼吸する匂いだ。


「綺麗、ですね。何度見ても」

「当然だ。私が作ったんだから」


アレスは胸を張り、それから片手を翳して結界の脈を読み始める。指先から細い金糸のような魔力線が伸び、空気のあちらこちらに触れ、彼の感覚へ情報を返す。湿度の偏差〇.〇三、温度差〇.二、東第七区画の苔の伸長率がやや高い、西の月光導線が二ミリ左に逸れ。


「ふむ、悪くない。私が留守の間にしては、上出来だ」


満足げに頷きかけた、その時だ。


ぴくり、と彼の眉が跳ねる。


「……何だ、これは」


声が、一段低くなる。空気の粒子が、彼の機嫌に呼応するように小さく震える。エララの背筋にも、ぞくりと走るものがある。アレスがこの声を出すときは、たいてい、何かが「あるべきでない場所にある」時だ。


「アレス様?」

「ついて来い、エララ。北東だ」


彼は答えるよりも先に駆け出す。マントの裾が夕闇に翻り、踏み出した足が森の小径を音もなく蹴る。エララは慌てて、その背を追う。竜の翼を半ばまで顕現させ、低く滑空するように木立を縫う。木漏れ日のかわりに、夕の名残が幹に縞を描き、ふたりの輪郭を細かく裁断する。


たどり着いたのは、結界の北東端。森と虚無の境界線。

本来であれば、そこには彼の織った「銀の網」が、月の繊維のように透けて広がるはずだ。空気を撫でれば指先に乗る、軽くも強靱な、彼の誇りの結晶。


その網に。

亀裂が、走る。


「……は?」


アレスの声から、ふだんの装飾がすべて剥がれ落ちる。

言葉の脚色も、皮肉も、自負も、なにも。ただ素のままの驚愕だけが、ぽつりと夜気に落ちる。


亀裂は、黒い。

そう、黒、というのが正しい。だが、ただの黒ではない。光を吸い込み、視線を吸い込み、見つめれば見つめるほど、こちらの呼吸まで吸い取られそうな、底の見えない黒。それが、彼の銀の網に、ひとすじ、ふたすじ、みすじ。爪で引っ掻いたような線が、宙空に刻まれる。


エララは思わず一歩、踏み出してアレスの前に立つ。

鱗化した手の甲を盾のように構え、低く喉を鳴らす。竜の本能が、警告を発する。これは、生きている。亀裂そのものが、こちらを見る。


「下がってください。これは……普通の損壊ではありません」

「……ああ、わかっている。これは、内側から、引っ掻かれた跡だ」


アレスは膝をつく。亀裂の根元に手をかざし、指先に魔力線を集める。彼の銀の網に触れた瞬間、線が共鳴し、彼の脳裏に「痕跡」が流れ込む。


笑い声。

低く、湿った、男の笑い声。

そして、長い指先が、内側から、彼の結界を、爪の腹でなぞる感覚。


「ッ……」


アレスは顔をしかめ、手を引く。


「誰だ。私の空間を、こんな下品な線で汚したのは」


その声音には、純粋な怒りがある。命を奪われたから怒るのでも、結界を破られたから怒るのでもない。彼の「絵」に、許可なく筆を入れた者がいる。それが、彼にとって最大の侮辱だ。


エララは亀裂を睨み、奥歯を軋ませる。

バルガスの粗暴とも、これまでの三柱の悪意とも、質が違う。粘度が違う。これは、もっと、静かで、ねっとりとした、嗤いを含んだ気配だ。


「最後の、四天王」

低く、彼女は呟く。「シオン……」


その名を口にした瞬間、亀裂の奥で、何かがゆるりと動いた気がする。視線、と呼ぶのも憚られるような、ぬるい注視。エララの背中の翼が、ぶわっと逆立つ。竜の本能が、彼女の魂の最も深いところで悲鳴を上げる。


これは、来る。

近いうちに、必ず、こちら側へ。


「結界を一度、閉じてください。私が竜の炎で焼き……」

「待て、エララ」


アレスは静かに首を振る。指先で空中に細い線を描き、亀裂を「観察」する。眉間に刻まれた皺は深いが、その瞳の奥は、結界師としての冷静さを失わない。


「焼けば、相手にこちらの手札を見せることになる。今、見せる必要はない。それより、これは『招待状』だ。次は表から来るぞ、という、ね」

「……招待状」

「無作法な客ほど、玄関を派手にする。下品な趣味だ。心底、嫌になる」


アレスは立ち上がり、軽く手を払う。亀裂を一旦、薄い銀の膜で「上書き」し、表面上は何事もなかったかばかりに整える。完璧な空間を求める彼にとって、これは妥協であり、屈辱だ。それでも彼は、今この瞬間に派手な反撃をすることを選ばない。


その判断の冷静さに、エララはむしろぞっとする。

(アレス様は、もう、視えている)

次の戦いの輪郭が。

そして、その先に待つ、何か、もっと大きなものまで。


ふたりは、結界の端から踵を返す。

夜は完全に降り、月が東の空に銀の杯のように昇る。アレスの思い描いたとおりの位置、思い描いたとおりの傾き。彼が「これでよし」と頷くべき夜空のはずだ。けれど今夜、彼はその月を見上げない。


歩きながら、アレスはふと、口を開く。


「……なあ」


声が、少し、揺れる。

エララは顔を上げる。


「はい」

「お前の名前は、」


そこで、彼は言葉を切る。


時間にして、半呼吸。

ほんの、わずかな、空白。

けれど、それは、ふたりの間に流れた数多の夜のなかで、もっとも長い半呼吸だ。


「……エララ、だったな」


最後にそう繋いだ彼の声には、わずかに自分自身への戸惑いが滲む。なぜ、今、確かめねばならなかった? なぜ、一瞬、舌の上から零れ落ちかけた? 彼自身、答えを持たない問いだ。


エララの足が、止まる。


夜の森のなかで、彼女は微笑む。微笑もうとする。けれど、それはきっと、笑みにはならない。頬の筋肉が、うまく動かないからだ。


「……はい。エララです」


声は、震えない。竜姫としての矜持が、辛うじてそれを支える。けれど、胸の内側では、何かが、音を立てて崩れる。バルガスとの戦いで負った傷よりも、ずっと深いところに、ひびが入った気がする。


(忘れないで)

(私の名前を、忘れないで)

(あなたの結界に走った亀裂と、同じ場所に、私を置いていかないで)


声にならない祈りが、夜気に溶ける。

アレスは、何か言いたげに彼女を見つめ、けれどそれを言葉にする前に、視線をふいに前へ戻す。


「……行こう。屋敷で、地図を広げる。シオンの動線を、洗い直す」

「はい」


ふたりの背を、月光が淡く撫でる。

アレスの思い描いたとおりの、寸分の狂いもない月光だ。けれど、その光の中を歩くふたりの影は、ほんの少し、これまでよりも距離を空ける。アレスはそれに気づかず、エララはそれに気づかないふりをする。


防壁の北東。

銀の膜で覆い隠された、黒い亀裂。

その奥で、誰かが、長く細い指の腹で、何度目かの線を描く。じわり、と。じわり、と。急がず、焦らず、けれど確実に。完璧な空間の、最も目を引く部分を、最後の最後に汚すために。


宵闇の底で、四つ目の影が、ゆるりと笑った気配がする。


シオン。

名はすでに、夜の側にある。


アステリアの森に、ひとつ、星が流れる。

それは、アレスの思い描いた図には、ない星だ。

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