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第6巻 第1章 竜の里からの使者(1)

夕の冷えが道を薄く覆う。岩稜の刃が濁った白金の空へ伸び、谷底から樹脂と灰の匂いが上がる。拳で抉られた斜面はまだ温く、地面の筋が獣の爪痕みたいに走る。


「影、角が崩れている」


アレスが立ち止まる。指先から透明な糸が走り、風が琴の音を持たぬまま震える。光が斜めに集まり、格子が下りた。割れ目は閉じ、砕石は粒の大きさで並び直され、焦げの縁は森の緑へ溶ける。空気の重さまで撫で付けるように調律し、風が一拍遅れて素直になる。


「喉、渇かない?」エララが水筒の蓋をひねりながら覗き込む。琥珀の目が熱を秘めたまま、彼だけを映す。


「まだ。あの裂け目が酷い」


アレスは杉木立を見やり、両手を軽く広げる。見えない網が降り、枝の角度が一枝ずつ正された。空の明るさが一段柔らいで、鳥の声の高低が揃う。額に細い汗が浮かぶ。


エララが、その汗を指の甲で掬って拭う。薄布の袖の中、鱗が目を覚ます前の温度が揺れる。竜の里で背負った重みをひとつ置いてきたその手が、いまは彼の横にある。


「少し休もう。ね、もう十分に綺麗」エララは口角だけで笑う。視線の先にある誰かを、見えない棘で拒む笑み。「これ以上、何にも触らせたくないの。景色にも、あなたにも」


「触らせない。そのために整える」


アレスは苔へ目を落とす。斑が偏る。結界の密度をひとつ上げ、色温度を数度だけ下げた。冷えが薄く降り、緑が深みへ滑る。雲が筋を伸ばし、陽の角が鈍くなる。


「あなたの背中、好き」エララが囁く。「同じ熱で、いつも私だけ焼く背中」


「……水を、一口」


「どうぞ」


彼女は唇に触れる前、口縁を指で温める。彼の喉を通る音を目で追い、残った一滴を親指で拭う。彼が見ない角度で、その指を舌先で濡らす。小さな儀礼。


「帰ったら、東縁の光苔を見に行く。流れが乱れている」アレスが水筒を返す。「行きに見えた」


「ええ。あなたがいない間も、誰も入れていない」エララの声は甘く、底に鉄が走る。「近づいた連中は、みんな足を止めた。止めてもらったの。あなたの景色を見ていいのは、あなたと……私だけで十分」


道端の鹿が視線の先で固まり、音もなく逃げる。枝葉の中で風が怯える。彼女の頬は柔らかく熱を持ち、牙の影は見えない場所で光った。


アレスは拳の轍を最後に均し、ひと息を吐く。糸が掌に収束し、空気の綾は滑らかになった。足裏の凹凸と遠い水音と陽の重さを天秤に載せる。釣り合いが取れた、と判断した瞬間に歩が許される。


「もう少し緩めてもいいのに」エララが笑う。「あなたの道なんだから」


「道は歩く者に従うものだ。だが、歩く者が裏切ることもある。だから先に正す」


「あなたが正すなら、私は両脇の余計を片づけるだけ」


甘い。けれど灼ける。アレスはその熱を背で受け、また糸を伸ばす。遠くで雲が一枚剥がれる音がした。影は長い。前にも後ろにも伸びるのに、道は一本。帰るべき場所は一つ。そこに彼の秩序がある。


「エララ」彼は名を確かめるみたいに呼ぶ。「世話になっている」


「もっと頼って」エララは外套の襟を直す。「あなたが世界を磨く間、私があなたを見ている。それで、やっと息ができる」


風が野の匂いを引き伸ばす。整えられた景色は脆い。二人ともそれを知っている。アレスの指が宙で迷うたび、エララが包む。失いかけているものの輪郭を、手の熱でなぞる。影はそこにある。それでも今は、光の縁に追いやれる。彼女の愛と彼の執着が、影を戻さない重さになってくれると信じたい。


夕は濃く、道は薄い硝子を撫でるように冷える。結界は歩幅に合わせて伸縮し、木漏れ日の角度を均す。土へ足が触れるたび、波紋は閉じ、世界は短い静物画になった。


「傾斜が一度だけ甘い。影が溜まる」


アレスが空を梳き、糸が張られる。枯葉の軌跡が直され、苔の色層が一枚沈む。露の反射は空の鈍金に合う鈍さを取り戻す。こめかみに冷たい汗が滲む。


風下で羽音。針嘴の虻が影から滲む。次の瞬間、湿った破裂音が短く生まれ、空気が白熱した。粉になった翅が葉裏へ吸い込まれ、跡は消える。エララの指が、微かに弾かれた余韻だけが残る。


「邪魔、いらない」笑っているのに、刃の気配が笑う。「あなたの視界に汚れは無し、でしょ?」


アレスは振り向かない。再配置された針葉の圧と斜陽の縞だけを拾う。密度を微調整する。そこへ、糸がふっと指から滑った。


芯に薄靄。言葉が水に落ちた墨みたいに滲む。次の手順が遠い。息を整え、記憶の棚を開ける。符の配置、光苔の等高線、拳の軌道。そこにあるはずのものが、誰かに抜かれたかばかりに欠ける。空白の形だけが、ぬるい冷たさとして指先に残った。


「肩、力入りすぎ」エララが外套の皺を撫でて伸ばす。「ね、息」


「……ああ。数えを少し、間違えた」


七の次に八が来ない。頭の中で七が繰り返され、やっと別の数へ飛ぶ。世界がひと呼吸遅れる。伸ばしかけた手が、何を掴むつもりか忘れる。取り繕い、別の糸を結ぶ。


岩陰で影蜥蜴が舌を鳴らす。乾いた皮膚の軋み、甲隙の毒の光。視界の端、指幅だけ内に跳び込む寸前、エララの踵が降りた。音もなく骨が粉へ変わる。蜥蜴はガラス片になって散り、彼女は屈み、破片を指で潰して砂へ混ぜる。血の匂いを吐息で薄い花香へ上書きした。


「今、何か」アレスが眉を寄せる。


「風」即答し、彼の視線を杉木立へ誘導する。「見て。さっき直した枝ぶり、光を掬ってる」


頷く。思惑どおりだ。だが頷く寸前に短い空白が跳ねる。光がひくつき、刹那だけ樹々が誰かの背中の列に見える。どこの背中。思い出そうとすると靄が厚みを増し、視界の周縁が滲む。


「水を。舌が乾く」


「はい」


エララは口縁を温め直し、彼の唇へ滑らせる。喉仏の上下を目で追い、残る一滴を指で拭い、湿らせる仕草を隠す。


「竜の里の……」アレスが探る。「長老の名……」


空白。皺深い眼差し、杖の黒曜石、言葉の温度。輪郭はあるのに名がない。掴みに行った指が空を掴む。


「名前は後でいい」エララの声は柔らかい。「景色の名前だけ覚えていて。その他は、私が持つ」


「その他」という語が、世界の大半を含む。彼女は茂みに指を差し入れた。樹液に集う霧鼠。爪が伸び、皮膚の下で鱗がきらり。静かな破壊が葉擦れの音に紛れる。引き抜いた手を葉の縁で丁寧に拭い、何事もなかった顔でアレスの袖口の埃を払った。


「足元、段差。右の石、角が立ってる」


「助かる」


アレスは角を丸く整える。石が穏やかな形へ戻る。安心しかけた瞬間、自分がなぜ安堵したのかが掴めない。整えることは目的で、安堵は結果のはず。なら、今のこれは何だ。輪郭がまた滲む。


「疲れてる」エララが囁く。「あなたのためなら、私、何でもする。道ごと世界ごと、あなたのためにする」


「静かに、か」


額へ手を当てる。皮膚の下、脈が指に触れる。数拍だけ乱れる。耳奥が水の中に沈み、遠くと近くが入れ替わる。糸を数える。一本、二本、三本……七で止まる。六と七の間に何かが落ちた。拾おうとする手の中が空だ。「……歩幅を少し、狭めよう」


「合わせる」エララが腕に触れ、軽く絡める。彼の熱は砂漠の日没のように速く冷え、また戻る。重みを預けるのが怖いのか、指先に力が残ったまま。


森が開け、夜の青が流れ込む。雲が薄膜の向こうで速度を変える。透過を安定させようとすると、感覚が遅れて届く。遅延は淵。底で誰かが手招きする。名のない感覚が喉へ上がりかけ、沈む。


「さっきの戦い、覚えてる?」エララが問う。優しい声に、答えを導く圧が混じる。


「……拳が速い。地面が波打つ。君が——」


切れる。彼女が何をしたか目は見ているのに、語が出ない。沈黙で包み、代わりに空の色を述べる。「雲が薄い。星が出る前に、東縁の光苔を」


「ええ。帰ったらすぐ」エララは頷き、額の髪を直す。「あなたが見たいものだけ、見せる」


茂みの向こうで小さな気配。音はない。腰の飾りに見せた短刃が抜かれ、葉影が二度だけ震えた。気配は土へ帰る。刃は赤を帯びない。花を摘むのと同じ繊細さ。


「私、あなたを——」エララが一拍置く。「ずっと私だけで見ていたい」


「景色は、均さねば」


アレスはぼんやり応じ、舌の裏に金属の味を覚える。


エララは彼の頼りない視線を掌で受け止め、頬を触れる。「大丈夫。欠けるなら、私が埋める。あなたの目から落ちる前に、余計な音も影も、全部、消す」


祈りめいた呟き。彼女の笑みの下で、牙がきらりと濡れた。アレスが歩き出す。結界はまだ従う。だが内側へ誰かが忍び込む。見えない侵入者。記憶という庭師が剪定を誤るみたいに枝を落とす音が、遅れて届く。


「休もう。今夜は私が見張る。あなたは景色になる夢だけ見ていて」


「……少しだけ」


目を閉じ、糸を緩める。切れはしない。一本だけ、数え違いのまま漂う。エララがそっと指を添え、彼が見ないところで余計な音と気配を削り取った。煙は真っ直ぐに上がり、星はまだ硬く、夜の輪郭は彼のために柔らかい。靄は濃い。だが彼女の熱が縁を焦がす。彼女はそれを愛と呼び、疑いを持たない。


地面がゆるく呼吸する。遠景の山が薄紙を重ねた切り絵みたいにずれる。アレスが瞬きする間に、世界の縁がほどけ、また結ばれる。結び目の位置がわずかに違う。音叉が微妙に外れた時の唸りが空気の底で続いた。


頭の中心に鉄の輪。締まりも緩みもしない。脈に合わせて鈍く光り、内側で火花を散らす。吐息は熱を持たず、冷たい砂みたいに肺へ落ちる。木立の揺れが過去の揺れと重なり、竜の里の旗がはためいた瞬間へ変わる。バルガスの拳が空を裂いた軌跡が枝影の隙間から覗く。次には死の森の黒い霧が広場へ流れ込み、二つの景色が薄皮で貼り合わされた。どちらが現在で、どちらが記憶。剥がそうとすれば、両方破れて消えそうな繊細さ。


歩数を数えようとして、数が異国語みたいに耳から滑る。一本、二本、三本。七の手前で数直線がちぎれて波になる。糸を数え直す。十六。違う、もっと。数えるたび桁が砂丘の稜線ばかりに風に削られ、輪郭が変わる。名もそうだ。景に与えた札が標本箱の中で糊を失い、重なって読めない。完璧に磨いたはずの感触すら、今は曇り越しだ。なぜ執着する。生命線みたいに、そう定めたから。違う、理由がある。声。誓い。けれど紙片は風で千切れ、指から逃げる。


「アレス?」すぐ傍の声。甘い縁に鋼の匂い。顔を向ける。光と影の段差で形作られた輪郭。頬の線、睫毛の陰、唇の湿り。全てが彼の網に従って並ぶのに、名が降りてこない。


「え……」


舌が宙で躓く。母音が裸で転がり、子音の骨が見つからない。エ、エル。鳥籠の中の小鳥を掴もうとして、羽音だけが逃げる。喉元で掴んだ気がしても、指の間を抜ける。空白の味を飲み込んだ瞬間、輪の痛みが鋭さを増す。


世界が二重写しになる。死の森の湿りが石畳に染み、バルガスの影が杉の幹に貼り付く。足元の苔は精緻なグラデーションでありながら、踏み荒らされた瓦礫の記憶を滴らせる。鼻腔には樹脂と灰、舌裏には鉄。耳奥で薄い鈴の中に閉じ込められた虫が羽を震わせる。遠いのに皮膚に近い。


「深く息をして」


エララの指がこめかみに触れる。冷たく、それでも体温がある。その正確さが怖い。どこまで自分で、どこからが彼女の温度か。境界がぼやける。


内側の地図を広げる。東縁、光苔、柵、支柱。海図のようなその紙から北の矢印が消える。地図は地図で地面ではない、と言い聞かせてきたのに、今はそれしか頼れない。その地図に誰かが上書きする。過去の線と今の線が違う角度で同じ場所を指す。どちらが正しい。正しいという感覚が薄れる。美とは何か。影の角度。曲面の滑り。確かにあった。指で辿ると紙が水のように波紋を広げる。


吐き気が波になって喉へ寄せる。世界が蜂蜜に沈められた虫みたいに止まり、次の瞬間過剰に早く動く。手が意志より早く震え、糸が余計な振動を拾った。影が一斉に長さを間違える。押さえ込み、二度、深呼吸。胸郭が檻のようにきしみ、肺が内側から爪で引っ掻かれる。


「アレス、ここ」名前が戻る合図みたいに遅れて届く。アレス。そう、アレスだ。では、彼女は。彼女の名は。


金の火が目に揺れる。舌裏に甘い毒。喉奥で低く鳴る竜の気配。その全てが固有の記号のはずなのに、結ぶ線が途切れたまま。唇が震え、鉛筆の先を紙にそっと置くみたいに音を探る。


「エ……」


沈黙が落ち、重みで世界がたわむ。指が頬へ移り、花弁で撫でるような軽さ。縋るようにもう一度、音を運んだ。


「……エラ……」


蜂の群れを巣へ戻すみたいに、文字が帰る。最後の羽音が止まり、名が置かれる。


「エララ」


言えた。だが、その事実が遠い。他人の口元が鏡越しに動くのを見ている感覚。安堵は波紋の縁だけを撫で、深い水へ届かない。崩壊の感覚は止まらず、いま、僅かな糸に全重力がかかって軋む。


両手を見下ろす。掌の線が等高線に見える。糸を扱ってきた指先が誰かの指に似る。誰の。過去の自分であって、今の自分ではない誰か。「自分」という箱が角から崩れ、粉砂糖になって風に混ざる。集めようとしても、指が甘さで濡れるだけで形にならない。


「休もう」井戸の底から届く水音みたいな真っ直ぐさ。


「……私は、ここに、何を」


言葉は泥に足を取られ、最後に届かない。結界、森、守る、秩序。名詞の骨だけが床に転がる。筋を通す動詞がない。額を押さえ、目を閉じた。瞼の裏で光が薄い刃になって閃き、痛みの形を塗り替える。


恐怖は無色。冷たくも熱くもないのに、焼け跡の匂いがする。柵が一本ずつ抜かれ、隙間から風が吹き抜ける音だけが残る。風は空白に砂を運び、すぐまた攫う。掴めない。埋まらない。終わらない。奥歯を噛み合わせ、わずかな狂いが頭蓋へ響く。


「見て。ここにいる」エララが手を包む。温度が橋になり、断たれた岸をつなぐ渡り場が一時的に現れる。足元の川は速く濁り、自分の影をすぐ引き伸ばして奪う。


彼女が指を一本ずつなぞる。親指、人差し指、中指、薬指、小指。数が戻る。戻ってはまた欠ける。それでも数える。数える間だけ世界が滞在を許す。


「帰ろう。あなたの結界の内側へ。そこなら思い出せる。思い出すまで、私が全部持っている」


彼の世界。遠く、森の上に薄く光る網が見えた気がした。彼が張った格子。そこへ帰れば自分の形に戻せるのか。戻せないのか。わからない。わからなくても、足は前へ出る。前がある限り、彼はまだここにいる。


ゆっくり息を吐く。輪の痛みは消えない。眩暈は海のうねりみたいに足元を攫う。それでも糸を一本つまみ、結んだ。緩い結び目。それでいい。今はそれでいい。隣の熱を確かめる。彼女は、いる。名も、今は、ある。歩く。世界がまたゆっくり均され始めた。そのたび、どこか遠くで別の何かが崩れる音がする。内側の音。まだ名のない恐怖の正体。


夜が森へ沈み、星が硬質に刺さる。薄いガラスの天蓋が頭上に広がり、風の速度と草の穂先の揺れが揃う。アレスは歩を止め、空の微細な歪みを拾って指を上げる。星の反射角が外れた。空と地の照応が乱れると世界は嘘をつく。呼吸を整え、見えない糸を弾き直す。音はないのに震えが伝わり、木々の影が短くなった。


疲労が水さながら足首へ溜まり、冷えが逆流して頭へ戻る。紙片が擦れる音が思考の奥で続く。影の角度を正し、苔の色温度を下げ、夜露の密度を均す。ひと手順ごとに世界は滑らかになり、薄皮が彼自身の中身を覆い隠す。


「この辺り、匂いが騒いでる」エララが囁く。足取りは軽い。地面は彼女を恐れて沈黙した。茂みの陰で小さな骨が軋む音が一瞬だけ生まれ、葉の表で消える。彼女は微笑み、アレスの外套の裾を直す。指の腹は温かい。視線が彼の横顔の線を丁寧になぞる。絹の手触り、裏に刃。


アレスは星を一つ、刹那だけ地表に落とし、整列し直す。完了する寸前、視界がわずかに揺れた。原因を掴みに行く。掴んだのは彼女の顔。夜の光を吸い、金の火を宿した瞳。頬に落ちる睫毛の影。湿った赤。網と規則に従って整っているのに、名札が喉のどこにも見当たらない。


言葉が先に落ちる。舌が自分のものではないように滑り、吐息に絡めて音がこぼれた。


「……君は、誰だっけ?」


星が一息だけ瞬きをやめる。時間ではなく、音が凍る。エララの睫毛が止まり、瞳孔が針の先みたいに収縮する。笑みは顔の上に残る。意味を失ったまま固まり、頬の筋が動かし方を忘れる。唇がわずかに開き、呼吸が漏れる。薄い膜に爪で傷をつけたみたいな裂け目が心に生まれ、そこから暗い水が滲む。絶望の水。そこへ別の光が混じる。体温が一度上がり、皮膚の下で鱗が目覚めた。喉の奥で竜の火が短く鳴り、すぐ押し殺される。笑みは保たれる。見えない牙だけが、縁で静かにのぞいた。


「今、なんて?」


声は壊れない。壊れないからこそ怖い。滑らかな表の下で、獣が鉄格子に頭を打ち付ける。


アレスは次の呼吸で我に返る。落とした名を探し、棚を乱暴に漁った。エララ。音が戻る。確かにある。脳のどこかが遅れて点灯した。焦りのまま言葉を継ぐ。繕う糸ごとく口から語が出るが、強度が足りない。


「違う、エララ。すまない。疲れて、舌が……名を、ほんの瞬きの間、掴めなくて」


彼は手を伸ばす。


「冗談じゃない。だけど今は思い出した。エララ。君の名も、温度も、全部」


「そう」


平らな声。平らさの下に油が流れる。彼の手が頬へ押しつけられ、彼女が目を閉じる。睫毛が頬に影を落とし、その影は彼の指の節で震える。内側で別の何かが目を開ける。彼女はそれを裏返し、慈愛の形に畳もうとした。畳むたび皺が増え、溝に冷たい水が残る。


夜は澄む。息を潜めるほどの清澄。風は等速、星は数えやすい並び。なのに中央に数えられないものが落ちた。小石一つ分の疑問なのに、水面があり得ないほど高く跳ね、見えないところまで濡らす。二人の間に音のない溝。景色には映らないのに、足は確かにつまずく。


「本当に、思い出したのね」エララは微笑む。形としては欠けが無い。角度も引き方も規則に合う。だけど添えるはずの目の熱が少し遅れる。遅延は溝。埋めたくなるのは本能。指先に小さな力が篭り、彼の手首の骨を確かめた。折れば——そんな電光みたいな想像が脳裏を走り、焼け跡だけを残して消える。深く息を吸い、竜の火を飲み込む。


「ええ。疲れてるものね」彼女は言う。「帰ろう。すぐ。あなたが、あなたでいられる場所へ」


アレスは頷く。途中で、首の筋が緊張で固まっているのに気づく。筋一本ずつが怖れる。何を。次の瞬間、同じ問いが滑るかもしれない恐怖。口が意志と別に音を作るかもしれない恐怖。いまは戻った。次は。戻らないかもしれない。飲み込む。喉の奥で金属が擦れる味。


景色を直すみたいに、自分の欠陥を言葉で覆う。「東縁の光苔、すぐ見よう。侵入の匂いも、密度を上げて洗えば消える。全部、整える」


「ええ、全部」エララが頷く。柔らかな声、深い目。奥底に針の光。「あなたの世界、名、視線。全部、私が守る」


その言葉に合わせるみたいに、彼女の背で小枝が音もなく砕けた。握った指が少しだけ白む。足元では小さな影が一つ、息を止める。夜の虫が鳴きをやめ、静けさが砂のように降り積もる。糸が微細に音を立て、その響きは誰も聞かないはずなのに、二人の皮膚の裏で同時に震えた。


アレスは歩き出す。歩幅は揃う。道は整う。整う静けさが妙に冷たい。彼が作る冷えではない、どこか別の場所から滲む冷えだ。


エララは並ぶ。足音は彼のそれに吸い込まれ、消えた。横顔は寸分の狂いもなく整う。整うからこそ、歪みが目立たない。彼女は笑い、内側でひとつ決める。二度と問わせない。二度と「誰だ」と言わせない。この夜、この森、この世界全部を、彼の名のために編み直す。もし景色が名を奪うなら——


彼女の背後、葉の影がひとつ震え、何かが音もなく土に還る。微笑みは崩れない。


星が増えていく。彼の網に従い、湖面の反射も乱れない。だが二人のあいだには、星では照らせない影が落ちた。形はない。ないまま、確かな重さだけが増す。彼が測る秤は軋む。彼女が支える腕はしなやかで、強すぎる。戻れない予感が夜露で足首を濡らす。帰るべき格子は近い。なのに、その道の上で不可視の裂け目が静かに広がった。

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