第5巻 第4章 エララのヤンデレ検閲(1)
頬に針の先で突かれたような冷えが刺さる。湿った鉱物の匂いが鼻の奥に残り、足音は乾いた反響に変わって天井へ昇る。岩肌はざらりと指を拒み、洞窟の奥からゆっくり息をするような魔力の残り香が押し寄せては引いた。
「寒いの、苦手でしたっけ?」
袖を握っているエララが横目でうかがう。握る指は白く細い。冷たい、だが脈は早い。
「温度の問題ではない。見た目が悪い」
アレスは壁際の水晶群に視線を走らせた。外光が薄く差し、角度の揃わない結晶がばらばらに光を弾く。散った光が頬の産毛に触れ、語尾のない不快感だけを残す。
「巣穴みたい、って顔ですね」
「巣穴そのものだ。色も高さも道幅も揃わない。視界が騒がしい」
里の建造は自然の形をそのまま抱え込んでいる。粗い。大雑把。アレスの喉の奥に、小さな砂利が引っかかったような違和感が続く。
中腹に穿たれた広い洞。そこが謁見の間だと案内された。壁の結晶は自然のままに群れ、天井は竜の翼を広げてもまだ届かぬほど高い。薄青い光に満たされ、吐く息は白く、足元は乾いた冷たさ。音が吸われずに戻ってくる。
「アレス……離れないで」
エララが袖のつまみを強める。瞳の色が少し沈んだ気配。彼女の髪は風もないのに細かく揺れ、肩から滑った一筋が、光の粒を散らす。
「この場所、懐かしい匂い。けれど……あなたに触れていい場所じゃない。わかりますね?」
「わからないのは、入口のアーチの角度だ。歪んでいる」
「そこなんですか」
「他は見なかったことにしている」
アレスは真顔で言った。彼の呼吸は一定。視線は遊ばない。耳に届くのは水滴の落ちる音と、遠くで鳴る低い風の唸りだけ。
最奥、一段高い岩座。そこに老人が座していた。人化の術だろう。白い髪と髭は光を含んだ糸の束、皺の奥の瞳は深く沈む湖の色。身に纏う白の法衣は衣でありながら周囲の空気を重くする。肩から立つ気配は鈍い鉄の匂いを帯びて、肺の奥で重さに変わる。
「……よくぞ参った、エララよ。そして、それに付き従う、人の子」
声は低い。大きくはないのに壁を震わせ、骨の内側で鳴った。言葉が押し寄せる波に似て、一拍遅れて鼓膜の後ろから圧が来る。
アレスは顔を動かさずに視線だけを上げた。耳に残る音よりも、岩座の右側の突起の長さが気になって仕方がない。
「右の突起、三センチ長い。なぜ揃えない」
独り言のように呟く。
「もしかして怒ってます?」
「苛立っている」
老人の視線がアレスを射抜く。温度は上がらないのに汗腺が開く錯覚。だがアレスの皮膚は乾いている。
「人の子。貴様が、エララを惑わせた張本人か。短い命で何をしようとする。いかなる手管で白銀の姫を絡め取った」
侮蔑は隠さない。短命、愚、下等。言葉の匂いがそれを連れてくる。
「絡め取った覚えはない」
アレスの声は平らだ。
「私は、私の空間を組み立てている。彼女は自分の意志でそこにいる」
「詭弁だな、人の子」
老人の瞳に鋭い光が宿る。
「貴様のような脆い器が、竜と並ぶなど笑止。息吹ひとつで灰に変わる。結界とやらも、我が力を前にすれば薄紙だ。人間がどれほど足掻こうと、竜の前では無力」
重みが増した。空気が軋む音が耳に触れる。膝に見えない荷物を乗せられたような圧が、静かに、しかし確実に増える。
それでも、アレスの周囲だけ風の流れが違う。肌の上で粒子は滑り、裾は揺れない。
「薄紙か。審美眼の低さは声に出る。あの不格好な岩座を玉座と呼ぶ時点で、貴殿の判断は信用しない」
老人の眉がわずかに動いた。誇りの上に土足で音を立てて乗った、そんな顔だ。
「……無礼者」
老人はエララへ向き直る。
「エララ。目を覚ませ。短い命に心を寄せるなど、白銀の名を穢す行いに等しい。貴様には次代を率いる務めがある。刹那に心を置くな」
声には父が子に言い聞かせる調子が混ざる。ただし従属を疑わぬ声音。
「すぐにその人間から離れろ。戻れ。里の奥に籠もり鍛え直せ。今回の不始末は見逃してやる」
命令。その場の空気が命令だと言っている。
エララは俯いたまま、指先だけが微かに震えた。髪が頬を隠す。まぶたの影は動かない。
「どうした。聞こえぬか。そやつは、後で我が処理する。痛みを与える間もない。塵ひとつ残さぬ」
次の瞬間、温度が落ちた。比喩ではない。壁面の結晶が薄く白を被り、床に霜の模様が走る。呼気が白く広がり、音がくぐもる。
「……今、なんと」
低い声。床を這う気配。
エララが顔を上げた。瞳は色温度を失い、落ちた星の破片を閉じ込めたみたいに冷たい。唇は笑っている。頬はやわらかく、目だけが笑っていない。背後で薄い音がした。氷が花開く音。
「もう一度、言えます?」
言い終えた後、彼女は小さく首を傾げた。髪先から白い煙のような冷気が零れる。
「誰のことを、薄汚いと呼んだのか……教えて」
笑っている。指は落ち着かず、袖の縫い目を撫でる。目の端で氷の粒が瞬く。
「エララ」
アレスの袖を握る手が震え、更に冷えた。足元の霜が音を立てて増える。
「息が乱れる。胸が痛い。ねえ、どうしたら静まるかしら」
彼女の背で白銀の影が立つ。竜。輪郭は揺らぎ、口が開いて閉じる。声は響かないのに鼓膜が痺れる。
「貴様が長でも、同族でも、境界は関係ないのだな」
老人が呟き、立ち上がる気配を見せた。
「エララ……正気か。人のために我に牙を剥く。里も一族も捨てる気か」
声にひびが入る。
「里は……大切でした。けれど、順番があります」
エララは息を吸い、吐いた。白。笑顔は消えない。
「名前を呼ばれるたび、世界が静かになるの。わかるでしょう?」
指先に白銀の刃が生まれる。触れた空気が鳴いた。足の筋肉がわずかに沈む。踏み出す直前、視線はすでに目標を射抜いている。
「やめろ、……えっと」
アレスの声は低く短い。その一音で、張り詰めた線がぷつりと切れた。
エララの肩が跳ねる。刃は消え、彼女は振り向いた。目に焦りが混じる。犬が呼ばれた時の、捨てられた記憶を抱えた犬の目。
「アレス、様……」
アレスはこめかみに触れた。軽い眩暈に似た空白。数秒。脳裏を探る。
(……今、名前が出なかった)
短い時間。それでも彼にとっては重い。一度取り込んだ情報は、欠けない。それが彼の常識だ。
(エララ。そう、エララ。忘れる理由がない)
空間の湿気が皮膚にまとわりつく。指先の温度で自分の体温を確かめ、アレスは手を下ろした。
「エララ。騒がせるな。私の領域で野暮な衝動を撒けば、秩序が崩れる」
淡々とした声。言葉が空気を整える。
エララははっとしたように瞳を伏せ、刃の記憶を手の中から振り払った。吐息が短く詫びる。
「ごめんなさい。……私、抑えたかったのに。ね、罰は?」
目尻に涙が光る。けれど、口元は甘えた形にならない。緊張が残っている。
「不要だ。次はするな。お前は私の世界の一部として、常に美しく動け」
「うん。努力します。見苦しくしない」
エララはアレスの隣に静かに立つ。足音を消し、視線だけを老人に向ける。温度は依然低い。壁の結晶が細かく鳴り続けるのだ。
老人の喉が上下する音が聞こえた。目の前の光景が彼の理解を逸脱したのだろう。長として積み上げてきた時間の重さが、いま小刻みにずれる。
「……病だな。心の。あの人間に操られているのだ」
吐き捨てる。
「ならば、話は早い。力で縛り直す」
老人が立ち上がる。床の粒子が転がった。空気が膨張し、壁の結晶が外へ跳ねる。破片は空中で停止し、光を受けて回る。
「人の子。そこの命、ここで終わらせる。息吹の前では影ひとつ残らぬ」
老人の掌に白が集まる。光は鋭い線に変わる直前まで尖った。
「……見苦しい」
アレスは小さくため息を吐いた。指を鳴らす。
乾いた音がひとつ。
直後、床から天井まで幾何の線が立ち上がり、淡い光が空間の骨組みを描き出す。冷たい青が、角度と間隔を決めた。光線はその面に触れた瞬間ほどけ、細かい粒になって消える。宙で泳いでいた結晶は重さを取り戻し、床に落ちた。甲高い破片の音が幾度も重なる。
「な……」
老人の目が見開かれる。喉の奥に掠れた音。
「無駄が多い。勢いに任せて捻じ曲げるだけでは、流れが淀む」
アレスは老人を見た。視線は鏡の面ごとき平たい。
「私は人かもしれない。だが、私の作る美は覆らない。貴殿の乱暴な手は、ここには届かない」
言葉と同時に空間の縦横が少しずつ揺れ、やがて定まる。老人の肩に見えない重みが掛かる。膝がわずかに沈む。呼吸が浅くなる音が距離を越えて聞こえた。
「ぐ……貴様、何者だ」
老人の声が低く落ちる。
「見えている通りだ」
アレスは視線を少しずらし、岩座を正面から計る。右の突起、三センチ。左の陰の入り方。面の角度。光の返し。
「アレス……」
エララが震え混じりに囁いた。頬に手を当て、目はうっとりと細められる。
「今、胸が甘く痺れる。指先が熱い。あなたの音ひとつで、こんなにも整うんですね」
アレスは彼女の言葉を流し、足音をひとつ進める。岩座の縁に指を伸ばしたくなる衝動。触れれば粉塵の匂いが立つだろう。削れば音は高く、粒子は細かい。左右の比率をどこで切るか。重心はどこに置くか。光はどの角度で返させるか。
「その石、どう直す気?」
エララが小首を傾げる。声は柔らかい。背後の空気はまだ低い温度を保っているが、彼女の指先だけは温まってきた。
「黄金比は退屈だ。もう少し意地の悪い比を使う」
「うふふ。性格が出ますね」
「貴殿の椅子を借りる」
アレスは老人の方に視線だけ向け、許可を問う形の声を出した。許可を求めているというより、通告に近い。
老人は答えない。肩で呼吸をし、歯を軋ませる。氷点の空気が微かな震えで揺れる。
「エララ」
アレスが呼ぶ。今度は迷いなく。さきほどの空白を頭の隅に押しやる。
「はい」
「手伝え。氷で仮の面を張る。角度は私が示す」
「了解。アレス様の示す線で」
エララは微笑む。その笑みはやわらかいのに、足元の霜が反応する。笑ったまま指を弾くと、薄い氷膜が空中に現れ、アレスの手の合図でひそかに移動する。線と線が出会い、端と端が吸い寄せられるように整列する。
「右、三ミリ下げて」
「これくらい?」
「少し戻す。二ミリ」
「……ここ」
「良い」
老人は堪えきれずに声を上げるのだ。
「ふざけるな、貴様ら! ここは我らの里だ。勝手を——」
「」
アレスは首だけで言葉を切った。声は低い。だが、それで十分だ。空間の線が一斉に響き、音はすぐに吸われた。
「まだ終わっていない」
彼は岩座を眺め、指の腹に想像上の粉塵を感じた。喉に石の匂いが絡み、舌に金属の味が残る。耳の奥で薄い削り音が鳴る。目の前の面は、あとひとつ角を落とせば穏やかに呼吸し始める。
「アレス」
エララが小声で呼ぶ。目は彼の横顔に釘付けだ。
「さっき……私の名前、詰まってました?」
その声は小さいけれど、よく通る。心配と、ほんの少しの甘えが混じる。
「一瞬な」
アレスは嘘をつかない。
「大丈夫。疲れているだけだ」
彼は自分に言い聞かせるように言った。言葉が口の中で丸まっていく。壁の結晶に小さなひび。音は高い。
「疲れてるときは、手、温めます」
エララは彼の指を握った。彼女の掌は熱と冷えの境界にある。握った瞬間、指先に血が戻る感覚。皮膚の表面で温度が混ざる。
「ありがとう」
アレスは短く返した。視線は相変わらず岩座の縁にある。
「人の子。……そこまで我らを侮るか」
老人が重ねて唸る。声の奥にわずかな怯え。それは本人が気づかぬうちに混じる。
「侮ってはいない。貴殿は貴殿のままでいればいい。ただ、ここは私が整える」
「誰が許す」
「許しは不要だ」
線がひとつ、空中で折れた。氷の膜が淡く軋む。エララの指はそれに追随し、ためらいなく角を落とす。氷は砕けると音もなく蒸散し、目に見えない細かい霧だけが残る。
「エララ、肩」
「はい」
呼吸を合わせる。彼女の肩の力が少し抜け、動きが滑らかになる。足の音は一切しない。彼女の身から出る冷えはもう刺さらない。皮膚に薄くまとわりつくだけ。
「……アレス様」
彼女は次の言葉を迷った。もどかしそうに顎に力を込め、それから小さく笑う。
「あなたの世界の中にいると、私、落ち着きます。だから、言い過ぎることがあっても、どうか見捨てないで」
「見捨てる理由がない」
アレスは淡々と答えた。砂を踏むような優しい音が、足元で一回だけ鳴る。
「ありがとう」
エララは目を細め、再び氷の膜を動かした。彼女の背後で、白銀の竜の影が音もなく消えていく。
老人はもう何も言わなかった。ただ、目の前で作り変えられていく岩座を、虚ろな目で見つめている。
アレスの指先が空を切る。そのたびに、空間の歪みがひとつずつ消えていく。彼の頭の隅にある小さな空白も、今はひそかに眠っている。
謁見の間は、少しずつ彼の望む形へと変わっていく。冷たい青い光が、新しい秩序を照らし出していた。




