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第5巻 第3章 毒と呪いの四天王(5)

死の森の最果て。アレスの結界は薄い玻璃の膜となって世界を縁取り、静かに終わる。

指先でなぞれば滲む虹彩。数万の紋様が編まれた織物のような透光の壁が、彼の一歩を境に後方へと退く。

背後には、彼の秩序が徹底して支配する空間――刈り揃えられた沈黙、校正済みの風、腐敗すら美術的に配置された死の森――が、淡い光の器として鎮座する。

前方には、それとは異質な荒々しさが開けている。

鋼鉄色の風が鳴り、岩肌が剥き出しで、地脈の鼓動が地面から掌へ伝わってくる。


竜の里は、山の骨格そのものに穿たれる。

玄武岩の柱が森の木々の代わりに林立し、黒々とした壁は幾世の風蝕に刻まれ、無数の爪痕と角の擦過で磨かれる。

断崖の層理に沿って棚田ばかりにせり上がる棚岩に、巣がある。

卵殻のように白い石灰岩で縁取られ、赤鉄鉱が血潮のような条を走り、風よけの巨石が環の形で組まれ、古い角や折れた翼骨が護符として吊るされる。

谷底では熱い蒸気が散り、硫黄の匂いが喉の奥を焼く。

遠目には青灰の苔が斑に這い、湧水が鏡のように空を映すが、その鏡面には常に影が走る。

頭上を横切る大翼の影だ。

空は研ぎ澄まされた刃のように硬く、雲はちぎれ、日差しは鱗の表面で粒子になって砕け散る。


古代竜たちは、山の静脈に寄り添うように身を横たえ、または峻嶮のへりに片脚で立ち、風を測る。

彼らの鱗は時代を一枚ずつ重ねたように鈍く光り、刻まれた傷が銀の川となって走る。

角は石灰化した樹木のように節を持ち、苔と雫を宿す。

目は炉の奥で赤く息づき、ときおり瞬きとともに、砂漠の嵐のような息が漏れる。

吐息は空気の密度を変え、視界の端に揺らぎを生む。

尾が一度だけゆっくり動けば、足元の小石がころりと鳴って転がる。

音は大きくないが、世界の根が短く震える。


エララの喉は乾く。

その乾きは恐怖ではなく、里の空気が肌に刻み付ける記憶の乾きだ。

背中の竜紋が微かに熱を帯び、皮膚の下で細い針が目を覚ます。

羽根を畳んだ肩が知らず硬くなり、爪先が土に触れるたびに砂鉄の冷たさが神経の先端を刺す。

眼は無意識に高所、崖のうえの影の揺れを追い、耳は遠い、何十拍かに一度だけ鳴る低い合図――長老たちの呼吸の拍に自分の鼓動を合わせようとする。


「……ここが、私の里。あなたを、連れてきた」


エララの声音は、風の硬さをやわらげるために低く、しかし震えを隠すために芯を立てる。


「圧は見事だ。美の名のもとに圧もまた構成要素だと、今日改めて理解する」


アレスは薄く笑む。

その笑みは彼の結界の内側でよく見せる硝子のような寸分の狂いもない状態から少しだけ逸れて、ひびの一本を受け入れる柔らかさを帯びる。

彼の視線は斜面の線、岩陰に保存される影の濃淡、巣の配置のリズムを測り、風の流路を数え上げるように動く。


「違う。ここは……あなたの庭ではないわ」


「わかっている。ここは生のままの構図だ。無作為に見えて、しかし意志の堆積だ」


「長は、見ている。みなも。あなたの一挙手一投足を」


「見られることは嫌いではない。評価は試金石だ。ただ」


「ただ?」


「この粗さに魅了される自分を、君は嫌うか」


エララは短く息を呑み、視線を崖上の巨大な影からアレスの横顔へと降ろす。

彼の横顔は傷一つなく、風に揺れる髪の曲線まで計算し尽くされた住人だ。

彼を曇らせるものは、一本の灰も、耳元の砂の付着すら許されない、と彼女の胸の深い場所は叫ぶ。

目に見えぬ敵意が谷を満たし、彼女の中の竜が牙を鳴らす。

彼に触れるものを砕き、焼き、喉笛を噛み切るべきだ、と。

しかし、その衝動の上に、別の重みが置かれる。

故郷。長。過去の声。

試されるのは自分だと知っている重み。


「……嫌いじゃない。ただ、油断しないで。ここでの『魅了』は、しばしば喉元に牙を置くわ」


「心得た。膝を折るのは、私にとって祈りだが、隙ではない」


「祈りに、見えるかしら」


「見える。暴風の聖堂だ。柱は岩、聖歌は風、祭具は爪と骨。無骨なまま、比例と反復がある。巣の間隔は風向と温度差の数列だ。誰かが計った」


「計ったのは、季節と飢えと、生き延びた記憶よ。私たちは、そうして生きてきた」


風が、ふっと方向を変える。

谷は呼吸する生き物のように、見えない肺をふくらませ、しぼませる。

温度が一瞬下がり、次に上昇する。アレスの頬に当たる。

その瞬間、彼の結界の残響がうっすらと膚の上に浮かび、消える。

後方に置いてきた一分の隙もない膜が、ここでは無力であることを思い知らされる。

彼は内側で、己の手癖――乱れを正し、線を整え、余白を消し去る衝動――が指先を疼かせるのを感じ、掌を握るのだ。

掌の中で、何も起きない。ここは彼の作品ではないのだ。


「アレス。ここで、あなたが精緻を語ると、それは挑発になる」


「語らないさ。語らず、見届ける。所有するものではなく、到来するものだ」


「ふふ……あなたらしい。けれど、あなたは目を惹くから、妬まれる。それが現実」


「妬みは影だ。影ごと受ける」


頭上で、影がゆっくり大きくなる。

振り仰げば、古代竜の一頭が翼を半ば開き、爪先を岩縁から外して滑空を始めるところだ。

翼膜は老樹の葉脈ごとく厚く、陽に透けて赤茶の網目が浮かぶ。

ひと掻きのたびに、空気が壁になって押し寄せ、鼓膜を潰し、足下の砂が螺旋に舞い上がる。

地表はその影を受けて色を変え、巣の中の幼竜が小さく鳴き、それに応じるように遠くの断崖が低く応える。

交信は言葉ではなく、重さの交換だ。

音は腹に落ち、胸骨の裏を震わせ、背骨の節を一本一本ゆるめる。


里の重圧感は、単に恐れから来るものではない。

ここに在る全てが巨大な単位で動くこと、時間が人の指で折り畳めない長さを保つこと、その自明さが人間の尺度を無力化してしまうからだ。

エララは、脈打つ力の波に己の呼吸を合わせようとしながら、唇の内側を噛む。

血の鉄臭さが舌に広がる。喉が熱い。

自らの中に猛る牙を、今は鞘にしまっておくための小さな痛み。

それが彼女の選んだ方法だ。


「行こう。長が待つのなら、迂回も余白もない」


「……ええ。私が先に立つ。あなたは、私の影にいて」


「影は線を際立たせる。君の輪郭を一層際立たせるだろう」


「あなたは、こんな時でもそれを言うのね」


「それを言うために生きている」


エララはわずかに笑う。

その笑いは自嘲でも挑発でもなく、緊張の亀裂から漏れた温度だ。

彼女は歩を進める。

足裏に伝わる岩の固さ、砂のざらつき、熱の層が不規則に配置された谷の床を読み、幼い頃に覚えた踏みしめ方を思い出す。

アレスは半歩遅れて続く。

背後の空間は遠のき、透明な鐘の音は聞こえなくなる。

代わりに、岩と風と竜の息が作る重厚な音楽が彼らを包む。

里の威容は遠目に眺めているだけでは掴めない種類のものだ。

足を運ぶたびに、重みは増し、しかし輪郭は鮮明になる。

彼らは、その中心へと向かっていく。

ここは、エララが生まれ、背を向け、そして戻ってきた場所。

彼女の試練が、景色そのものの重さとして、既に始まっていることを二人は知る。


谷の奥へと歩を進めるほど、空気の層が厚みを増す。

風は吹くが、流れない。

層状に重なった見えない膜が幾重にも波打ち、ひと息ごとに薄く震えては、微妙な位相差を残す。

その源は巣ごとに横たわる巨躯――古代竜たちの呼吸だ。

彼らは山の起伏と同義であり、地形の一部でありながら意志を持つ。

視線を上げるだけで、輪郭が遠近法を拒み、距離感が狂う。

近いのか、途方もなく遠いのか、判断が追いつかないまま胸郭だけが重力を増したかかのように軋む。


最初の一頭は、焼けた陶器のような深紅の鱗をまとって、崖の庇の下に身を半ば埋める。

鱗の一片一片には網かのように白い細かなひびが走り、縁にだけ薄く金が沈む。

陽が当たるたび、その金が焦げた果実の蜜ばかりに滲む。

腹部は炭化した薪のように黒く、しかし呼吸のたびに内部から赤い光が透け、煤の中で焰が脈打つのが見える。

吐息は音を伴わずに熱だけを運び、地面に置かれた小石が干し柿の粉かのように白くなっていく。

熱が波の形で押し寄せるたび、アレスの頬に薄膜かのように残っている結界の記憶が微かに共鳴して、すぐに散る。


「見上げるより、見下ろされている感覚が正しいわ。この里では、上も下も、彼らの意志で決まる」


「承知している。遠近は枠組だが、ここでは枠が先に呼吸する」


エララは返事を短く切り、歩幅を微妙に広げる。

その肩の羽先がわずかに外側へと張り、アレスの横顔から視線を遮る角度になる。

彼女の爪は土中の砂鉄を強く捉え、そこに帯磁した粒子が並び変わるのが目に見えるほど整列していく。

魔力の圧は、細砂にすら秩序を強いる。


次の一頭は蒼。

鱗に水の筋が固まったような紋が走り、背びれに相当する稜線は霜柱さながら透明だ。

体側から発される冷気は目に見えるほど密度があり、吐息が接触した岩肌には瞬時に白い蕾のような霜華が咲く。

その霜はただの寒さではなく、時間を少し遅くする。

指先を通る風の音が半拍遅れて返ってくる。

エララの耳が小さく震え、彼女は顎を引く。

幼い頃、この冷たい息に近づきすぎた者の尾先が一晩でひび割れ、朝に折れたことがある――記憶の痛覚が皮膚の下でうずく。


「冷気の輪郭が視える。線が立っている」


「見すぎないで。痕跡を追う視線は、狩りの視線と同じに見える」


「眼もまた作法か。気をつけよう」


さらに奥、山腹を半周するほどの巨大な半円形の洞窟の縁に、白骨の冠を戴く灰色の古代竜がいる。

角は石灰質と琥珀質が層をなして複合し、地層の露頭のような年輪を見せる。

背骨に沿う棘が鈍く光り、棘と棘の間を電が走る。

音はほとんどないが、青白い火花が一瞬だけ空気の密度を切り替える。

髪が逆立つ。舌の先に鉄と雨の匂いが乗り、喉奥が痺れ、唾液がわずかに増える。

体の内側の水分にまで指示が飛ぶような、律儀な圧。

アレスは肺の底で息を丸め、それを崩さずに背中から吐き出す。


「導線……背鰭の列は避雷針の配置だ。自然の設計は、思考に先立つ比例を持つ」


「設計と呼ぶのは、彼らには侮辱に聞こえる。生き延びて、身体が覚えた配置よ」


「言葉の選び方もまた配置だな」


崖のくぼみごとに、複数の世代が同居している場所もある。

黒曜の光沢を持つ背に、微かな緑青が浮く老竜。

その腹側の影に、まだ殻の粉を落とし切れていない若い竜が丸まり、小さな胸が速い律動で上下する。

老竜の吐息は潮の満ち引きのような膨大な周期で、若い竜の呼吸は波打ち際の泡さながら細かい。

二つのリズムが重なった瞬間、谷全体に薄い拍が広がる。

空気がひとつ瞬き、遠い岩陰の砂が、見えない合図で一斉に小さく跳ねる。


鱗の質感は一様ではない。

砂漠を渡った者は風紋のような微細な磨耗の線を無数に持ち、海風を浴びた者は塩の結晶が辺縁に焦げた雪ごとく残る。

火山の口で長く眠った者の鱗は真珠層のような光沢を帯び、表層のひびに黒い鉱が沈着する。

戦いの痕は刻地図かのように交差し、古い傷の縁には柔らかな苔が縁どりを成す。

そこに小さな白い鳥が止まり、嘴で角質をついばみ、竜の睫毛が半分眠ったように降りる。

許された共生。鳥が飛び立つとき、竜の眼に映る空の色がわずかに明るむ。


目を凝らせば、魔力は可視光よりも密度のある川となって、各々の体表から流れ出し、里全体の地形と絡み合うのがわかる。

尾の先からは細い糸のような波動が岩の裂け目へと下り、翼の基部からは風の層へと厚い布が広がる。

頭頂と角の間には蓄えられた電荷が脈打ち、喉の奥では火が育つ音がする。

その全部が、音にもし、匂いにもし、温度にもし変換されていく。

いちばん強い圧の近くでは、視界の端が水面のように歪み、遠くの岩の輪郭がぼやけては戻る。

空間が一瞬だけ撓んで、また元に戻る。

その撓みが歩みのリズムを奪い、膝の裏の腱を曖昧にする。


「息が重い……わかる? この重さに、身体で合わせて」


「わかる。肺を広げる幅を半寸、心拍を二拍ずらす」


「そのまま。合わせられるなら、咬まれない」


エララの声は低いが、そこに含まれる緊張は刃の薄さをしていた。

彼女は右の翼を少し開き、アレスの背に影を落とす。

その影に触れた瞬間、彼の皮膚に走っていた微細な電のささくれが収まり、呼吸が体内の重石と軋みなく噛み合う。

彼女の魔力は、彼らの海の中でひとつの小舟を形づくる。

波に飲まれないための形。


別の崖高く、黄褐色の巨体がこちらの動きを眺める。

琥珀色の瞳は深い蜂蜜のようで、光を閉じ込めて粘る。

瞼の内側から時折、薄膜の瞬膜が横に滑り、視線の意味を消す。

読ませない目だ。

胸の辺りの鱗は擦れて白っぽく、そこに生えた硬い毛が風に逆立つ。

喉が鳴る。低い、長い、背景音にしかならないはずの音が、骨盤の内側に丸く巣を作る。

エララが一歩、アレスの前に出る。

その尾先が地面を軽く打つ。合図。視線を返すな、という意味。


「名前は?」


「名は、契り。呼べば、縛る。今はやめて」


「了解した」


彼らの周囲の空気に、しばしば見えない漣が走る。

古代竜同士が互いの圧をぶつけ合うのではなく、重ね合わせ、譲り合い、間を測るからだ。

その譲り合いの波に、余所者の存在は波形の乱れとして混入する。

アレスは自分の存在が起こす揺らぎを最小限にするよう、足の置き方ひとつにも計算を入れる。

踵を先に落とさない。土の生え際を踏まない。

音を殺すのではなく、里の鳴りに混ぜる。


遠く、母竜たちの巣域から柔らかな圧が流れてくる。

丸く、包む力だが、刃物ごとく鋭い意志の縁を持つ。

卵を包む魔力は布ではなく甲冑だ。

見えない穹窿が巣を覆い、風の塵がその表面でしっとりと偏光しながら滑る。

アレスは小さく息を吸い、その構造の曲率と強度、反射の角度を頭の中で数える。

見事だ。完全な用の極致。

その前に彼の手は空を掴むだけで、ここに到っては一筆も加えられぬことを知る。


「あなた、好きでしょう。あの形」


「好きだ。役割が極まるとき、形は無理のない完全を得る」


「でも、近づいたら、指は飛ぶ」


「近づかない。目だけで礼を言う」


世界は音を増しながら、しかし静かだ。

鼓膜が拾う音よりも、骨が拾う音のほうが多い。

足下では砂が小さく鳴り、受け身の石が奥歯の形をして重なり合う。

頭上では翼膜が風を刻み、揚力の数式が現れては消え、また現れる。

あらゆるものが意味を持ち、同時に沈黙する。

圧は単なる恐怖ではなく、秩序そのものの体積だ。

この秩序に抗わず、混ざり、しかし呑み込まれずに歩くこと。

その細い道筋を、エララは体で知る。

彼女の背の緊張は、愛する者を隠し、連れていくための緊張だ。

牙を鳴らす代わりに、翼で影を作る。

喉の奥で炎を持ち上げる代わりに、息の深さを調える。


やや低い段に、苔むした石輪のなかでひときわ古い竜が丸くなる。

鱗はもはや石とも皮ともつかない質感で、触れれば崩れそうに脆く見えるのに、そこに宿る魔力は海底の水圧のように重い。

そこから放たれる圧は、直接の威圧ではなく、存在の前提条件の提示だ。

ここでは、呼吸するという行為が許しによって成立する――そんな錯覚。

アレスは知らず、右手を胸の前に持ち上げ、小さく礼をする。

彼の礼に対して、古竜の瞼が一枚だけ上がり、琥珀の奥で古い火がひとつ瞬く。


「行こう」


「うん。ここを抜けた先に、長の息がある」


彼らはなおも圧の層を抜ける。

重さは増すが、恐怖は減る。不思議な逆転。

重さの中に、歩むべき道が太くなっていく。

竜たちの威容は威圧でありながら、正しさの規模でもある。

世界が自分の大きさを取り戻す場所。

そのただ中で、エララは自分の大きさを確かめ、アレスは自分の小ささを楽しむ。

どちらの感覚も、歩を進める力となる。

谷の音楽は低く、濃く、彼らの背骨を一本ずつ撫でながら、次の段へと誘う。


空気が皮膚の裏側にまで生えて、筋肉の繊維に一枚ずつ貼り付く。

故郷の匂いは、舌の根に宿っている塩と硫黄と、焼けた骨の甘さ。

喉の奥で薄い膜が音もなく揺れ、背の竜紋が脈を打つたび、微かな熱が皮膚の上に出て、すぐに冷める。

戻ってきた、と身体がまず先に認め、同時に拒む。

翼の付け根が糸ばかりに軋み、爪先の感覚が過敏になって、砂鉄の一粒一粒が神経の芽を踏む。


――見られている。


崖の縁の影、巣の静けさの底、呼吸の間に挟まれた時間。

あらゆる場から同じ縄のような視線が垂れる。

幼い頃、その視線のひとつひとつに名前があった。

祖の目。長の目。群れの目。

名を得るために、名を奪われるかどうかを測るための眼差し。

石輪の中央で尾を握りしめられ、血のにおいと熱い吐息に包まれながら、何度も「おまえは里の骨になるか」と問われた日の熱が、今も足首の内側に留まる。


「エララ」


背後から呼ばれた名に、肩甲骨の間が跳ねる。

彼の声は、彼の世界の鐘の音を思わせる。

磨かれて、均されて、空間の形を映し取って響く音。

死の森の上に彼が張った一分の隙もない膜の中で、私は眠る。

眠り方を教えられもする。

呼吸の間隔、目の閉じ方、手の置き場所。

彼の結界は、私の荒れた心をそれごと包むガラス器だ。


「大丈夫だ。君の背に合わせている」


「……見ないで。今は、私の背だけを」


「見ている。君の背を」


矛盾した言葉を自分で吐いているとわかっていても、止められない。

見ないでほしい。見ていてほしい。

私が崩れる瞬間を彼に見せたくない。彼だけには全てを見せたい。

幼い体の柔らかい鱗を、長の尾が軽く打った日――痛みはたいしたことがないのに、全身の空気が抜ける。

泣けば水分を奪われると教え込まれ、涙の仕方を忘れる。

そんな過去の笛が、今、里の空気の中で勝手に鳴る。


私はこの場所に、彼を連れて来る。彼のために。私のために。

ここで清算したいから。

だが、崖上の影が彼の輪郭に焦点を合わせた瞬間、喉の奥で鱗が内側から逆立つ。

見るな。私の彼を。

目玉を鉤で引き抜き、翼膜を裂いて、喉笛に牙を――想像の内側で血と音が弾ける。

しかし、その刃のような衝動の上から、別の重しが私を押しつける。

里の正しさ。呼吸の秩序。長の裁き。

生まれて、教え込まれた「待て」の合図。

私は尾を打たない。今は。


「震えているように見えるが」


「震えていない。……震えている。でも、歩ける」


「歩幅を合わせよう」


「あなたは、私の影にいて」


「影は君を立体にする」


私の影に入る彼の体温が、背中越しに伝わると、内側で食いしばっていた獣が一つあくびをする。

アレスは危うい。目を惹くから。

ここにいる全ての目は、惹かれるものに向く。

鑑賞も、狩りも、見分けがつかないほどに老いた眼差しが、同じ光を吸う。

だから、私は彼を隠したい。布で、岩で、翼で。

彼の白い指が砂で汚れるのも許せない。

鱗の上を滑る視線の一本でさえ、他者に渡したくない。

喉の裏の、獣の腹に近いところで、そんな独占欲が溶岩ばかりにゆっくり蠢く。


長の息が、遠くで上下するのがわかる。

低く、深く、谷全体を何度でも満たす。

私はその波を知る。あの呼吸が、私の名を呼ばなかった夜を知る。

石輪の中央、身を丸めた私に、長は言う。

「おまえは、群れの線から外れている」。

外れることが罪だと、その時の私は疑いもしない。

外れる線の先に、価値があると教えてくれたのは、彼だ。


「ここは、君の場所だ。だが、君が選んだ線もまた、君の場所を広げる」


「……言い方が、ずるい」


「本心だ」


彼の言葉は甘い。砂糖ではなく、硬質な琥珀の甘さを持つ。

舌に載せると痛い。痛いのが、心に良い。

その甘さに浸すように、私は過去をいくつか取り出して、輪郭をなぞる。

初めて炎を吐いた日の誇り。

母の背に顔を押し付けたときの匂い。

群れの子らと牙を打ち合って遊び、血の味に笑った日。

長に呼ばれ、静かな場所で、名を一つ削られた日。

人の里の噂に耳を澄ますうち、私の中に育った渇き。

死の森の縁で、彼の結界に触れた瞬間、世界が音を立てて整列した感覚。

そこから始まった狂い――いい意味での狂い、と私は今では思う。


「君はここで、何が怖い」


「……私が、変わらなかったと知ること。私が、変わってしまったと知ること。どっちも怖い」


「変わることは、すでに起きている。変わらないものは、選び直せる」


「あなたは、そうやって言葉で整える」


「整えることが、私の呼吸だから」


私は彼の呼吸を憎んだことがない。

むしろ、彼の整える手つきに救われる。

彼の指が空気の皺を延ばし、乱れた線を揃える様を見るのが好きだ。

その指を、里の誰にも触れさせない。

そう決めるだけで、胸の中の波が少し穏やかになる。

けれど、里の圧は待ってくれない。

重さは増え、呼吸は太くなる。

古竜たちは、私たちの存在を一つの揺らぎと見なす。

その揺らぎの破綻を許さない程度に、私は自分の羽で影の輪郭を広げ、尾で地面の小石を少し動かして、足場の秩序に彼の歩みを混ぜる。


嫉妬も、燃える。

彼が「見事だ」と呟いた岩の曲線、巣の配置、卵を覆う見えない穹窿。

彼の目が、私以外のものを愛でる。

正しい。当然。彼の目は世界のためにある。

それでも、私はその目を独占したい。

私の鱗の一枚、呼吸の一拍、心臓の一打。

全部あなたの基準で見て、選んで、愛して。

私はあなたの庭でありたい。

あなたの結界の内側に、ただ一つ置かれる石になりたい。

その自己中心の願いが、里の重圧と擦れて火花を散らす。


「もし、長があなたを敵と呼んだら、私は」


「君は?」


「……燃やしたくなる。全部。里も、呼吸も、過去も。あなたを連れて、遠くへ逃げる」


「君は燃やさない」


「どうして言い切れるの」


「君は今、燃えたい衝動を羽で隠し、呼吸で抑えた。君は選べる」


選べる。私は本当に、選べるのか。

幼い私は選べない。長の尾は、選択肢としてしか世界に存在しない。

彼と出会ってから、私は選ぶ練習をする。

食べるもの、眠る時間、見る方向。

殺す代わりに見送ること。焼く代わりに温めること。

排除の代わりに、境界を置くこと。

私は彼を囲うのが得意だ。

世界の中で彼だけを守る結界を、翼と牙と意志で張るのが得意だ。

その技を、今、里に使う。排除ではなく、交渉のために。


「私、進む。私の足で。あなたは、ついて来て」


「いつでも」


長の息に、私の呼吸を重ねる。

過去の合図で飼い慣らされた身体は、すぐに拍を合わせようとする。

それを半拍ずらす。彼から教わったやり方。

従うでも、抗うでもない合わせ方。

谷の音は、内臓の裏側で合唱になって響く。

恐怖は消えない。むしろ、鮮明になる。

恐怖に輪郭が生まれると、それは掴めるのだ。

掴んで、脇に置ける。置いて、前に出られる。


私の愛は、狂う。自覚があるのだ。

彼が他者に見られるだけで、指の間に火が生まれる。

しかし、ここは私の里。私の過去。私の試練。

燃やしてはならない場所がある。

燃やすべきとき、その炎を正しく熾すために、今は息を合わせ、歩幅を整え、牙を鞘にしまう。

鞘の内側で、牙は温かい。彼の手の温度に似る。

私はそれに安心し、同時に怯え、そして――前へ進む。

長のいる場所へ。私の名が削がれ、また付け直される場所へ。


「エララ」


「なに」


「君は目を惹く」


「ここで、それを言う?」


「言うために来たのかもしれない」


笑いそうになる。笑えない。

喉の奥に堆積した塩が、笑いを重くする。

けれど、私の足は軽くなる。

彼の言葉は、私の狂いを肯定しない。

ただ、私の筋肉に血と命を戻す。

私は私のまま、変わっていく。狂いを抱えたまま、まっすぐに。

谷の重さは、もはや敵ではない。私を量る秤だ。

私は秤の皿に自分を置き、両目を開けて、針の動きを見届ける。

その視界の端に、彼の影。それだけで、私は歩ける。


段をひとつ上がるたび、音の数が減っていくのに、重さは増す。

風がやむのではない。風はいる。

ただ、風の居場所が明確になり、居場所の外では動かない。

空気は筋肉を持ち、谷はその筋肉で私たちの進行を囲い込み、呼吸の幅を指定してくる。

岩肌には尾で刻まれた古い線が重なり、白い粉を噛むように指先の皮が乾く。

骨を柱にした標が道の左右に並び、角の影が長く伸びて、光の帯は細い刃に変わる。

里全体の圧がここで収束し、方向性を持つ。――この先が、里の喉だ。


アレスは立ち止まり、石輪の外周を斜めに横切る影の硬さを見る。

彼の目が、いつものように比例と反復を拾う。

巣の間隔、蒸気孔の位置、骨標の高さの揃い、崖の刻みの周期。

価値がある。あるに違いない。

彼の耳の後ろに細く残った光幕の気配が、ここでわずかに震えて、すぐに沈む。


「……見事だ。だが、ここは署名を拒む。完成は、この場が決める」


「あなたの署名は、匂いで読まれるわ。障壁の匂い。膜の滑らかさ。長はそれを嫌う」


「嫌うか、測るか。どちらにせよ、私は沈黙を持っていく」


「沈黙も、言葉と同じよ。ここでは重さがある」


アレスの唇がわずかに歪む。

彼の沈黙は、彼の世界では最も価値ある装飾だ。

ただ、ここでは沈黙は儀礼の一部であり、欠礼にもなる。

私の耳は、石輪の内側に散らされた灰の軌跡を拾う。

渦を巻いて中心に収束し、そこに爪痕が深く刺さる。

召しの紋。踏めば、対話が始まる。

まだ、踏むな。体がそう言う。


「里の空気が、私の枠を調律する。枠が動く感覚は珍しい」


「動く枠に合わせて。あなたが固定しようとすれば、軋みになる」


「固定はしない。私は測る。測るが、触れない」


「測る目も、牙に見える」


「目を細めよう」


彼はほんの少し視線の焦点をぼかす。

細部を見ようとする芯の強さを穏やかにして、全体の澱みを受ける顔になる。

彼のそういう柔らかさが、私は好きだ。

好きだと思う瞬間、私の中の獣がまた尾を打ちたいと願う。

やめる。ここでは、尾の一打で空気が違う意味を持つ。


圧は嗅覚にも姿を持って現れる。

石の乾いた匂い、苔の湿り、硫黄の刺す香り、焦げた骨の甘い脂。

そこに異物の香が混じりすぐ消える。樹脂と乾いた草の清澄な匂い。

アレスの光幕に漂う秩序の香りだ。


「呼ばれている。舌の根が名を発音する前に震える」


「長の呼気が名前を形にする。ここでは名は共用される」


「共用の名……様式か」


「様式に従うか破るか」


「従いながら破るのが僕の癖だ」


「その癖が刺になる」


呼吸の間隔が狭まり、遠くで翼膜が鳴る。幼竜の短い呼吸、母竜の深い息、老竜の潮のような循環。

それらが重なり谷は一つの器楽曲を奏でる。

強拍の位置が移動し、足音が合わなければ場違いな音になる。

アレスは踵を使わず、前足で着地するように歩く。

その歩が器に混ざり、整い始める。

エララは右側、風上に回り影の形を調整する。

彼の輪郭が里に馴染むほど、内側の独占欲が軋む。


「見せたくない。見せなければ対話は成立しない」


選ぶ。


やがて狭い石橋に変わる。下では蒸気が呼吸し、白い息が周期的に吹き上がる。

虹が一瞬生まれては消え、罠のように輝いた。

橋の両側に骨標が立つ。高さは同じで、先端の削れ方が微妙に違う。

右は尾の軌跡、左は爪の軌跡。

尾は忍耐、爪は裁き。

その間を通る者は内なる二つの衝動を揃えねばならない。

エララの背が固くなり、彼の影がその固さを撫でる。


「向こうが喉」


「喉の奥に声がある」


「声は言葉じゃない」


「重さだ」


アレスは石橋の中央、小さな丸石に刻まれた三本の線を視線で追う。


「三は特別な数。呼吸の段、名の数、輪の大小」


彼はしゃがまず、目だけで比例を測り、首肯した。


「数が音になるのがわかる。彼は目で聴き、耳で視る」


「竜の価値は生き延びる形と記憶の痕に宿る。彼の価値は形の間を流れる関係と気配の調和に宿る」


「揺らぎを恐れず、手段は異なる。その差が対立の予兆だ」


「長は私たちを試す」


「何を?」


「私の変化。あなたの変化。二つの変化が里の秩序を壊すか広げるか」


「壊さない。広げる」


「言い切るのね」


「言い切らなければ橋は渡れない」


橋の終わりで石の温度が変わる。冷たく湿りを含んだ冷気。


「喉の先、声の部屋」


そこに踏み入ると耳の中の空気が他人の息に溶け込むようだった。

壁は滑らかで角は削られ、古い鱗粉が薄い雪ごとき積もる。

壁の高い穴から巨大な目が覗き、瞬膜が横に滑り光を遮り、また戻る。


「立ち止まるな」


「わかっている」


奥から低い音が落ちる。圧力の波だ。

膝関節が内側から叩かれ、折れそうになる。

これは挨拶。

里の深い場で交わされる重さの挨拶。

エララは胸郭を少し開き、喉を鳴らし背筋で音を支える。

アレスは目を閉じ、掌を重ねて空気の縫い目を撫でた。

彼なりの礼。結界師の礼。

場の圧が観察し、受け入れるか弾くかの境目で静寂が震える。


「ここで何を差し出すべきか」


「背中だ。誰かに守られるという事実」


「所有の宣言か」


「契約の提示」


「契約に弱いのは竜も同じ」


言葉が続かぬほど空気の密度が上がる。

声は儀礼でなければ許されない。

喉の薄膜が勝手に震え、幼い頃の「待て」が蘇る。

舌の位置を変え、今の「待て」に合わせる。

違う。あの頃は服従。今は判断。

選び、待つ。

アレスの影が背に重なる。

影が合わさり温度が一つに。

見えない輪郭が太くなる。

天井近くで砂が一粒、音を立てて落ちた。

合図のように喉の空気が裏返り、谷の圧と同期。

部屋の中心に気配が立ち上がる。

姿ではない。声でもない。

大きさを持った沈黙。

古い火の匂い。

石に刻まれた足音の記憶。

長の気配が闇をまとい立ち上がる。


「来い」


言葉にならぬ言葉が骨に触れて鳴る。

アレスが目を開けた。

闇の中に比例が映る。

恐れず、整えず、ただ見届ける。

彼の顔を見て、喉の奥に眠っていた牙が一瞬輝き、すぐ鞘に戻る。

重さは最高潮。崩壊はしない。

張り詰めた弦が音を待つ。


「行こう」


「行く」


二人は渦巻く灰の中心へ。

喉の奥へ。

長の重さの真正面へ。

谷の音は消え、心臓の音が大きくなる。

里全体の価値、彼の意識、私の狂いが一つの場所で交差する。

次の瞬間、何かが決まる。

どちらの秩序も、後戻りできない場所へ。

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