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異世界賢者の平穏な復讐  作者: かぶんす


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最終話 追憶の足跡――凍てつく街の片隅に眠る面影

 穂積一族の破滅を見届けた翌週。

 蓮は、日本の北部に位置する、しんしんと雪が降り積もる寂れた地方都市の駅に降り立っていた。


 彼が纏うのは、カシミアの黒いロングコート。くすんだ金髪をフードに隠し、ヘーゼルの瞳だけを外に覗かせている。その足取りは、積もる雪を踏みしめながらも、驚くほど軽やかで、一歩一歩が静謐なリズムを刻んでいた。


 使い魔である影の烏たちが、数ヶ月にわたる懸命な捜索の末、ついに「穂積雫」の現在の正確な居場所を特定したのだ。

 洋館を追われ、親族の執拗な追跡から逃れるために、彼女はこの北国の寂れたアパートで、名前を変え、気配を消してひっそりと暮らしていた。


「……ここですね」


 蓮が立ち止まったのは、築四十数年を越える、外壁が雪の重みで剥がれ落ちかけた、今にも崩れそうな二階建てのアパートの前だった。

 郵便ポストには、手書きで「穂積」ではなく、偽名と思われる別の苗字が薄く書かれている。


 蓮は静かに階段を上り、202号室の前に立った。

 彼の中に宿る「レン・ヴァルハイト」の魂が、扉の向こうから漂う、懐かしく、そしてひどく微弱な「魔力の波長」を捉えた。

 前世、最愛の妻として共に暮らした雫の、あの優しく温かな魂の波長。しかしそれは、長年の心労と貧困によって、今にも消え入りそうなほどに細くなっていた。


 蓮の胸が、激しく締め付けられる。

 彼は、これまでのどんな試練やイジメにも動じなかった大賢者の心を、初めて激しい「恐怖」と「切なさ」で揺らした。


(雫……。どれほど辛い思いをして、ここまで逃げてきたのですか。

 生まれたばかりの私を、私を守るために手放したその瞬間から、あなたはどれほどの地獄を這ってきたというのですか)


 蓮は、小さく震える手を伸ばし、インターホンを押した。

 チーン、という気の抜けた音が、雪の降る静寂に響く。


 しばらくの沈黙の後、扉の向こうで、細い、しかし聞き覚えのある足音が聞こえた。

 ガチャリ、と古い金属の鍵が回り、ゆっくりと扉が開く。


「……はい、どちら様でしょうか」


 そこに立っていたのは、一人の女性だった。

 かつてレンが愛した、あの漆黒の美しい髪には、ところどころに白いものが混じっている。

 その顔立ちは、かつての面影を残しながらも、頬は痩せこけ、肌は青白く、目元には深い疲労と悲しみの陰が刻まれていた。

 着古した薄いカーディガンを羽織り、寒さに震える彼女の姿は、あまりにも小さく、壊れそうな硝子細工のようだった。


 だが、その茶色がかった黒い瞳だけは、かつてレンを見つめた、あの優しい光を失っていなかった。


「あ……」

 雫は、目の前に立つ少年の姿を見て、息を呑んだ。

 少年の、フードの間から覗く「ヘーゼルの瞳」。

 そして、その日本人離れした、あまりにも整った美しい顔立ち。


「あなた……は……」

 雫の身体が、かすかに震え始める。

 母としての本能が、そしてかつて最愛の夫を看取った魂の記憶が、目の前の少年の正体を、瞬時に叫んでいた。


「お久しぶりです、雫」

 蓮は、静かにフードを取り払った。

 彼の髪は、認識阻害の結界を解くことで、本来の、神聖な月光を吸い込んだかのような純白のプラチナゴールド――白金色へと染まり変わり、雪の光を反射して眩しく輝いた。


「レン……? いいえ、まさか……蓮……? 私の、あの子なの……?」

 雫の瞳から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「蓮……! 本当に、蓮なのね……っ!」


 雫は、冷たい床に崩れ落ちるようにして、蓮の身体を強く抱きしめた。

 着古したカーディガン越しに、彼女の細く、冷え切った身体の温もりが、蓮の胸に伝わってくる。

 その身体は、蓮が記憶しているよりも、ずっと小さく、華奢だった。


「はい、母さん。……そして、私の最愛の雫」

 蓮は、彼女の背中に両手を回し、優しく、しかし二度と離さないという強い意志を込めて抱きしめ返した。


 蓮の身体から、温かで極めて上質な「癒しの魔力(ヒール・マ術)」が、雫の体内へとじわりと流れ込んでいく。

 長年の過酷な労働と心労によって蝕まれていた雫の肉体細胞が、賢者の魔力によって瞬時に活性化され、彼女の頬に、みるみるうちに健康的な桜色の赤みが戻っていった。呼吸は深く、楽になり、全身を包んでいた凍えるような冷えが、春の陽だまりのような温かさへと変わっていく。


「温かい……。ああ、この温もり、知っている……。私がお腹に宿していた、あの子の……そして、私の夫だったレンの……」

 雫は蓮の胸に顔を埋め、子供のように声を上げて泣きじゃくった。


「すまなかった……蓮。あなたを、生まれてすぐに手放してしまった。私に力がなくて、あの強欲な親族たちから、あなたを守るためには、そうするしかなくて……。毎日、毎日、あなたのことを思わない日はなかった……!」


「わかっています、母さん。すべて、わかっています」

 蓮は、彼女の涙をそっと親指で拭った。

 彼のヘーゼルの瞳は、どこまでも優しく、そして底知れぬ慈愛に満ちていた。


「あなたが私を手放したのは、私への深い愛ゆえのこと。養父母である高梨夫妻は、私を本当に大切に育ててくれました。私は何の不自由もなく、あなたを救い出すための牙を研ぐことができたのです」


 蓮は雫の手を引き、アパートの薄暗い室内へと入った。

 そして、古いこたつの上に、一枚の書類を置いた。

 それは、穂積源三をはじめとする穂積一族が全員逮捕され、彼らの財産が法的に差し押さえられたことを示す、公式な裁判所の通知書だった。


「雫。あなたを騙し、あの美しい洋館と、お父様の遺産を奪った者たちは、本日を以て全員が破滅しました。彼らの財産は国に没収され、一部は民事訴訟を通じて、本来の所有者であるあなたへと返還される手続きが始まっています」


「え……? 源三たちが……?」

 雫は信じられない様子で、書類を見つめた。


「はい。もう、彼らから逃げ回る必要はありません。彼らは二度と、日の当たる場所へは出てこられない。私が、そのように『処理』しましたから」

 蓮は、懃懃無礼とも言えるほど、冷徹な笑みを浮かべた。その圧倒的な強さと知性は、紛れもなく、かつて彼女が愛した「大賢者レン・ヴァルハイト」そのものだった。


「蓮……。あなたは、本当にあの子であり、レンなのね……」

「私の魂は、レン・ヴァルハイト。ですが、今世において私は、あなたの息子、高梨蓮です。前世の愛、そして今世の親子の絆。そのすべてを以て、私はあなたを生涯、守り抜きます」


 蓮は、雫の前に跪き、彼女の手の甲に静かに誓いのキスを捧げた。


「世界は今、『分断』され、古い秩序は崩壊しつつあります。ですが、恐れることはありません。私には、すべてを支配する『賢魂回帰』の力がある。私はこれより、『LIFE』の後ろ盾を得て、新世界における覇権を握ります」


 彼の背後に、白金色の魔術障壁が、まるで天使の羽のように美しく展開し、室内を神聖な光で満たした。


「母さん。私と共に、あの美しかった洋館を再建し、新しい世界で、誰にも脅かされない至高の平穏を築きましょう。私の隣には、私を支えてくれた幼馴染の森本綾もいます。これからは、誰も私たちを傷つけることはできません」


 雫は、涙を拭い、力強く首を振った。

「ええ……。ええ、蓮。私は、あなたを信じます。あなたの歩む道の先へ、どこまでも共に行きます」


 雪深き北国の街で、過去のすべての「因果」は完璧に清算された。

 実の母との奇跡の再会を果たし、復讐を完遂した高梨蓮。

 だが、彼の真なる伝説は、ここから幕を開ける。

 「分断」された混沌の新世界を、伝説の賢者の圧倒的な知略と力で蹂躙し、支配するための新たなる旅路が、今、ここから始まるのだ。


最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!


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