Release0020.負けないで(08)
心臓がばくばくする。口から何かが出てしまいそうなほど脈打つ。
――今日はよろしく。お互い、意義ある戦いが出来るといいね。
彼女は淡々とそう言って、どこまでも洗練されたような真紅の双眸に瞼を下ろした。
片癖あるショートボブ。肩半分を刻んだ黒緩シャツには派手なグラフィティが印刷されており、チェーンなどの白銀アクセサリーが飾られた腰ベルトの下は腰巻と前スカートらしき部分を挟んで左右非対称の独特なパンツを履いている。
それら全容を正しく表現するのは少し難しいが、僕の知る限りの言葉に当てはめるなら恐らくパンク・ファッションというやつだと思われた。
そして聞いていたとおり、その表情から何を考えているのか窺えない。何を思うでもなく、何を笑うでもなく。白皙の肌に際立つ二つの紅玉、左耳に下げられた騎士道精神さながらのピアスは、まだ幼いながら凛冽とした空気をそこに纏わせている。
かといって、トゲトゲしさがあるわけでもない。霧氷と温和を合わせ持つその無感情さは、皆、彼女のことを口揃えて《寡黙のクロ》などと形容していた。同じ学園生なんかはその涼やかさと能力の高さに、ある種の畏れすら覚え高嶺の花として目で追うような存在だ。
そう、彼女は学園生の憧れの的であった。言わずと知れた実技順位二位の座は頭角を現してから一時も揺るがず、そしてそれを、自身を見つめなおすだけの材料とする爽涼な素振りは一方的な親しみと尊敬を集め続けている。
そんな人と話すなんて、機会もないと思っていた。遠い存在でしかないはずだった。
運命の気まぐれか。それとも神のきまぐれか。
これが僕、神童一暉が《黒閃》――黒河愛と真に出会った瞬間である。
少し遡る。
《レ・ミーユ》の一騒動を詫び、先生が同伴するままC区画を去った僕達は、あれからまっすぐ模擬戦が行われる九階層・武道場へと歩みを進めた。
といってもここの移動手段は艦内に配置された重力通路が主流であり、各階層間の移動にも上下に設置された巨大マグネットストーンを使うので微々たる間だ。マグネットストーン自体がアルカディアで出土される鉱石なため、それまでは元々あった高速エレベーターが日々人に反応して緩やかにシェイクしていたものだが、今じゃそれも電力や一度の動員数を気にする必要があるということで撤去・凍結されている。想定外や非常時のためにと階段室は改築されず残ったままだが、これも健康を気にするような物好きな人でない限りは、誰しもが七色の磁場に見えない翼を授けられんとする。
そうして武道場の前まで僕達の前を行っていたオリヴィア先生は、一体どこの地獄の入り口なのだろうと思わんばかりの巨大な隔壁門前で僕達に言った。
『あ、そうだ。ついでだから教えてやろう。那由多、お前は今日特別戦だから。エキシビションってやつな? 相手が誰かはこのあと管理者から通達されるはずだから忘れず確認するように。事前の参加表明も今回はいらん。特別だからな。まあ……逃げ出したければ逃げな』
『誰に向かって言ってんだよ、その原動力引っこ抜くぞ』
『そーゆうとこが可愛くないんだよなぁ……。美月と一暉はいつも通りでいい。ただ一暉、君の相手についてなんだが……』
『僕の相手がどうしたんですか?』
『どうしたっていうか――いやぁ、その、な? ……いやでも、そうだな……敢えて放置すれば、起伏反応後の行動検証にも繋がって――』
『……? オリヴィア先生?』
『あ、いや、やっぱ忘れてくれ。まあアレだ! 誰が相手だろうが日々の成果を見せる努力はしてくれ。君には期待しているよ』
『今日の先生、なんかヘン?』
『それはいつもじゃないか?』
『うっ、唯一ずっと味方だと思ってた美月からもとうとう疑惑の目が! 胸が痛い! Dの胸が!』
『だからヘンなんですよ……』
『なあイツキ、やっぱりお前の得意分野で攻めるのが効果的だと思うぞ。ナナフシいわく、読みすぎた日の夜は枯れたモヤシよりもゲッソリしてるらしいからな。ここだけの話、飴もいつの間にかスルメになってるらしい』
『す、スルメって中々手に入らない高級食品じゃないか!』
『おーい、先生はスルーされて本当に傷ついたぞ~。いつもいつも、一体どこにそんな情報網を隠してるんだ。てかナナもまたどうでもいいとこを見てるというか……そのリソース使って道をちゃんと歩けるようにして欲しい。いやホント。後生』
『ナナ先生はいつも食べることに夢中ですから……最近のブームはイカ墨だそうです』
『あ? イカってまだ開発段階じゃなかったか?』
『何言ってるんだよ、それが出来たから先生もスルメ食べてたんじゃないのか?』
『ああ、そういやそうか』
『で、そのイカ墨で何着の白衣が餌食に?』
『……美月、それ、聞くかい?』
随分と遠い目をしていた。
――とまあそんな風に、実技順位第一位の那由多の特殊性はともかく、僕の相手がなにやら怪しそうな雰囲気であることを去り際に語っていた先生がいたことから、もしかすると上位百位~五十位あたりの人物と当たってしまうことになったのかとびくびくしていたわけなのだが……
まさかその予想で足りないことになるとは一体誰が思うだろうか? 僕はきっとこの先、今日という過去の日を厄日として永遠に記憶へ刻みつけることになるのかもしれない。
「なんで、僕なんかが二位と……?」
「もう決まってることなんだ。骨は拾ってやる……かもしれないから、腹括れよ」
「大丈夫。イツキなら一手取れるよ!」
「はぁ……」
何が悲しいかって、那由多も美月も励ましておきながら僕の負けを前提にしていることだ。まあそれほど僕と黒河さんの戦力差は途方もないということであり、僕自身もそれを認めているので言っても詮無きことだと分かっている。
しかし、そうであるからこそ解せなかった。どうして実力差の大きすぎる彼女と僕が組まされてしまったのか、ということに。
模擬戦――《戦闘術》カリキュラムの基本システムは、それほど複雑ではない。
アストロイ学園に在籍する、およそ一万二千人ほどの全校生徒・児童は、その区別なく相応に、憐れみも慈悲もなく順位分けがされている。ここは元々、ディーアという名の異星種と戦うことを目的とした戦闘教育機関だ。先生の一人に残念そうなマッドサイエンティストがいるのは確かだが、学園そのものはその程度で甘やかすような緩さは断じて持ち合わせていないという意思をそこに謳っており、確かな数字を与えることで一人一人の自己評価戒飭に繋げる固い側面をきっちり立てている。
そのためロイヤルスティール十階層にある普段の学園生活にはそういった殺伐さはほとんどなくても、一階層下がって武道場ともなれば、アルカディア人の子どもは思ったより血生臭い場所で生きている、というのがひしひしと伝わってくる。気を紛らわすために強がる者もいなくはないが、大抵は不安と切望に直面した表情ばかりをするので、武道場は人が思う切磋琢磨ほど明るくない場所であるのが現実だ。特に、今日のように模擬戦が行われるコロセウムなどは、ざわめきと活気に溢れる裏で、学園生同士のあいだに殺意という悪意が全くないとは言えない雰囲気さえある。
一応校則で制限されているから誰も問題を起こそうとはしない。が、もしその枷がなくなれば、那由多なんかはかなり好戦的な性格なのであっちこっちに手を出してしまうだろう。たとえ公共の場であっても。
と、アルカディア人が存外にも戦闘意欲に溢れているのは、なんとなく大人達の気を辿っているところがあるだろう。当事者全員がどう思っているのかは知らないが、歴史だけを見ればここにいるのはテロリスト集団なのだし。
そんな感じに意外と怖い教育環境下にある実技順位システムというのは、アルカディア流教育の要だ。これは基本的に大きく六段階の評価――AからEランク、そしてSランクの格付けが設定されていて、当然ながら上位ランクになればなるほどその枠も狭まり、また競争率が高く、個人の実力があることを示している。学園の児童・生徒はこれを指標にし、上を目指して努力をする。
この評価は単純な力の強さだけで判断が下されるものではない。学園のモットーは知識も力も。故に実技とは言いつつも、この評価基準には普段の生活態度や筆記試験に伴う成績も統合され、そこから各々の技能や戦績を反映させて順位が付くことになっている。つまり実技順位とは、学園が生徒・児童に下す総合評価であり、全てなのだ。学園生が最優先すべきは、血眼でこの評価を上げること。それが「通例」であり、意義であり、対価があるから。
で、評価の具体的な内訳についてだが、最下位から八○○一位までがEランク。そして八○○○位から五○○一位までがDランク。五○○○位から二五○一位までがCランク。二五○○位から五○一位がBランク――
最後に、五○○から一位までがAランクに該当する。そのAランクの中でも特別な推薦を受け、審査を通った一握りがその上、至高のSランク扱いとなる。この推薦はAランクのみで例外はないが、逆にAランクでさえあれば、たとえば五○○位の人物でもSランクになる可能性は零ではない。……まあ、そんな前例はかれこれ十七年ほどの歴史があるこの学園で一度もないのは言わずもがな。
そして、学園生がどうしてこの評価にそこまで拘るのか、という話だが――
学園側はこれに則って、上位者にはアルカディアに於ける特権を授与する役割を有している。例を挙げれば、学費の割合免除や物資支給など、各種生活基本に関するものが大半であるが、中には卒業後すぐの徒弟を確約させたりといった権利取得もある。
これは将来の職種や人権とも深く密接することだ。つまりこの学園生活を頑張らないと、アルカディアでは非常に肩身が狭くなってしまう。だから学園生は出来る限り上を、あるいはそうならずに済む最低限の評価を求めて精励を尽くすわけ。一応の話、僕の視点では、順位に対して興味がなさそうな子どもは今のとこ見たことがない。
ただごく少数、少なくとも僕と那由多と美月がこの学園で良い成績を収めようとしているのは、そういった理由とは少し訳が違う。そもそも僕達は、評価の着眼点が普通の子ども達ともまた異なっている。
大まかに言えば権利取得だが、僕達が求めるのはアルカディア全領土を段階的に分割した「星の探索権利・許可証」というものだ。僕達は同じ夢、《境界》の向こうを見る同志だが、アルカディアでそれを叶えるには、最低でもこの許可証の最高ランクのものが必要になってくる。
《境界》そのものは、連峰の上からだけじゃなく外ならほぼ何処からでも見える一般的な存在だ。だがアレは世間の中では安易に触れていいものとはされておらず、実際は許可証がないと近くに行くことすら認められていないのである。僕達が学園の在り方に従い、日々研鑽を重ねる主な理由は、そんなことで夢の道を絶たれないようにするためだった。
だからこそ、那由多は六歳から十五歳の子どもが在籍する学園で、八歳ながら年上年下関係なく全てを蹴落とし首位を維持しており、美月も同学年女子でありながら四位という成績を収めている。本当はそこまでしなくてもいいのだが、それだけ二人があの雲の外側へ行きたいということなのだろう。そして僕もそれは同じである。
……というようなところで、肝心の僕の順位事情は? という正直耳に痛い話をすると――まず前提……というか変な拘りがある故の風習というか。学園は、知識よりも力に重きを置く傾向にある。なのでいくら学術で良い結果を収めようが、戦闘術の方で教師陣の目を瞠らせることが出来なければ、上位の成績に食い込むことは無理だ。
だがこれは理知的な判断である。力は知恵が無ければ暴力と成り得るが、それでもそれは有る力だ。対して知識は、知識だけ磨いてもそれを行使する力がなければそれまでである。その点、那由多がオリヴィア先生に対してああも素行の悪い態度をしていても一位でいられるのは、彼が僕を含んだ他全ての子ども達を凌駕する戦闘能力の持ち主だから、で説明が付けられる。
ちなみに那由多は堂々のSランクなので、大半の教師陣が毎日のように「性格がなぁ」と手を焼かせられているのが微笑ましい光景だなんて思ったり。まあ問題児ってことなんだけど。
美月は知識、力、共に平均値から高く、どちらも安泰的な評価を得ている。なので美月も小学三年次ながら多くを蹴落として順位四位。突出した能力を有するとは評価されていないのでAランクだが、それでも十分すぎる。流石僕達の親友、といったところだが、少々恐ろしくもあるのが本音か。まあその調子で那由多のストッパーになってくれたらいいんだけど……。
……そして僕は、黒河さんの言葉を思い出してもう一度嘆く。
模擬戦は、別に成績に直接影響する面はほんの僅かであり、この結果がそのまま数字の上昇下落に反映されるということはない。あくまで今ある自分の実力を試行し、勝敗の中でその技量を見つめなおす――どちらかと言えばそんな再確認のような意味合いが強い。
しかしそうであるためには、やはり実力というのが互角争いに足るものでなければ、あまり意味を成さなくなる。一瞬で勝負がついたとしてもそれはそれで感じるもの、見直す部分なりと得るものはあるだろうが、僕のように戦闘分野に於いてあまり良い結果を残していない軟弱者には、なるべく多く長くの経験をさせ、多方面的に感覚を研ぎ澄ませようするのが安定を辿った道筋だ。実際、学園側もそういった必然、必要規定路線は把握し、模擬戦を行う者同士のあいだで大きな実力差があるのはなるだけ回避する意向のはずである。
だが先ほどの黒河愛――アルカディアでは《黒閃》の異名で呼ばれる彼女は、普通なら、いや普通じゃなくても模擬戦で僕と当たるような人物ではない。僕と彼女のあいだには、まるで住む世界が違うレベルの明確な実力差が存在するのだ。
年齢は十二、中学一年次と僕達の四つ上。使う得物は日の丸魂を心に宿す刀一つであり、家系による独自流派の門弟だった。だった、というのは、アルカディア人が地球から逃げてきた折、彼女も肉親と呼べる相手を失ってしまったからなのだが、そんな風にプロフィールを知り得ているのは、那由多の次ぐらいに彼女が有名で、紛れもない強者だからである。その知名度はアストロイ学園内に留まらず、この広く狭き艦に住むアルカディア人なら誰もがと言ったところか。
不肖ながら那由多と美月のオマケみたいなこの神童一暉も、一応彼彼女らと同じAランク帯を維持してはいるものの、そのAランクの中にも下と上で泥と雲ほどの戦力差があるのが否定出来ない。故に、具体的な数字は控えさせてはもらうが、連峰で那由多と当たったらいいな、なんていう呟きも本当は夢物語的な話であり、僕と黒河さんが組み合うという状況もイレギュラー中のイレギュラーと言えることなのだ。
だから、普通じゃない。何故僕なんかが? ――そう思う度、先生のあの微妙なさじ加減が腑に落ちる反面、謎が勢力を増すばかりだった。
今、コロセウムのロビーではAランク帯の子ども達が集っている。武道場以下、コロセウムは別に狭くはなく、観客席も一万の定員枠、そしてコロセウム自体が隣り合って二つあるので、全学園生を収納出来ないわけでもない。
とはいえ、それを束ねる人員にも限度というものがある。今年度の学園は正確に一万二千百二十五人の六歳から十五歳の子どもが在籍しているが、対して教師は百人程度しかいない。事務作業や学術と、さらに分野を分ければ戦闘術カリキュラムに割ける人員もまた減らさずを得ないので、理論上は可能かもしれないが正確さ等懸念事を鑑みて過密な教育体制は実現出来ず、週一度の模擬戦はランク毎に日を変えて行われるようになっている。
つまりこの場、九階層・武道場。そのおよそ中心地にあるコロセウムの第一会場には指で数える数しかいないSランク者を含めたS兼Aランク帯の五百名――現アストロイ学園の頂点レベルの学園生のみがこぞって集結している。ロビー正面の上部に掲げられた電子パネルには現在時刻の一六五七、それから五百の名前が組となる二つずつでズラリと表示されており、左部に二桁の数字(あれは開始順次だ)が抜けなくある。
その三つの巨大モニターの、一番左上。そこだけは例外も例外で「Exhibition : Siiba Nayuta vs Unknown」なんて相当に注目の的になっているが、その一つ下には「Kuroga Ai vs Sindo Itsuki」とある。知らぬものがほとんどいない最上位者の名前はそりゃ良い学習教材だろう、なんて話で決まって左上から表示されるので、模擬戦がある日には左側のモニター前に人が溢れ易い。
ってなわけで、ここに来ていつも通りに右側のモニターから自分の名前を探して、「あれ、全然見つからないんだけど」……と、那由多と美月にも手伝ってもらってようやく見つけたのがほぼ全部を検分した後のことだなんて、呆然と立ち尽くさずにはいられないではないか。那由多はそもそもモニターを見てすらいなくて、美月は上の那由多とそこから下三つ目にある自分の名前にすらすらと焦点を当てただけで気付かなかったようだ。
「く、くろ……が?」
「わーお、先生がヘンだったのはそういうことかぁ。……その、なんて言ったらいいかわからないけど、これ頑張ったらきっと順位四百台から抜け出せるよ! だからファイトだよ! イツキ!」
「いやそれを言ってやるなよ……」
もうなんかただただ悲しい気持ちになる応援に、周囲の喧騒に紛れるサイズの声で返す。
「な、いや、こんなのおかしいって! 学園のログデータに残されてる中でも、史上大差マッチングはせいぜい八十差ぐらいで――ぼ、僕と彼女は四百以上も離れてるじゃないか! AIは一体なにを考えてるんだ!?」
「まあいいじゃねぇか。いつかは僕と当たるのをなんとかかんとか、とも言ってたろ? それの予行練習とでも思えばいいんじゃねぇの?」
「そ、そんな……な、なあナユタ。君は彼女と一度やりあったことがあるよね?」
「ん? ああ、丁度半年ぐらい前かな。そん時はまだ向こうが十位ぐらいだったけど。あの人、あの時より強くなってるんだよなぁ……」
「暢気! 今だけはちょっと困るかな!」
「なに言ってるの? みんな努力してるんだから強くなるのは当然でしょ?」
「うっ……」
ズバリと鋭く突き刺さる美月の正論。それに打ちひしがれる――
その時だった。あの声が僕に向けて示されたのは。
「――ねえ。しん、シンドー……神童、いつき? くんって、君のことでいいんだよね?」
「はい僕がそのイツキですけど誰ですか!?――って」
そこには、周囲の目を集めながら気にする風もない彼女が立っていた。
僕の思い悩む対象だったはずのそれは、どこか雨に塗れたような静けさを放ち……
雨粒の全てが、音も無く落ちて波紋を広げていくようだった。
「――そう……なら、良かった。今日はよろしく。お互い、意義ある戦いが出来るといいね。……違う。そうじゃなきゃ、駄目」
「あ、えっと……」
蓮の葉の上にも軽々と乗れてしまいそうな彼女。水面の線にさえ共存が許されていそうな彼女。
僕は息を呑んだ。何故か言葉が出てこなかった。彼女がそこにいる、ただそれだけなのに、どうしてか触れることさえもあってはならない気がしたのだ。
「だから、出会ったばかりで申し訳ないんだけど、君に一つ、お願いがある」
そんな彼女は僕の返事も待たず、小さな口を緩やかな流水の如く動かす。
く、黒河さんだ……。キャー! あいつが神童一暉か。彼って何位だったっけ。椎葉の横にいるってだけであんまり知らないな。宍戸さんもすごい子なんだけどね~。でも彼、勉強はすごいよ、何回か助けてもらったことがある。にしても黒河さん、かっこよすぎ! は? かっこかわいいの間違いだろ、間違えるなよ。俺もお願いされたい。
あらゆる方向から伝わる、そんな自由気ままな言葉達は、それら眼前の衝撃に打ち砕かれ、耳にも入らない。
僕はその一瞬、真っ白な世界で黒河さんだけを見ていた。多分、惹き付けられたのだと思う。
それぐらい、彼女が魅力的に感じた。それが何なのかは、分からないが。
お願いは自体は、あの黒河さんの言葉だ。僕としても頼まれるのは吝かではなかった。
だが。
「――――絶対、私に負けないで」
僕は立ち尽くすしかなかった。