第五十八話 実践練習② 正義と躊躇い
「これ、美味しいな」
湯気はもうほとんど立っていない。少し冷めかけたビーフシチューを、ソルフィアは思いのほか勢いよく口に運んだ。さっきまで夕食のことなど頭になさそうだったのに、食べ始めれば止まらない。どうやら本当に空腹だったらしい。
「でしょう? アネモス達が作ってくれたんだよ」
言うと、ソルフィアは幸せそうに目を細め、ルーの中で柔らかく崩れる野菜をゆっくりと噛みしめた。
「悪いな、持ってきてもらって……本当は皆と一緒に食べたいところだが、今は手が離せなくてな」
防護結界の強化研究。国を爆弾や外敵から守るための要となる実験だ。机の上に並ぶ器具が、その責任の重さを物語っている。
「ううん。ソルフィアはこの国を守る大事な研究をしてるんだもん。このくらい、お安い御用だよ」
料理を運ぶくらいで嫌だなんて思わない。それを面倒だと思ってしまったら、きっと全部が面倒に見えてしまう。
ソルフィアはふっと小さく笑い、焼きたてだったはずのパンを一口かじった。もう温もりもなく、滲み出た水蒸気のせいで焼きたてのパリパリ感も無くなっている。そのなのに、どこか満足そうだ。
「そういえば、リトルは今何をしているんだ?」

スプーンを皿に戻しながら、ちらりとこちらを見る。
「ルミナの下で魔術の修行中。今は実践中心かな。今日は森で、大きなモンスターを一匹仕留めてきたよ」
「……リトル、一人でか?」
驚きを隠さない声音に、私は小さく頷いた。
「そうか。リトルも日に日に強くなっているんだな。えらいぞ」
その一言に、胸の奥がむず痒くなる。
「…………ここにいるみんなのおかげだよ」
視線を逸らしてしまったのは、きっと顔が少し熱くなっていたからだ。ソルフィアと二人きりの空間で、真っ直ぐ褒められるのはどうにも落ち着かない。
やがて、コトリと食器の触れ合う音がした。皿はきれいに空になっている。ビーフシチューも、こんがり焼いたパンも、跡形もなく。
「ありがとう、リトル。美味しかったとアネモス達にも伝えてくれ。それから……もし心配しているようなら、俺は大丈夫だとも」
そう言い終えるや否や、彼はもう机へ向き直っていた。食後の余韻に浸る暇もなく、迷いなく実験器具へと手を伸ばす。
本当に好きなんだな、と思う。
国のためという責任はもちろんあるのだろう。でもそれ以上に、研究そのものを楽しんでいるように見えた。
私はそっとトレーを持ち上げる。空になった皿は来たときよりずっと軽い。底に残ったわずかなルーから、野菜の甘い香りがかすかに漂う。
扉を開けかけて、私は振り返った。
「……まあ、たまには息抜きに顔を出してくれると、嬉しい、かな」
返事はなかったけれど、彼の肩がほんの少しだけ緩んだ気がした。
私は静かに部屋を後にした。
✳︎
翌日の昼休み後……
今日もルミナと共に昨日暗黒龍を倒した森の入り口に来ていた。
あれだけ降り積もっていた雪も、昨日から今日の朝にかけて少し気温が上がったせいか少し溶けて、透明な梅雨になって、枝先からポタポタと滴り落ちていた。枝の上に被った雪も少しずつ地面へと落ちていって、元々地面に積もっていた雪と混ざり合っていく。
足を踏み入れればくるぶしぐらいまで埋まるほどだった雪の厚さもかなり薄くなっていて、下の方からは土が、まだ顔を出したばかりの新芽が揺れていた。
「さて、今日はモンスターでは無くて、獣との戦闘をやりたいところなんだけどな……」
ルミナは片手に乗せた小さな笛を優しく握った。
昨日はこれの効果が驚異的すぎて、誰もが恐れるという最強のモンスターを召喚した。だからルミナのいう一言一言には私の中で一つの不安となって付き纏う。
「今日はもうちょいマシな相手にしてよ?」
「分かってる。ちょっと控えめにするよ」
言いながら横から顔を出すとルミナは軽く苦笑いした。
森の中へ足を踏み入れる。
今日は薄曇りの空から、薄く光が差し込んでいる。ただ、木々の間から吹き抜ける風は依然として冷たい。
「あっ」
少し行ったところで、ルミナはすぐに足を止めた。まだ笛を咥えただけで音すら出していない。なのに、ルミナは何か気配を感じ取っていた。
今日は、昨日よりも余裕がない。昨日はもう少し言葉を交わす余裕があった。
早速感じ取った何かの気配に杖を握る私の手に力が入る。
茂みがカサカサと小さく音を立てた気がした。
茂みの奥、草の間から二本の白い角が見えた。
「あのツノ……」
どこかで見たことがある。最近、どこかで……
「あれは、『コレヌーディア』だ」
「………………」
コレヌーディア。オスだと体長が一、五メートルを超えると言われている鹿。以前アネモスと一緒に野宿することになった時に一回仕留めて、その肉だって食べたことあるし、実際、オスだけが持つ立派な枝分かれした白いツノは削ってリアの持つ“仲間の笛”にしていた。
「『コレヌーディア』なら、倒したことある――」
そう思い、私はもう少し近づくため、足を踏み出そうとした。しかし私の腕を、ルミナはしっかり掴んで離さない。
「油断しちゃいけない。突進してきたら凄い力がある。しかも足が速いし視界も広いんだ」
「でも……私前仕留めた時は余裕だったよ……?」
そうだ。あの時は至近距離から光の矢を飛ばすだけですぐ仕留められた。
しかしルミナは目を閉じてゆっくり左右に首を振る。
「確かにリトルは実践は強い。でも油断しちゃダメなんだ。慎重に行こう」
ルミナはそっと腰を屈めながら音を立てないように注意し、茂みの奥に潜り込む。私も同じようにした。雪解け水をたっぷり被った葉っぱが動く度に服に触れる。冷たい。
「……ねぇ、なんで今日はそんな慎重なの」
ルミナの助言で見つからないように茂みの中を慎重に進む。前回は全く手出し一つしなかったルミナが、なぜか今日はかなり慎重だ。
「あのあと部屋に呼び出されて少しアネモスにお叱りを受けたんだよ。初めてなのになんの指導もせずに大型の魔物と戦わせて大怪我負わせるのはダメだって」
「そうなんだ……」
「だから今日は慎重にいく」
ルミナは少々表情を曇らせたが、すぐに立て直すと腰を屈めて体を小さくしながら進んでいく。私もその後ろについた。
まだ、コレヌーディアは私達の存在に気づいていない。落ち着いた様子で地面に生えた草を食んでいる。
私はこれからこの獣を撃ち落とす。
なぜかそれが残酷に感じた。
――なんでだろう。
研究員を殺す時は本能の赴くままに武器を向け、そこから飛び散る血潮を見ても冷たい感情しか湧かないのに。それに今まで冒険者をやってきてたくさん獣を撃ち落としてきたのに、なぜか今日はどこか違う気がした。
早まる心臓を落ち着かせようと右の服の袖を左手でギュッと握る。手汗で濡れていた。
茂みの奥から気づかれないように様子を伺う。もうかなりすぐそこまで迫ってきていた。獣の地面を踏み締める太い足、草を食むためにおろした太い首には艶の良い栗色の毛が隙間なく生えている。オスの象徴である太く枝分かれした二本の白いツノは目の前で見るとその強さを窺えた。
「よし、これだけ近づけば大丈夫だ」
ルミナはそこまできてようやく私の方を横目でチラリと見、ギリギリ聞こえるかどうかぐらいの小声で私に耳打ちをした。ゴクっと唾を飲み込む音がする。少し呼吸を整えて、ルミナは私に命じた。
「撃て」
その瞬間、何か空気が揺らいだ気がした。
私の手に握った光の杖の中を鋭い速さで大量の魔力が暴れ出す。強い光を纏って火傷しそうなほどの熱を感じた。
空気が、裂かれた。空気が割れた。
柔らかく撫でていた風をも裂いて一筋の紫電が一瞬で駆け抜けた。
ドォオオオン……!!!
「…………っ!!」
爆音が耳を劈く。鼓膜が破れそうなほどの爆音。その途端、木々が大きく揺れ、まだ溶け切っていない雪が一気に枝から滑り落ちた。雪煙が巻き上がり、目の前が白く染まる。吸った空気の粒は凍りつきそうなほど冷たく、乾燥した空気は肺の奥を痛めつけた。
音が止んだ。
だんだん曇った視界が開けてくる。
「………………!!!」
真っ白な雪原の上……その上にコレヌーディアが横たわっていた。撃ち抜かれた腹の辺りからまだ生きた生温い血が流れ、白い雪原の上を紅く染めていく。
――私が、撃った。
心の奥が冷たくなるようだった。
冒険者としての依頼でもなんでもない。前までは依頼として契約を交わした上でやっていたからそんなに罪深く捉えることはなく、寧ろ必要だったから殺した。
でも、今は違う。ただ魔術を強化するための練習として……それだけの理由で私は杖を向けてしまった。刺激しなければ襲ってくるわけでもない、獣に。
モンスターは倒さなければならない。モンスターは、この世界に漂う魔力の塊から生成された化物で、増え過ぎれば人を襲い街を壊す。だから誰がやっても正義になる。
でも、獣は……私達と同じ生き物で。今さっきだって草を美味しそうに食んでいたのに。
自分が生きるためでも、誰かを守るためでもない。ただ単純に、私の魔術の練習のために犠牲にさせてしまったと思うとなんだか胸が痛んだ。
「リトル……?大丈夫?」
そんな私に、いつものような明るい声でルミナは私の顔を覗き込むようにして聞く。
「ねぇ、ルミナ。本当に、良かったのかな……これって、本当は良くないんじゃ……」
声が震えてしまう。恐怖で言葉が詰まってしまう。
「そうだね。でも、大丈夫。ここなら罪に問われることはないんだ。好きにしていい。魔術の練習のために命を撃ち落とすことも認められているから」
「……………………っ」
淡々と、ルミナは語る。その語り口調が恐ろしい。ルミナはそこに「ただし……」と付け加え出した。
「ただし、やはり安易にやっていいものではないよ。私達は自然に感謝してそして自分で撃ち落とした命は、余すことなく使う。そういうルールだ。あと当然もっと厳しい規定もある。そうじゃなきゃ誰でもこの範囲にいる生き物に武力を突きつけてもいいことになってしまうからね」
私はルミナの言葉を一つ一つ受け入れながらそっと倒れたコレヌーディアの体に触れる。毛はふさふさで暖かく、その下からはまだ淡い温もりが感じられる。でも、もう二度と動くことはない。
私はそっと両手を合わせて静かに目を閉じた。
私は、治癒という力を持っておきながら、今までに命あるものをたくさん撃ち落としてきた。自分が死ぬのが怖いから、自分を守るために……そして仲間を救うために。それはきっと正義だと認められるのだろうけれど、やってきた事実には変わりはない。なんて、難しいんだろう……。
「今度やる時は、もう獣じゃなくって、モンスターがいい……かな。もしやるのなら正式にもう一度冒険者になって依頼としてやる……そうじゃなきゃ、やっぱり、私は無理なのかもしれない」
気づけば、本音がこぼれ落ちていた。
胸が締め付けられるだけだった。なんだか自分が押しつぶされそうだった。身体の中を流れる治癒力のカケラが、私の手のひらの中で淡い黄緑色の光となって輝く。
「分かったわ。じゃあ次からはそうしよう」
ルミナは私の本音を、重く受け止めていた。
本当は、こうなるはずじゃなかった。でも何故か、いざ撃ち落とした後を目の当たりにすると、私の中では耐えられなかった。
溶けた雪の粒が、木々から降り注がれる。一滴二滴と私の頭の上から降ってきて、私の髪を濡らしていった。まるで木の枝までもが涙をこぼしているかのようだった。




