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絶望の世界に、光を  作者: しらつゆ
第一章 ラリージャ王朝 仲間編
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The story Within 最初の能力者

スケールの過去編です。



 すべての音がよく響く。

 扉の軋む音、足音、隣の部屋で金属がぶつかる小さな音さえも、深く染みこむように響いてくる。

 

 研究所の研究室。

 ここは、そんな音だけが生きている場所だった。


 地下に広がる、冷たくて息の詰まる空間。

 白衣の大人たちの声と、ロウソクの炎の揺れだけが、時間の代わりをしていた。

 コンクリートの壁は所々剥がれ、廊下は手を伸ばせば届くほど狭い。

 

 ……そこに光はなかった。


 熱も、感情も。

 ただ、歪んだ少しの扉の隙間から冷たい風が吹き抜ける。そうして震える体を温めてくれるものはない。


 俺は、スケール。

 ここで最初に選ばれた子供だ。

名前で呼んでくれる者もいるが、多くの研究員からは、最初だから「一番目」と呼ばれている。最近は名前のイニシャル、Sをとって「研究体S」などと呼ばれている。

 

 でもそんな呼び方に、意味はなかった。番号はただの都合だ。研究する側がつけた、記録用の札みたいなもの。あとは単に彼らが名前を呼ぶという単純なことすらも放棄して、モノとして扱うために付けられた記号だ。


 俺は六歳のとき、突然ここに連れてこられた。

 

 最初は訳もわからず突然両親と引き剥がされて、暗がりの中で腕を切りつけられて、泣いた。その突然襲いかかる痛み、体の叫び。そして切り開かれた傷から溢れるその色の残酷さに。

 

 暴れた。叫んだ。だけど――

 泣いても叫んでも、ここじゃ何も変わらない。


 彼ら研究員が俺の目を見る視線に、興味のカケラはない。ただただ言われた通りに、好きなように体を切り刻んで引きちぎる。時間が経つにつれて、俺はそれを理解した。だから、壁の内側では生き残るために黙ることが一番の武器だった。


 それからは、見て、聞いて、覚えることに徹した。誰がどこを歩いているか。どの研究員が何時に交代するか。誰が優しいふりをする奴で、誰が笑いながら壊す奴か。


 正直に言って仕舞えば、そこに「誰が」というものは存在しなかった。みんな同じだ。みんな同じように血赤の瞳を光らせ、鋭く尖ったツノを伸ばし、冷たい声音で話す。

 

 この場所の仕組みすらも俺は知っていた。俺がここにいる間に他にも二人の女の子が連れてこられた。女の子だからと言って何か対応が異なるなどということはなく。俺と等しく傷つけられ、狭い空間に閉じ込められ、俺のいる部屋の向かいの部屋からはいつも泣き声がした。

 

 

 俺は世界は知らなかった。

 

 空の色も、風の匂いも、地上の音も。全部、知らないままだった。



 ――そして、九年が経った。


 ただ生きて、ただ耐えて、ただ黙って。生きた日の数……五四七五日……生まれてから十五年目の朝を迎えた。つまり、ここ、研究所に来てから九年だ。俺がその間ずっと心に誓っていたのはただ一つ。


 実験の中で絶対に死なないこと。必死に時間という単位を刻んでここまで生きてきた。


 だが、もう限界だった。

 九年もの長い年月、太陽の光すらまともに浴びていない俺の体は何かクリームを上から塗っているかのように真っ白で、栄養すらまともに取っていなかったせいで脆くなった骨は動くたびに痛んだ。


 

 それからしばらく経った、夜。

 俺は、逃げることを選んだ。


 ロウソクの灯りが少なく、見回りが交代する時間。細い廊下を裸足で走るには、十分だった。俺は、自分の部屋の扉を音もなく開け、暗闇へ踏み出した。


 地図なんていらない。

 俺の頭の中には、研究所の構造がすべて刻まれていた。


 だけれど、静寂は長くは続かない。


 「そっちに行ったぞ!追え!」

 「一番目の研究体が逃走中だ!」

 「止めろ、すぐに止めろ!!」


 背後から怒声が飛び、革靴の足音が響き渡る。

 暗がりの中で階段を駆け下りながら、心臓の音だけがやたらと大きく響いた。

 

 武器なんてない。戦う力もない。ただ、走るしかなかった。


 背後から、ずっと脅しのために彼らが使っていた刀の金属が揺れる音がする。


 転べば終わりだった。

 一度でも振り返れば、捕まるかもしれない。

 だから、前だけを見た。


 ――鉄の扉が開いた瞬間、空気が変わった。

 重い風が顔を撫でた。

 初めて嗅ぐ、湿った夜の匂い。

 初めて聞く、木のざわめき。


 それが、地上の音だった。


 でも喜びなんて、なかった。

 逃げ切ったわけじゃない。追ってくる足音はまだ、遠くに聞こえていた。


 俺はそのまま森の中へ飛び込んだ。

 裸足で、泥に足を取られながら、ただ走った。


 ――そして、俺は家に向かった。

 ずっと、帰ることだけを夢見ていた家へ。

 記憶の中にある道を辿り、目を凝らして、ようやくたどり着いたその場所で――

 俺は、何もない更地を見た。


 そこには、誰もいなかった。

 家は燃やされたか、崩されたか、あるいはもう何年も前に消えていた。


 家族の気配もない。灯りもない。

 ……すべてが、遅すぎた。


 そして俺は同時に悟った。ここで現実を知って、もう十分知ったから戻ろう、と思ってももう戻ることはできないのだと。


 もし戻るのだとしたならば。それは死にに行くようなものだ。あの金属の光が俺を掴んで離さない。俺の体の中でずっと、ずっと燃えている、生きた状態の治癒力の結晶が燃え尽きるまで。体の中を流れる真っ赤な生き血が流れを止めるまで。


 でも涙は出なかった。

 涙なんてものは、もうとっくに捨ててきた。


 


 俺はただ、家があった場所、帰る場所だったはずのそこに座って、本来なら両親が「おかえり」と出迎えてくれるはずだったという一瞬の想像を膨らませながらそこに座る。


 酷く冷たい風が、強く頬に当たって痛い。涙は出なくとも、緊張と興奮と不安とでぐちゃぐちゃになった心の奥から吹き出した感情で熱くなった頬にそれが当たると、痛く感じた。


 ここは元々寒い。そうと分かっていたのに逃げるのに必死だったせいで、裸足、薄い長袖の白シャツ、薄いグレーの短パン……という標準的な研究所内の衣装のままで上に羽織るものもない。


 体からの熱のせいでそこまで寒くは無いが、ただ、その空気が痛い。



 上を見上げると、黒の中に少しの青が混ざった色がどこまでも広がり、薄く映る雲の上にゴマのような大量の星々が冴え冴えと輝いていた。その星一つ一つが、俺が置いてきた、或いは自分で打ち砕いてきた感情のカケラのように見えた。


 苦しい。苦しい。苦しい。


 頬の上がくすぐったい。

 掻こうと思って震える指先を触れる。


 生暖かく濡れている。


 俺は……泣いていた。


 置いてきたはずの涙が、何故かそこから溢れ出していた。


 俺は、俺の名前はスケール。


 それは「研究体S」でも、ただ番号で例えられるようなものではない。


 俺は自分の足で歩き出す。

 この悲しみと苦しみを誰かのためにかけるための光として。


 

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