5.「では、第一回プレゼント交換実験を開始しよう」
◆
王立魔術学院の貴賓サロンは一般学生とは区別された特別なサロンで、高位貴族の子弟たちが集まる格式高い社交空間だ。
水晶のシャンデリアから降り注ぐ光が、集まった若い貴族たちの装飾品をきらめかせている。
エルンストは、革装丁の分厚い本を抱えて入室した。
すでに到着していたセシリアは、小さな箱を手に微笑んでいる。
「遅くなって申し訳ない」
エルンストは彼女の前に立った。
「いえ、私も今着いたところです」
二人の様子に、サロンにいた令嬢令息たちの視線が集まった。
ヴァイスベルク侯爵家とモンフォール伯爵家の婚約は、界隈でも注目の的だった。
「では、第一回プレゼント交換実験を開始しよう」
エルンストが宣言すると、周囲からくすくすと笑い声が漏れた。
──「実験って」
──「さすが魔術の申し子と言われるだけあるわね」
セシリアは箱を差し出した。
「まず私から。エルンスト様の研究に役立つものを選びました」
エルンストが箱を開けると、黒曜石のような艶を持つ文鎮が現れた。
表面には見たこともない複雑な紋様が刻まれている。
「これは?」
「『固定の文鎮』です」
セシリアが少し得意げに説明を始めた。
「この文鎮で押さえた書類は、どんなことがあっても動きません」
エルンストの眉が上がった。
「どんなことがあっても?」
「ええ。窓を全開にしても、魔術で突風を起こしても」
セシリアは自信満々に続けた。
「一枚たりともめくれることはありません」
「──ふむ、呪ったのかね?」
エルンストが興味深そうに文鎮を手に取って言った。
セシリアもまた若くして魔術の達人ではあるが、原理・現象を操る魔術を得意とするエルンストと違って、彼女は呪術の類を得手としている。
「その通りです。『固着の呪法』を応用しました」
セシリアの青い瞳が輝いた。
「書類が勝手にめくれて実験データが散らばったり、重要な術式の途中でページが飛んだりする煩わしさから解放されます」
「素晴らしいな!」
エルンストは感嘆の声を上げた。
「インテリアとしても美しく、実用性もある」
「でしょう?」
セシリアは嬉しそうに微笑んだ。
「もちろん文鎮を持ち上げれば即座に固定化は解除されます。ただし──」
「ただし?」
「持ち上げる事ができるのは文鎮の所有者だけ。つまり、あなただけです」
周囲で聞いていた令嬢や令息たちが、ひそひそと囁き合った。
──「呪いをプレゼントって」
──「でも実用的よね」
──「呪いは祝いとも言うからね。使い方次第だろう」
彼らも皆魔術を嗜むゆえに、セシリアのプレゼントを奇妙なものだとは思わない。
「製作には三週間かかりました」
セシリアは少し照れたように言った。
「あなたの魔力波長に合わせて調整する必要もありましたし」
「君は私の魔力波長を」
「先日の共同研究で測定したデータを使いました」
二人が熱く語り合い始めると、周囲の空気が微妙に変わった。
──「さすがはセシリア様ね」
──「実用性と高度な術式を両立させるセンスは並の魔術師にはないわ」
──「それを一目で価値を理解して喜ぶエルンスト様も」
「私からは、これを」
セシリアが表紙を見た瞬間、息を呑んだ。
「まさか『古代共鳴理論』!?」
「禁書庫のものを写本した」
エルンストは少し誇らしげだった。
「ぎりぎり間に合ったよ。内容も問題ないはずだ。五十人がかりで確認したからな」
五十人がかりというのはもちろんエルンストの疑似人格が五十人分という事だ。
セシリアは震える手でページをめくった。
そこには見事な筆跡で古代の知識が記されている。
「素晴らしい業ですね……」
セシリアの声が感動で震えた。
「術式図も、注釈も、全て」
「君の研究に必要だと言っていたから」
エルンストは照れたように頭をかいた。
サロンがざわめいた。
──「『古代共鳴理論』を!?」
──「あんなもの写本したらそれこそ廃人になってしまうだろうに……」
禁書庫に入れられるような書は大体有害だ。
複製を試みる者の精神を蝕む呪詛、書き写す手を麻痺させる術式などはざらに施されている。
セシリアは本を抱きしめた。
「ありがとうございます。大切にします」
「それより、早速内容を確認したくないか?」
エルンストが提案した。
「第三章の共鳴増幅理論は、君の仮説を裏付ける可能性がある」
「本当ですか!? では早速──」
二人が本を開いて議論を始めようとした時、誰かが咳払いをした。
「あの、お二人とも」
近くにいた伯爵令嬢が遠慮がちに声をかけた。
「せっかくの贈り物交換なのですから、もう少し」
「もう少し?」
エルンストが首を傾げる。
「その、恋人らしいというか」
セシリアがはたと気づいた。
「ああ、そうでした。実験の評価段階でしたね」
彼女は手帳を取り出した。
「エルンスト様、現在の親密度を測定しましょう」
「そうだな」
エルンストも真面目な顔になった。
「プレゼント交換後の感情変化を数値化する必要がある」
二人は向かい合って座った。
「まず、喜びの度合いは?」
セシリアが質問する。
「測定不能なほど大きい」
エルンストは即答した。
「数値化すると誤差が生じる」
「私も同感です」
セシリアは頬を赤らめた。
「では、親密度の上昇は?」
「少なくとも当初に比べて30パーセントは上昇したと思われる」
「控えめな見積もりですね」
「正確を期すためだ」
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二人の「分析」を聞いていた周囲の令嬢令息たちは、複雑な表情を浮かべていた。
実のところ、この場の者たちはエルンストとセシリアの関係を以前から温かく見守っていたからだ。
二人が共同研究で夜遅くまで議論している姿、魔術理論を語り合う時の輝く瞳、互いの論文を嬉しそうに引用し合う様子──誰が見ても、二人は特別な関係だった。
しかし当の本人たちは「優秀な研究パートナー」という認識から一歩も進まず、周囲はやきもきしていたのだ。
婚約が決まった時、皆は内心で安堵した。
ようやく二人の関係が進展すると思ったのだ。
それなのに今目の前で繰り広げられているのは「親密度30パーセント上昇」などという、相変わらずの分析だった。
「まったく、あの二人は」
とある侯爵令息が小声で呟く。
「去年、エルンスト様がセシリア様の論文を『私の人生で最も美しい理論』って評したのを覚えてる?」
「覚えてるわ」
「セシリア様も真っ赤になって、でも嬉しそうだったわよね」
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窓際の席では銀髪を優雅に結い上げた令嬢が、その様子を静かに見つめていた。
キャリエル・ド・ハイエスト公爵令嬢。
王太子レインの婚約者である。
──相変わらずの二人ね。変わった形だけれど
キャリエルは思った。
──私たちとは大違い
溜息をつく。
最近、レインは彼女に対して冷たかった。
以前のような優しい笑顔も親密な会話も減っている。
理由は分からない。
◆
「ところで」
エルンストが真剣な表情で続けた。
「恋人同士の一般的な行動様式について、データが不足している」
「確かに」
セシリアも考え込んだ。
「参考文献はありますが、実践が」
「では観察してみよう」
エルンストは周囲を見回した。
「他のカップルの行動を」
その言葉に、サロンにいた恋人同士が一斉に身構えた。
「観察されるのは」
「ちょっと恥ずかしいわね」
エルンストとセシリアは、きょとんとした。
「なぜ恥ずかしいのだ?」
「学術的な観察なのに」
その真顔での反応についに誰かが吹き出した。
それをきっかけにサロン全体に笑い声が広がった。
「本当に面白いわ」
「仲良しなのは確かよね」
「ええ、独特だけど」
笑い声の中、一人の伯爵令息が提案した。
「じゃあ、僕たちが実演しましょうか」
彼は恋人の手を取った。
「例えば、こうやって手を繋ぐとか」
エルンストとセシリアは、真剣な眼差しで観察した。
「なるほど、手を繋ぐ」
エルンストがメモを取る。
「物理的接触による親密度の表現ですね」
セシリアも頷いた。
「では実践してみましょうか」
二人は向かい合い、ぎこちなく手を差し出した。
指先が触れ合うと、両方とも少し驚いたような顔をした。
「温かい」
エルンストが呟く。
「魔力の循環も感じます」
セシリアが科学的に分析した。
「でも、それ以上に」
彼女の声が小さくなった。
「安心感があります」
二人は手を繋いだまま、顔を見合わせた。
その瞬間、分析も理論も忘れて、ただお互いを見つめていた。
「やっぱり」
誰かが小声で言った。
「お似合いよね」
キャリエルはその光景を見ながら小さく微笑み、そして思う。
──レイン様と私もこれくらい親密になれたら
と。
そうして、ふと自分の手を見つめる。
最後にレインと手を繋いだのは、いつだっただろう。
「キャリエル様」
侍女が声をかけた。
「お時間です」
「ええ、分かったわ」
キャリエルは立ち上がった。
去り際、もう一度エルンストとセシリアを見る。
二人は相変わらず手を繋いだまま、今度は「手の温度と感情の相関関係」について議論を始めていた。
「体温上昇は0.3度」
「心拍数は15パーセント増加」
「でも数値以上の何かを感じます、エルンスト様」
「同感だ。これは興味深い現象だな」
キャリエルは少し元気を取り戻してサロンを後にした。
◆
その頃、リーベンシュタイン男爵邸ではアンナが一人悩んでいた。
鏡に映る自分を見つめながら、深いため息をついている。
「どうして、みんな」
アンナは呟いた。
「私のことを、そんなに」
アンナがこの世界に生まれて十余年。
最初は乙女ゲームの主人公になれたと喜んでいた。
生まれた家も貴族家としては下級とはいえ、元豪商だけあって生活に不都合は全くない。
見目も悪くなく、憧れの貴族生活を十二分に堪能出来ている。
後は素敵な男性貴族とロマンスを──といった所なのだが。
ここで躓いてしまう。
周りの男性たちの反応は、明らかに異常だった。
「お父様は神からの祝福が強く作用していると言うのだけれど……」
──私は確かに“次に生まれた時はもっと愛される人間になりたい”と願った。でも
「こんなふうに、他の人の幸せを壊したいなんて思ってないのに」
そうして首にかけているペンダントのトップに触れる。
アンナは震える手でペンダントを握りしめた。
銀の鎖に通された小さな水晶は、窓から差し込む光を受けて虹色に輝いている。
「お父様がくださったこれも、何の効果もないみたい」
社交界デビューの朝を思い出す。
朝食の席で、父ダンカンが神妙な面持ちで小さな箱を差し出してきた。
「アンナ、これを身に着けなさい」
箱を開けると、見たこともない複雑な紋様が刻まれたペンダントが入っていた。
「これは?」
「解呪のアミュレットだ」
ダンカンの声は静かだったが、どこか切実さを含んでいた。
「昔の伝手を頼って、東方から取り寄せた」
アンナは困惑した。
「解呪……私は呪われているのですか?」
「呪いとは違う」
ダンカンは娘の肩に手を置いた。
「だが、お前の祝福を抑える効果がある」
「祝福……」
「ああ、お前は神に強く愛されている。いや、愛されすぎている。このままでは皆、正気を失ったようにお前に執着し始めるだろう」
「それは……」
「うむ、お前も困るだろう。だからこそ、このアミュレットが必要なのだ。幸い、私のような年齢の者には、お前の『祝福』は効かないようだがな」
祝福。
ダンカンはアンナの体質をそう呼んだ。
「肌身離さず身に着けていなさい」
「はい、お父様」
「いいか、アンナ」
ダンカンの声が急に真剣になった。
「絶対に、絶対に外してはいけない」
「え?」
「約束しなさい」
ダンカンの表情には、アンナが今まで見たことのない強い意志が宿っていた。
「どんなことがあっても、このペンダントは外さないと」
「は、はい……約束します」
アンナはダンカンの剣幕に押されて頷いた。
それ以来、アンナはペンダントを外したことがない。
入浴の時でさえ着けたままだ。
しかし──
「何も変わらない」
鏡の前で呟く。
今日も学園では、異常な事態が続いていた。
講義中、男子生徒たちの視線が全てアンナに集中し、教授が何度も注意しなければならなかった。
休み時間には、アンナの周りに男子生徒が群がり、女子生徒たちは冷たい視線を向けてくる。
「こんなの、おかしいわ」
アンナは部屋の中を歩き回った。
豪商出身の男爵家らしく、調度品は上質だが派手さはない。
その落ち着いた空間が、今は息苦しく感じられた。
ふと、今朝の出来事が蘇る。
親友だったエリザベートが、学園の中庭で涙を流しながら言った。
「アンナ、あなたって本当に罪な女ね」
エリザベートの恋人が、アンナと一度すれ違っただけで心変わりしたのだ。
「ごめんなさい、でも私」
「言い訳なんて聞きたくない!」
それ以来、女子生徒たちからも距離を置かれるようになった。
学園では孤立無援の状態だ。
「どうしたらいいの」
アンナは窓辺に立った。
外では王都の午後が穏やかに流れている。
同年代の令嬢たちは、普通に友人と過ごし、普通に恋をして、普通に青春を謳歌している。
なのに自分だけが、この奇妙な『祝福』に翻弄されている。
ノックの音がした。
「お嬢様、お茶の時間です」
「今行くわ」
アンナは鏡をもう一度見た。
蜂蜜色の髪、翡翠の瞳。
確かに美しいと言われる容姿ではある。
でも、それだけで人の心がここまで狂うだろうか。
前世の記憶では、この世界は乙女ゲームの舞台だった。
でも、ゲームでこんな設定はなかった。
主人公は確かに男性たちに愛されたが、それは彼女の優しさや強さゆえだった。
こんな、理不尽な力によるものではなかった。
再びペンダントを握る。
解呪のアミュレット。
でも、もし自分にかかっているのが呪いではなく『祝福』なら。
神からの祝福を、人の手で作ったアミュレットが打ち消せるだろうか。
「お嬢様?」
使用人の声に、アンナは我に返った。
「すぐ行きます」
最後にもう一度、鏡の中の自分を見つめる。
この『祝福』を解く方法を、見つけなければ。
そうでなければ、自分も周りの人々も、誰も幸せになれない。
アンナは決意を新たに、部屋を後にした。
廊下を歩きながら、ふと思う。
そういえば、一人だけ。
学園で見かけても、自分の『祝福』が効かない男子生徒がいる。
黒髪で、いつも難しい顔をしていた──
「ヴァイスベルク侯爵令息」
名前を思い出した。
魔術の申し子と呼ばれる、あの変わり者の青年。
先週、学園の図書館で偶然すれ違った時も、彼は自分を一瞥しただけで魔術書に戻っていった。
他の男子生徒なら間違いなく心を奪われるはずなのに。
もしかしたら、彼なら。
この呪いめいた『祝福』について、何か分かるかもしれない。
アンナは小さな希望を胸に、階段を降りていった。