21.「はい、もう離れません」
◆
図書館。
ラファエルの視線は何度も空席に向けられた。
アンナがいつも座っている席だ。
──体調でも崩したのだろうか
それにしても、連絡の一つもないのは不自然だった。
講義が終わると、ラファエルは学務課へ向かった。
「リーベンシュタイン男爵令嬢は欠席でしょうか」
職員は記録を確認した。
「はい、欠席届が出ております」
「理由は?」
「体調不良とのことです」
その場はそれで納得するラファエル。
だが。
◆
翌日も、その次の日もアンナは姿を見せなかった。
不安は日を追うごとに大きくなっていく。
同じ講義を受けている学生に尋ねてみたが、誰も彼女を見ていないという。
ついにラファエルは決心した。
──直接、リーベンシュタイン男爵邸を訪ねよう
午後の授業を終えると、彼は男爵邸へと向かった。
門の前に立つと、見慣れない男たちが立っている。
雰囲気が擦れすぎている。
明らかに普通の使用人ではなかった。
「リーベンシュタイン男爵令嬢にお目にかかりたいのですが」
ラファエルが丁寧に申し出ると、男たちは冷たい視線を向けた。
「お嬢様は面会謝絶だ」
「せめて、お元気かどうかだけでも」
「帰れ」
有無を言わせない拒絶だった。
ラファエルは諦めきれずに、もう一度頼み込んだ。
「私はモンターニュ子爵家のラファエルです。アンナ嬢とは親しくさせていただいていて」
「だから何だ」
男は鼻で笑った。
「旦那様の命令だ。誰も通さん」
◆
途方に暮れたラファエルはその日は帰宅するが、ろくに食事も喉に通らない。
翌日もアンナは欠席していた。
何か手がかりはないか。
誰か事情を知っている者はいないか。
だが何も手立てがない。
学園の中庭のベンチで頭を抱えるラファエル。
いっそ親にでも相談してみるかと思っていた所──
見た事のある姿を見つけた。
エルンスト・フォン・ヴァイスベルクとセシリア・ド・モンフォール。
アンナと親しくしている二人で、ラファエルも面識はある。
「ヴァイスベルク侯爵令息、モンフォール伯爵令嬢」
ラファエルは急いで二人に近づいた。
エルンストが振り返る。
「モンターニュ子爵令息か。どうした、顔色が優れないが」
「実は、ご相談があるのです」
ラファエルの真剣な表情に、セシリアが心配そうに尋ねた。
「何かあったのですか?」
「アンナ嬢が、学園に来なくなって三日になります」
その言葉に、エルンストとセシリアは顔を見合わせた。
「詳しく聞かせてもらえるか」
エルンストの声が真剣になった。
ラファエルは事の次第を説明した。
アンナとの関係。
両親への紹介。
そして、その夜の告白。
「翌日から姿を見せなくなりました。男爵邸を訪ねても門前払いで」
エルンストの表情が険しくなった。
「なるほど、状況は理解した」
彼は顎に手を当てて考え込む。
「セシリア嬢、どう思う?」
「不自然です」
セシリアも眉をひそめた。
「アンナ様の性格から考えて、無断で約束を破るとは思えません」
「同感だ」
エルンストは決断を下した。
「父上に相談する必要がある」
◆
ヴァイスベルク侯爵邸の執務室。
ゲオルク・フォン・ヴァイスベルクは、息子の報告を黙って聞いていた。
銀髪の侯爵の表情は、いつもの穏やかさとは違い、鋭い思考の色を帯びている。
「つまり」
ゲオルクが口を開いた。
「リーベンシュタイン男爵が、娘を監禁している可能性があると」
「その通りです、父上」
エルンストが頷く。
「状況証拠から判断して、その可能性が高いと考えます」
ゲオルクは立ち上がり、窓辺へと歩いた。
夕暮れの光が、書斎を橙色に染めている。
「リーベンシュタイン男爵か」
侯爵は呟いた。
「成り上がりの商人出身。野心家として知られている」
そして振り返る。
「エルンスト、なぜこの件に関わる?」
「それは」
エルンストは一瞬言葉に詰まったが、すぐに答えた。
「第一に、不当な監禁は法に反します。第二に、アンナ嬢は我々の知人です。そして第三に」
父の目を真っ直ぐに見つめるエルンスト。
「これは王国の秩序に関わる問題かもしれません」
ゲオルクの眉が上がった。
「ほう、説明してもらいたいな」
「アンナ嬢の件を調査する過程で、男爵が王太子殿下に接近しようとしていた形跡があります」
エルンストは慎重に言葉を選んだ。
ゲオルクは単なる情では動かない事がエルンストにはよくわかっている。
「もし男爵が、娘を利用して王家に取り入ろうとしているなら」
「なるほど」
ゲオルクは理解した。
そして、素早く決断を下す。
「分かった。私が動こう」
◆
ゲオルクの行動は迅速だった。
まず信頼できる情報網を使って、リーベンシュタイン男爵の動向を調査。
その結果、驚くべき事実が判明した。
男爵は複数の没落貴族に金を渡し、王太子の婚約者であるキャリエル公爵令嬢を陥れようとしていた。
証拠を掴んだゲオルクは、即座に王宮へと向かった。
彼はレイン派の重鎮として、王太子への謁見を申し入れる。
「ヴァイスベルク侯爵、急な謁見とは」
レインは執務室で侯爵を迎えた。
最近のレインは、以前の落ち着きを取り戻している。
「殿下、重大な報告があります」
ゲオルクは証拠書類を差し出した。
「リーベンシュタイン男爵が、不穏な動きを見せております」
レインは書類に目を通し、顔色を変えた。
「これは……まさか、私を利用しようと」
「恐らくは」
ゲオルクは頷いた。
「さらに問題なのは、男爵が現在、娘であるアンナ嬢を監禁している疑いがあることです」
レインの表情が厳しくなった。
「監禁?」
「はい。おそらく、娘が別の男性と親しくなったことを知り、計画が狂ったのでしょう」
王太子は立ち上がった。
「これは看過できない。すぐに調査を」
「既に法務省にも働きかけております」
ゲオルクは落ち着いて報告した。
「証拠も十分です。明日にも、憲兵隊が動くでしょう」
◆
リーベンシュタイン男爵邸。
朝の静寂を破って、重い足音が響いた。
門前に整列する憲兵隊。
その隊長が厳かに宣言する。
「リーベンシュタイン男爵、貴殿を監禁罪の容疑で拘束する」
書斎にいたダンカンは、蒼白になった。
「な、何かの間違いでは」
「間違いではない」
隊長は逮捕状を示した。
「貴殿の娘、アンナ嬢を不当に監禁した容疑だ。また、王国に対する重大な背任行為の疑いもある」
ダンカンは必死に弁明しようとした。
「娘は体調を崩しているだけだ。監禁などしていない」
「では、本人に確認させてもらおう」
憲兵隊は屋敷に踏み込んだ。
使用人たちは怯えながらも、素直に協力した。
彼らも主人の行為に疑問を感じていたのだ。
◆
鉄格子のはまった部屋の扉が開かれた時、アンナは信じられない思いだった。
「リーベンシュタイン男爵令嬢ですね」
憲兵隊の隊長が優しく声をかけた。
「もう大丈夫です。お迎えが来ています」
アンナは震えながら部屋を出た。
廊下の先に見慣れた姿があった。
「ラファエル様!」
アンナは駆け出した。
もう走ることさえ許されないかと思っていた。
でも今は自由だ。
「アンナ嬢!」
ラファエルも駆け寄ってきた。
二人は廊下の真ん中で、しっかりと抱き合った。
「心配しました。本当に心配しました」
ラファエルの声が震えている。
「ごめんなさい。私も、会いたかった」
アンナは彼の胸で泣き崩れた。
一週間の悪夢がようやく終わったのだ。
◆
エルンストとセシリアも、屋敷の玄関で待っていた。
「無事で何よりだ」
エルンストが安堵の表情を見せた。
「ありがとうございます」
アンナは涙を拭きながら、深く頭を下げた。
「エルンスト様、セシリア様のおかげです」
「礼なら父上に」
エルンストは肩をすくめた。
「我々は報告しただけだ。実際に動いたのは父上と王太子殿下だ」
セシリアが優しく微笑んだ。
「でも、もう大丈夫です。これからは自由に生きられます」
その言葉に、アンナは改めて涙をこぼした。
◆
ダンカンは憲兵に連行されていった。
最後まで娘を見ようともしなかった。
彼にとってアンナは、最後まで野望の道具でしかなかったのだ。
アンナはその後ろ姿を、複雑な思いで見送った。
憎しみはない。
ただ、深い悲しみがあるだけだった。
「行きましょう」
ラファエルが優しく促した。
「ここにはもう、用はありません」
アンナは頷いた。
そして、屋敷を後にする。
振り返ることなく。
◆
王都の通りを歩きながら、アンナは深く息を吸った。
外の空気がこんなにも新鮮に感じられる。
風が髪を撫で、太陽が顔を照らす。
すべてが眩しく、美しく見えた。
「これから、どうされますか?」
ラファエルが心配そうに尋ねた。
「まず、学園に戻ります」
アンナは微笑んだ。
「それから普通の生活を取り戻したいです」
「私の家族が力になってくれるとおもいます」
ラファエルが提案した。
「もしよければ、しばらく我が家に」
アンナは少し迷ったが、頷いた。
「お言葉に甘えさせていただきます」
エルンストが咳払いをした。
「では我々はこれで。また学園で会おう」
「はい、本当にありがとうございました」
アンナは改めて礼を言った。
四人は別れ、それぞれの道を歩き始めた。
◆
夕暮れ時、モンターニュ子爵邸の応接間。
アンナは子爵夫妻の前で、事の次第を説明した。
「まあ、そんなことが」
夫人が胸に手を当てた。
「おつらかったでしょうね」
「でも、もう終わりました」
アンナは努めて明るく言った。
「これからは新しい人生を歩みたいと思います」
子爵が優しく頷いた。
「我が家を第二の家だと思ってください」
「ありがとうございます」
アンナは深く頭を下げた。
温かい家族の輪の中で、彼女の心は少しずつ癒されていく。
ラファエルはそっとアンナの手を握った。
「もう離しません」
彼の言葉に、アンナは涙ぐみながら微笑んだ。
「はい、もう離れません」
窓の外では一番星が輝き始めていた。




