19.「両親に会ってほしいんです」
◆
初冬の朝、ラファエル様からの申し出に、私は手にしていたティーカップを置いた。
学園近くのカフェで、いつものように過ごしていた時のことだった。
「両親に会ってほしいんです」
彼の栗色の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。
穏やかだけれど、真剣な光が宿っていた。
心臓が早鐘を打ち始める。
家族への紹介。
それはつまり。
でもそれは嬉しさと同じくらい、不安も含んでいた。
「私で、よろしいのですか?」
声が震えないよう、必死に平静を装った。
「もちろんです」
ラファエル様は優しく微笑んだ。
「両親もアンナ嬢に会いたがっています」
私は俯いた。
テーブルの上の紅茶が小さく波紋を描いている。
彼のご両親は息子が男爵令嬢と親しくしていることをどう思っているのだろう。
ましてその令嬢が一時は奇妙な騒動の中心にいたことを知ったら。
「アンナ嬢?」
ラファエル様の心配そうな声に、私は顔を上げた。
「申し訳ありません。考え事をしていました」
「もしかして嫌でしたか?」
彼の表情が曇る。
「いえ、そんなことは」
私は慌てて首を振った。
「ただ、少し不安で」
正直に告白すると、ラファエル様は安堵の表情を浮かべた。
「大丈夫です。両親は偏見のない人たちですから」
彼は私の手をそっと取った。
温かい手のひらが、震えを静めてくれる。
「それに、私がアンナ嬢をどれほど大切に思っているか、きっと分かってくれます」
その言葉に、胸が熱くなった。
こんなにも真っ直ぐに想いを伝えてくれる人がいる。
それだけで、勇気が湧いてくる。
「分かりました」
私は深呼吸をして、微笑んだ。
「お会いさせていただきます」
◆
約束の日は、あっという間にやってきた。
モンターニュ子爵邸の前に立つと、急に自分の恰好が気になってくる。
何度も自分の服装を確認してしまう。
紺色のドレスは、派手すぎず地味すぎず。
髪も丁寧に結い上げている。
それでも不安は消えなかった。
「緊張していますか?」
隣でラファエル様が優しく尋ねる。
「正直なところ、とても」
私は苦笑した。
「手が震えています」
「私も緊張しています。正直その、両親は少し貴族らしからぬ部分があるので」
彼の冗談に、少し肩の力が抜けた。
門が開き、執事が恭しく頭を下げる。
「お待ちしておりました。どうぞお入りください」
広い廊下を歩きながら、私は必死に平常心を保とうとした。
応接間の扉の前で、執事が振り返った。
「奥様とご主人様がお待ちです」
扉が開かれると、暖炉の火が揺れる優雅な部屋が現れた。
そして、ソファに座る二人の姿。
◆
「はじめまして」
立ち上がった夫人の声は、予想外に温かかった。
ラファエル様と同じ栗色の髪を優雅に結い上げた女性は、柔らかな笑みを浮かべている。
「初めまして」
私は深く礼をした。
「リーベンシュタイン男爵家のアンナと申します」
「堅苦しい挨拶は結構ですよ。まあうちは貴族といってもさほど歴史もありませんし。元々は商人の家でしてね」
子爵が朗らかに言った。
銀髪に品格ある顔立ちの紳士だが、その表情は親しみやすい。
「どうぞ、おかけください」
ソファに腰を下ろすと、すぐに紅茶が運ばれてきた。
繊細な絵付けのカップから、良い香りが立ち上る。
「ラファエルから話は聞いています」
夫人が微笑みながら言った。
「東方文化にお詳しいとか」
私は少し驚いた。
てっきり身分のことを問われると思っていたのに。
「そうですね、心惹かれるものがありまして」
東方美術への理解は、前世の知識に拠る所が大きい。
この世界の東方は、かつて私が知っていた何かと重なる部分があるのだ。
青磁の釉薬の色合い、水墨画の筆致、詩に込められた情感──それらを見ると、懐かしさにも似た感覚が胸をよぎる。
「謙遜なさらないで」
ラファエル様が隣から口を挟んだ。
「アンナ嬢の東方美術の知識は、学院の教授も驚くほどです」
頬が熱くなる。
そんなに褒められるほどではないのに。
「それは素晴らしい」
子爵が身を乗り出した。
「実は我が家にも、東方から来た美術品がいくつかありましてね」
◆
会話が進むにつれ、私の緊張は少しずつ解けていった。
子爵夫妻は身分の違いなど気にする素振りも見せず、一人の人間として私に接してくれた。
話題は東方文化から始まり、学問、芸術、そして日常の些細な出来事まで広がっていく。
「あ、兄上」
ラファエル様が扉の方を見た。
そこには、ラファエル様より少し年上と思われる青年が立っていた。
「噂のアンナ嬢ですね」
彼は人懐っこい笑顔で近づいてきた。
「弟がいつも話していますよ。『アンナ嬢は本当に素晴らしい方なんだ』って」
「兄上!」
ラファエル様が慌てたように止めようとする。
私は思わず吹き出してしまった。
この温かい雰囲気に、すっかり心が和んでいる。
「私も時々、手紙に東方の詩を書き写したりするんです」
私は思い切って話し始めた。
「月や星を詠んだものが特に好きで」
不思議なことに、この世界の東方の詩は、前世で触れた漢詩の韻律とどこか似ている。
五言絶句や七言律詩のようなリズムが、翻訳されてもなお感じられるのだ。
「まあ、素敵」
夫人が目を輝かせた。
「私も詩は大好きなんですよ。今度ぜひ見せていただけませんか?」
会話は弾み、気がつけば一時間以上が過ぎていた。
最初の緊張が嘘のように、私は子爵家の家族と打ち解けていた。
◆
「素敵なお嬢さんね」
お茶会が一段落した時、夫人がラファエル様に微笑みかけた。
「大切になさい」
その言葉に、ラファエル様の頬が少し赤くなる。
「はい、母上」
彼の返事は、真摯そのものだった。
私も顔が熱くなるのを感じた。
まるで、家族として認められたような。
そんな温かい気持ちが胸に広がっていく。
「また遊びにいらしてください」
子爵が優しく言った。
「我が家の東方コレクションも、ぜひご覧いただきたい」
「ありがとうございます」
私は心から礼を言った。
◆
帰り道、ラファエル様と二人で月光の降り注ぐ通りを歩いていた。
モンターニュ邸を出てから、彼はずっと黙っている。
何か考え込んでいるような横顔に、私は少し不安になった。
「ラファエル様?」
声をかけると、彼は立ち止まった。
街灯の光が、彼の栗色の髪を照らしている。
「アンナ嬢」
振り返った彼の表情は、今まで見たことがないほど真剣だった。
「どうしました?」
私も立ち止まる。
彼は深呼吸をすると、真っ直ぐに私を見つめた。
「実は、今日両親に会ってもらったのには、理由があるんです」
心臓が跳ね上がった。
何か予感のようなものが、胸の奥で渦巻いている。
「私は、アンナ嬢のことが好きです」
静かな、でも確かな告白だった。
夜の空気が、一瞬止まったような気がした。
「最初は友人として接していました。でも、一緒に過ごすうちに、気持ちが変わっていって」
ラファエル様は言葉を続ける。
「古書店で東方の詩集を見つけた日、アンナ嬢と並んで詩を読んでいた時、確信したんです」
私は息をするのも忘れて、彼の言葉に耳を傾けていた。
「この人と、ずっと一緒にいたいと」
彼は一歩近づいた。
「アンナ嬢、私の気持ちを受け取ってもらえませんか?」
涙が頬を伝い始めた。
嬉しくて、信じられなくて、でも確かに幸せで。
「私も……」
震える声で答える。
「私も、ラファエル様のことが好きです」
月明かりの下で、ラファエル様の顔に安堵と喜びが広がった。
彼はそっと私の手を取り、優しく握りしめる。
「本当ですか?」
「はい」
私は涙を拭いながら頷いた。
「古書店での、あの時から」
二人で顔を見合わせて、小さく笑い合った。
これが本当の恋なのだと──心の底から、そう思えた瞬間だった。
そして、この幸せだけは前世であれこの世界であれ、どんな世界でも変わらない普遍的なものだと感じた。




