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愛の実証的研究 ~侯爵令息と伯爵令嬢の非科学的な結論~  作者: 埴輪庭


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18/23

18.「明日もきっと、素敵な一日になる」


数週間が過ぎた。


季節は晩秋から初冬へと移ろい、王都の街並みも少しずつ冬支度を始めている。学園への道のりで見かける街路樹もすっかり葉を落として寂しげな枝を空に伸ばしていた。でも私の足取りは、冬になっても軽いままだった。


ラファエル様との勉強会は今や私の日常に欠かせないものになっていた。最初は図書館で課題を教え合うだけだったけれど、最近では学園の外でも会うようになった。カフェで紅茶を飲みながら文学談義をしたり、王都の美術館で東方の美術品を鑑賞したり。そうして過ごす時間はとても心地よかった。心地よいと感じる自分に、以前ほど身構えなくなっていた。



その日の放課後、いつものように図書館で勉強していると、ラファエル様が嬉しそうな表情で声をかけてきた。


「アンナ嬢、今日はお時間ありますか?」


私は顔を上げた。彼の栗色の瞳がいつもより輝いている。


「はい、大丈夫ですけど」


「実は、王都の古書店で面白いものを見つけたんです」


ラファエル様は身を乗り出した。


「東方の文化に関する稀覯本があるらしくて。一緒に見に行きませんか?」


私は少し驚いた。学園の外で会うことは増えたけれど、二人きりで古書店というのは初めてだった。


「もちろん、喜んで」


私は微笑んだ。彼の誘いを断る理由なんてどこにもなかった。



王都の旧市街にあるその古書店は、まるで時間が止まったような場所だった。『月光書房』という看板が夕日を受けて金色に輝いている。扉を開けると、古い紙とインクの匂いが私たちを包み込んだ。


「いらっしゃいませ」


白髪の店主が読んでいた本から顔を上げて微笑んだ。


「ラファエル様、お待ちしておりました」


「こちらが話していたアンナ嬢です」


ラファエル様が私を紹介する。店主は優しく頷いた。お待ちしておりました、ということは前もって話が通してあったのだ。図書館での誘いが思いつきではなかったことを、私はそこで知った。


「東方の書物は奥の棚にございます。ごゆっくりどうぞ」


私たちは礼を言って店の奥へと進んだ。天井まで届く書架の間を歩いていると、まるで知識の迷宮に迷い込んだような気分になる。


「すごい品揃えですね」


私は感嘆の声を上げた。


「ここなら何時間でもいられそう」


「アンナ嬢もそう思われますか」


ラファエル様が嬉しそうに言った。


「私も初めて来た時、閉店時間まで居座ってしまって」


彼は照れたように頭を掻いた。そんな彼の姿がなんだか可愛らしく思えた。



東方の書物が並ぶ一角は異国情緒に満ちていた。見慣れない文字で書かれた背表紙が整然と並んでいる。


「これです」


ラファエル様が一冊の本を手に取った。


「『東方秘報録』の初版本。挿絵も美しいんですよ」


彼がページをめくると精緻な銅版画が現れた。異国の風景、珍しい動物、不思議な建築物。どれも見たことのない世界の断片だった。


「素敵……」


私は思わず呟いた。


「いつか、本当にこんな場所を見てみたいです」


「私も同じことを思いました」


ラファエル様が優しく微笑んだ。


「世界は広いんだなって」


私たちは並んで本を眺めながらゆっくりと書架の間を歩いた。時々立ち止まっては気になる本を手に取る。哲学書、歴史書、地理書……どれも興味深いものばかりだった。


「あ、これ見てください」


私は一冊の本を見つけた。


「東方の恋愛詩集みたいです」


革装丁の表紙には金箔で美しい文様が描かれていた。そっとページを開くと流麗な文字が並んでいる。幸い、隣に翻訳が付いていた。


「月を見上げる恋人たちの詩、ですか」


ラファエル様が隣から覗き込んだ。彼の肩が私の肩に軽く触れる。ドキッとしたけれど、離れることはできなかった。


「『月は知っている、恋人たちの秘密を。銀の光で照らしながら、永遠の誓いを見守る』」


私は詩を読み上げた。なんだか頬が熱くなってくる。


「ロマンチックですね」


ラファエル様の声がいつもより近い。彼の吐息が私の髪を微かに揺らした。


「東方の詩人は、月を恋愛の象徴として詠むことが多いんです」


彼は詩の解説を始めたけれど、私の耳にはあまり入ってこなかった。ただ彼の声の響きだけが心地よく響いている。ふと顔を上げると、ラファエル様も私を見つめていた。



その瞬間、二人の視線が合った。


栗色の瞳がまっすぐに私を見つめている。今まで何度も見てきたはずなのに、どうしてこんなに違って見えるのだろう。友人として過ごしてきた時間が急に違う色彩を帯び始めた。


心臓が早鐘を打つ。でもそれは恐怖からではなかった。何か優しくて、でも少し切ないようなものが胸の奥で渦巻いている。


「アンナ嬢……」


ラファエル様が私の名前を呼んだ。その声には今まで聞いたことのない響きが含まれていた。


私は詩集を胸に抱きしめた。何か言わなければと思うのに言葉が出てこない。ただこの瞬間がずっと続けばいいのにと願っていた。


「私……」


ラファエル様が何か言いかけた時、店の奥から店主の声がした。


「申し訳ございません、そろそろ閉店のお時間です」


魔法が解けたように、私たちははっと我に返った。慌てて一歩離れる。さっきまでの親密な空気が急に恥ずかしくなった。


「も、もうこんな時間でしたか」


ラファエル様も動揺しているようだった。


「詩集、お買い上げになりますか?」


私は手の中の本を見つめた。月と恋人たちの詩。今の私たちにはあまりにも意味深すぎる。


「いえ、今日は……」


そう言いかけた時、ラファエル様が口を開いた。


「私が買います」


彼は詩集を受け取るとレジへと向かった。私は呆然と彼の後ろ姿を見つめていた。



店を出るとすっかり日が暮れていた。街灯が灯り始め、王都の夜が始まろうとしている。


「送っていきます」


ラファエル様が静かに言った。


「もう遅いですから」


私は頷いた。二人で並んで歩き始める。さっきまでの気まずさはもう消えていた。代わりに何か新しい感情が芽生え始めている。


「あの詩集、どうして買われたんですか?」


私は思い切って尋ねた。ラファエル様は少し照れたように微笑んだ。


「いつか、一緒に読めたらいいなと思って」


その言葉に私の心臓がまた跳ねた。一緒に、という言葉の意味を考える。友人として? それとも……。


「私も、そう思います」


小さく呟いた言葉が夜の空気に溶けていく。ラファエル様は優しく微笑んで何も言わなかった。ただ二人の歩調が自然と合っていく。


月が昇り始めていた。詩集に詠まれていた、恋人たちを見守る月。私たちは何も言わずにゆっくりと歩き続けた。この道がもう少し長ければいいのに。そんなことを思いながら。



家の前に着いた時、ラファエル様は立ち止まった。


「今日は楽しかったです」


彼の声はいつもの穏やかさを取り戻していた。でも瞳の奥にはまだ、あの書店で見せた熱さが残っている。


「私も、とても楽しかったです」


別れたくない。でもまだその言葉を口にする勇気はなかった。


「また明日、図書館で」


ラファエル様が言った。


「はい、また明日」


私は微笑んだ。彼は一礼するとゆっくりと歩き去っていく。その後ろ姿を見送りながら私は胸に手を当てた。まだ心臓がいつもより速く鼓動している。これは一体どういう感情なのだろう。友情とは違う、もっと特別な何か。


部屋に戻ってから私は窓辺に立って月を見上げた。銀色の光が静かに世界を照らしている。月は知っているのだろうか。私の心に芽生え始めた、この感情の正体を。


明日、ラファエル様に会ったらどんな顔をすればいいのだろう。いつも通りに振る舞えるだろうか。それとも……。考えれば考えるほど胸が熱くなっていく。でも不思議と不安はなかった。むしろ明日が来るのが楽しみで仕方ない。


これが恋の始まりなのだとしたら。私は初めて、心から誰かを好きになれるのかもしれない。魔力や祝福とは関係のない、本当の気持ちで。祝福の残りが彼に効いているのだとしても、私の側の気持ちまでは祝福には作れない。そう思うことにした。


月明かりの中で私は小さく微笑んだ。明日もきっと、素敵な一日になる。そんな予感がしていた。


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