審判の時 その5
気が付くと私は、漆黒の海のど真ん中に身体1つでぷかりと浮いていた。
目の前に広がるのは魔界とは違う鮮血のように赤い空。
ここはどこで、私はどうなったのか? 記憶が混乱する。
確か私は、ルーヴァが発動させた神器の権能を受けて……。
そうだ、それで感情が暴走して……それから……。
そこから先はぷつりと途切れた様に何も思い出せない。
しばらくぼーっとしながら潮の流れに身を任せる。
ゆらゆらと漂っていると、急に波が高くなってきた。
周囲の状態が変わったことに気づいた時には遅かった。
私は海面に無数に存在する小さな渦の1つに捕らわれ、飲み込まれた。
水の中へ引きずり込まれた瞬間、心の中に私のお父さんとお母さんを殺したタイガへの憎しみが広がり出す。
せっかく無心になってゆられていたのに、思い出したくない事を思い出してしまった。
暗い渦の中で、私は胸の奥が痛くて苦しくて、自分の体を抱きしめる様に縮こまった。
水底へ向かって沈んでいくに連れて、憎しみが膨れ上がっていく。
嫌だ――!
纏わりつく暗い感情から逃れる様に、私は慌てて神力で流れを制御して浮上した。
海面に顔を出して喘ぐように酸素を取り込む。
「そのまま底まで沈んで消えちゃえばよかったのに」
聞き覚えのある声が頭上から響いた。
見上げると深紅の魔族の瞳を持った黒い私が、漆黒の翼を広げて空に浮いていた。
あの邪悪な笑みを湛えて――。
「あなたは……!」
動揺する私に対して、黒い私は自信に満ちた表情でこちらを見下ろして微笑んでいる。
「もしかしてあなたは知っているの? ここがどこなのか……」
「ここはあなたの心の世界だよ」
「私の……心の世界?」
一瞬、理解が追いつかなかった。
鮮血のように赤い空と、漆黒の海に無数の憎悪が渦を巻いているだけのこの世界が……?
地獄のように悍ましく、寂しいこの情景が私の心だっていうの?
「嘘だ! あなたは私を騙そうとしてるんだ!」
私は黒い私を睨みつけた。
「騙す? あはは! なんのために?」
「そんなの知らないよ! でも、そうなんでしょう?」
黒い私が余裕の笑みを浮かべる。
「ふふ。神器『神の一滴の涙』の権能ってさ、対象者の感情のタガを完全に外してしまう魔法なんだよね。この魔法を受けた者は本音を隠せなくなる。つまりこれはあなたの正直な気持ちが表れた結果なんだよ。この鮮血のような赤い空も、心を埋め尽くす深い憎しみの海も、全てはあなたの素直な感情が生みだしたものなんだ」
「これが……私の……本音だっていうの……?」
黒い私が甘い笑みを浮かべる。
「だって、殺したいほど憎いでしょう? お父さんとお母さんを殺したタイガ・ガルドノスを。その死の原因になった天魔戦争を引き起こして来た魔族達を」
ドクンと心臓が大きく跳ねた。
「違う……。殺したいだなんて……そんなこと思ってない!」
黒い私が冷めた目で私を見下ろす。
「いつまでそうやって自分の気持ちから目を逸らし続けるの? そんな無駄な事をしているのは、もうこの世界であなただけだよ?」
まるでこの心の世界で私だけが異分子だとでも言わんばかりに、黒い私が水平線をバックに両腕を大きく広げる。
「それともあなたはタイガを許せるの? 私のお父さんとお母さんを殺したタイガを!」
黒い私が怒りの表情で魔物の瞳を深紅に染める。
「死んでしまった人とは2度と会えないんだよ。私が望んでいた聞きたかった言葉も、穏やかな時間に交わす他愛のない会話すらも、本当の両親が生きていたら感じる事が出来たはずの細やかで小さな幸せすらも、もう叶わない! 私から大切なものを奪ったタイガをあなたは許せるっていうの!!」
「それ……は……」
答えに詰まった私は俯く以外できなかった。
黒い私は、私の中の苦しい部分を的確に言い当てていた。
「それとも事実をなかったことにして、嘘の笑みで誤魔化すつもり? お腹に黒い感情を抱いたまま、心を偽ってタイガといままでのような関係を続けるの?」
わざとらしい言い方だ。
黒い私は、そんなの無理だってことをわかって言っている。
そうだ……なかったことにして平然と振舞うなんて、私には出来ない。
他の事ならまだしも、これだけは無理だ!
だって、ずっと……ずっとずっと会いたかったんだもん。
物心ついたときから抱き続けてきたこの想いは、決して消せやしない。
誤魔化せない……!
「いい加減、素直になりなよ」
黒い私が沈黙を続ける私に冷笑する。
「だけど……だけどタイガだって……! もう私の大切な家族だよ……。殺すなんて……もう会えなくなるなんて、そんなの嫌だよ!」
これも偽りのない私の本当の気持ちだ。
殺したいほど憎んでいるのに、失いたくないほど愛している。
この矛盾した感情を、どう整理すればいいの?
黒い私がイラついた様子で顔をしかめる。
「あなたがそうやって意地を張るせいで、表のあなたが無意識の手加減をやめないじゃない」
「表の……私?」
私はハッとした。
そうだ。ここが心の中の世界なのだとしたら、現実の私は……?
「ふふふ。知りたいなら見せてあげる」
黒い私が濃密な魔力を集めて漆黒の杖を作り出すと、杖で空を指し示した。
異形のモノとは違う、天使と魔族が入り混じったような姿をした私が、七大魔王と戦っている映像が空いっぱいに写り込む。
「これは……!」
私は驚愕した。
私には幻影魔法が効かない。
だからこれは魔法じゃない。
「私が観ている外の世界をあなたと共有しているだけだよ」
共有……?
「どうしてそんな事ができるの……?」
「言ったでしょう? 私はあなただって」
黒い私はそう言って微笑むと空の映像を見上げた。
映像では怒り狂った私がタイガを杖で滅多打ちにしている。
「ほら。その気になれば極大魔法を撃ってすぐにでも殺せるのに、殺さない加減が出来る杖であえて殴ってる」
杖で打ち据えられるたびに巨獣化したタイガの超巨体が仰け反り、弾き飛ばされる。
裂けた皮膚から飛び散った血が雨となって降り注ぎ、タイガの躯体と魔界の大地を血に染めていく。
私には表の私が本気でタイガを殺そうとしているように見えた。
それなのにタイガは、反撃どころか防御すらしていない。
もしかして……私を傷つけないために?
胸が締め付けられる。
「やめて!!」
私は表の私に向かって叫んだ。
「無駄だよ。あなたの声は届かない」
「だったらどうしたら止められるの? あなたならその方法を知ってるんでしょう!? 教えてよ!!」
「嫌だよ」
「どうしてよ!」
苛立ちから私は海面を手で払いのけた。
黒い私が笑みを捨てる。
「決まってるじゃない。タイガを殺して、魔族を殺して、人の運命を弄ぶ神の箱庭、セオス・ジラディーノを跡形もなく消し去る事が、私のただ1つの望みだからだよ」
「……私はそんなこと望んでない。なのにどうしてあなたは、私だと言うあなたは、そんなにも世界を憎んでいるの?」
「ふふ。知りたい?」
不気味な笑みを浮かべた黒い私は、私の手の届く距離にまで降りてきた。
「いいよ。だったら教えてあげる」
黒い私が私のケープを掴んで顔を引き寄せると、魔族の瞳で私の目を覗き込む。
「あなたが覚えていない、沢山の凄惨な記憶を――!」
彼女の瞳が深紅の輝きを放った時、頭の中に私ではない私の記憶が流れ込んできた。
それは5歳だった頃の私の、100を越える死の記憶から始まった――。




