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酒場の親父は転生者  作者: 乱世の奸雄
酒場の親父は転生者 第一巻
2/51

とある親父の転職事情

 俺は、高校を卒業し、十八歳で就職してから築き上げたものを失ってしまったらしい。

 俺は改めてその事実を噛みしめると、暗澹たる気にさせられる。

現代の日本においては、新卒以外でまともな職に就ける可能性は限りなく低い。

 終身雇用は崩壊しつつあるものの、新卒以外での雇用状況は非正規雇用がほとんどで、長期の欠勤により会社を首になれば、今までのような正社員としての優遇された状況を得ることは絶望的である。

 仕事だけではない。もし万が一、奇跡が起きて結婚相手が見つかった場合に備えて貯めた、一千万を超える貯金も、部屋を彩る歴代の嫁たちの像や、新任提督として可愛がっていた艦艇の名を持つ娘たちをも失ってしまったのだ。

 それに、部屋に残されたパソコンの中身や数々のやばい蔵書の事がある。あれを他人に見られるのは正直避けたい。こんなことなら、一定期間部屋に戻らないと炎上する仕掛けをしておくのだった・・・・・・。

 ついつい習慣になった現実逃避から、無理矢理意識を現実へと覚醒させる。現実といっても、異世界召喚という冗談みたいな現実であるのだが。

 あの後、ヤンを問い詰めようとした俺だったが、長時間ほぼ立ちっぱなしの姿勢と空腹、話のショックもあって、ひどい顔色をしていたらしい。

 それを見たヤンの勧めで部屋を移動し食事の提供を受け、着替えも用意してもらった。

 移動したのはヤンが王宮内に与えられた私室で、召喚の儀式に使っていた地下室から人目を避けて移動したそこは、テレビで見たヨーロッパの宮殿や城ほど豪奢ではないが、床には木の板が張られ、壁には上品な壁紙が使われるなど、人間が生活しやすいようにとの配慮が感じられ、その事が多少ではあるが、精神の安定に役立った。

 食後の薬草茶ハーブティで、さらに一息ついた俺は、自分の置かれた状況を把握するべくヤンに尋問――質問ではない――を開始する。

 ヤンにしてみれば、得体の知れないニートに関する唯一の知識を持つ俺の協力が必要と考えたのだろう、聞かれたことは、前後の状況を含めて詳細に答えを返してくる。

 俺が取り乱さなかったことで――実態は、事実を受け入れられなかっただけだが――、事態打開への光明を見いだしたのかもしれない・・・・・・。

 さて、ヤンの説明によれば、俺を取り巻く状況はこんな感じらしい。

 まず元の世界に戻る方法についてだが、召喚は上位の次元世界から下位の次元世界へ呼び寄せるもので、落下に似た次元間エネルギーの流れを利用しているため、元の世界に送り返すことは出来ないということらしい――少なくともヤン達にはその手段がないようだ――。

 俺を召還したのは先ほどの美幼女で、この国の第三王女であるイルゼ・フォン・レーゼンハイムであり、イルゼの目的は『勇者召喚』を行うことで現状不利な王位継承争いにおいての立場を強化するためであったらしい。

だが、その他にも細々とした条件が付けくわえられており「超絶イケメン」「白馬の王子様」といったものや、「自分だけを愛してくれて、一生かしずいてくれて、毎朝『おはよう』のキスで起こしてくれるの」など、子供っぽく自分に都合の良い理想の相手を想像していたらしい。

 召喚された直後にイルゼが激怒していたのは「理想には程遠い俺の容姿にたいそう失望していた」から、らしい。失礼な話である。

 俺はどうも王位継承問題という血生臭い、面倒なものに巻き込まれてこの世界に呼び出されたらしい。歴史にも多少造詣のある俺としては、王位継承問題が血で血を洗う抗争と切っても切り離せないものという認識が強い。自分に関係の無いところでやるのは勝手だが、巻き込まれるのはまっぴらごめんである。

 しかし、起きつつある状況に目を背けるだけでは、思わぬ災禍に見舞われることもある。

 現状の把握は重要な問題であるため、ヤンから筆記用具を借りてメモしつつ整理をすることにする。ちなみに借りた筆記用具は羊皮紙っぽい紙に、鳥の羽ペンとインク壺だ。かなり書きにくい・・・・・・。

 なお、日本語で記入しているとヤンが興味深そうに眺めつつ「まるで呪文ですね」だと。本物の魔術師には言われたくない。

 さて、王位継承権争いの要点を纏めると次のようになる。

まず、この国には三人の王女がいる。

 第一王女のフレデリカ、第二王女のアデリーネ、第三王女のイルゼである。

 まず、第一王女のフレデリカだが、年齢は二三歳で第一位の王位継承権をもち、今は亡き前王妃の一人娘で、前王妃の実家が有力な公爵家であるため、生まれながらにして強力な後ろ盾バックボーンを持つ。さらに前王妃の遺言により、別の公爵家嫡男との婚姻が決まっており、将来はその夫との共同統治の形で国を治めると見られている。

 そのあまりにも強力な支持基盤故に、この国の貴族の殆どは彼女の傘下と言っても良い状況らしい。

 次に、第二王女のアデリーネだが、母親の身分がかなり低いらしく、早々に王位継承権を放棄して王都にはあまり寄り付かないらしい。正直、王宮では忘れられた存在だそうだ。

 そして最後に、この俺をこの世界に呼びつけた張本人である第三王女のイルゼだが、彼女は現王妃であるグレーテル王妃の一人娘である。

 このグレーテル王妃、王からの寵愛が大層厚く、王は彼女無しでは夜も日も開けないといった有様で、四六時中一緒に行動しているらしい。

 端から見れば、ただの仲睦まじい夫婦で済まされるのだが、現在の王位継承問題を深刻化させているのは、正にこの二人の関係が発端にあると言っても言いすぎでは無いだろう。

 このバカップル、もとい国王と現王妃が初めて出会ったのは、王宮の謁見室であり、しかもこともあろうにグレーテル王妃と、ある伯爵との結婚報告のために儲けられた謁見の場において、であった。

 グレーテル王妃は、ある地方の下級貴族の一人娘なのだが、それまでは全く社交界に名が知られておらず、そんな彼女が伯爵の花嫁として紹介されると、その可憐な美貌で王宮どころか王都中の話題をさらうこととなった。

 通常であれば、結婚する前に社交界デビューを果たし――社交界には結婚相手の物色を行う目的もある――ているはずだが、これほどの美貌でありながらデビューしていないことは奇妙な話であったため、様々な憶測が流されることとなる。

「どこかの町娘を伯爵が見初め、一旦下級貴族の養女としてから引き取った」との説が、前例の多さもあり最も支持されたらしいが、事実としては次のようになる。

 グレーテル王妃の実家である地方貴族の寄親であった伯爵が、たまたま招かれた屋敷で紹介された当時まだ十歳であったグレーテル王妃を見初め、その権力と財力を総動員して婚約を迫った。

 グレーテル王妃の実家は、当初はグレーテル王妃の年齢――本音を言えば遙かに年上の伯爵の年齢――を理由に断っていたが、寄親の要請を断り続けることは出来ず、十三歳の時にしぶしぶ婚約を認めることとなる。

 だが、グレーテル王妃自身はその婚約に納得しておらず、伯爵はさらに五年間掛けて辛抱強く彼女にアプローチを続けたらしい。並々ならぬ執着と言えるだろう。

 また、ライバルの出現を恐れた伯爵は、婚約を盾に彼女の社交界デビューを認めなかった。そして、八年たっても一向に諦める気配のない伯爵に対し、社交界デビューの道も断たれ、最終的にはグレーテル王妃が折れるしかなかったようである。

 そんな彼女の運命は、王宮で王と出会うことで急転直下を迎えることになる。

 つまりは、初々しい新妻となるはずであったグレーテル王妃に、王が横恋慕したのだ。呆れたことにそれ以来、王宮に留めて帰さず伯爵から無理矢理奪い取ったのである。

 当然、夫となるはずであった伯爵は猛抗議した。他の貴族達も巻き込み王の非道を声高に糾弾したのだが、前年に前王妃を亡くしていた王の側にも同情論があったことや、多くはないが似たような前例があったこともあり、同情論はあったものの王と事を構えるほどの力となることは無く、最後は発狂して失意の内に領地で亡くなったらしい。

 しかし、火種は残った。この伯爵に最も同情的であったのは、第一王女のフレデリカであったのだ。

彼女にしてみれば母を亡くした悲しみも癒えないうちに、しかも他人の妻となるはずの身でありながら「王を誘惑して王妃の座に納まった」としか思えなかったのであろう。

 また、多感な少女期の最中であった事もあり、父親の不義に対する拒否反応も激しかった。それ以来、父親とは距離を置くようになっただけでなく、後ろ盾である母方の実家である公爵家や、婚約者の実家である公爵家をはじめ多くの貴族達を派閥に取り込みまとめ上げるという政治手腕を発揮し、一大派閥を作り上げた。

 そしてその力を背景にして、最近は政治に介入しはじめ、派閥の代弁者として君臨している。その力はすでに、王に匹敵するとも言われる存在であるらしい。

 彼女は、グレーテル現王妃を蛇蝎のごとく嫌っており、王が亡くなり彼女が王位を継いだ後、現王妃をどのように処遇するかは「火を見るより明らか」と言われている。

 もちろん現王妃もそのことは承知しており、自身と娘のイルゼの身を守る為に、必死で巻き返し工作を行っており、貴族達は完全にフレデリカ王女に押さえられているが、王の権力を利用しつつ近衛騎士団や王国軍の取り込みを行っているほか、将来の利権を餌にして大商人達を引き込んでいるとの噂もある。

 また、第三王女のイルゼ自身が、幼くして魔術師の才能を発揮し始めたことを皮切りにして、在野の一大勢力であった魔術師協会を取り込むことにも成功している。

ちなみにヤンは、その魔術師協会から派遣されており、第三王女の家庭教師兼護衛役として仕えているとのことだ。

なお、ヤンは魔術師協会長の子息でもあり、協会長はその実力と野心から「グレーテル王妃の懐刀」と呼ばれる存在なので、この王位継承権問題に首までどっぷり浸かっているのだそうだ。

 そして、今現在の勢力差はというと、政治的な力では第一王女が圧倒しているほか、軍事力の面でも七対三の開きがあり、グレーテル王妃陣営は焦りを募らせているのが現状だ。

 目下のところグレーテル王妃陣営にとって幸いなのは、フレデリカ王女が確執有りとは言え王の排除までは考えておらず、正統性にこだわる潔癖なところのある彼女であれば、王位を継承するまでは武力等の非常手段を行使することは無いと見られていることだ。

 そんな情勢下で、どうやらイルゼ王女は母の助けとなるため、また、若干の自分の欲望のために『勇者召還』の儀式を強行したらしい。結果はコノザマなのであるが・・・・・・。

 そして、この俺の立場はと言うと、イルゼ王女の愚行――自身の陣営を強化するため、異世界から強力な存在を召喚するというのは言い換えれば戦闘準備行為にあたり、宣戦布告と取られても仕方が無い。その上、無能力というおまけもついた、二重の意味での愚行だ――の生きた証拠であり、ニートという王国を滅ぼしかねない謎の職業クラス持ちという設定の危険人物な訳である・・・・・・。

(あれ? これってかなりやばい立場なんじゃ・・・・・・)

 俺の胃は、あまりのストレスにキリキリと唸りを上げる。ここに来て、交渉を有利に運ぶためについた、ニートに関するハッタリが自分の首を絞め始めた事に気がつく。

 王位継承権争いの、しかも負けそうな陣営の、最大のウィークポイントになっている。

 いっその事、フレデリカ王女陣営に駆け込むことも考えてみたが――フレデリカ陣営にしてみれば王の崩御を待たずして政敵を葬り去る最高の材料になる――、成否が読み切れない上に用済みとなれば切り捨てられる可能性が高い。

 そのうえ、グレーテル王妃とイルゼ王女を毛嫌いしているらしいから、そのイルゼが召喚したと言うだけで嫌忌されかねない。

「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」なんて諺も、俺の国にはあるのである。

 例え処分を免れたとしても、俺を保護しておく理由等何も無く、縁もゆかりもない異世界に単身放り出されたあげく、途方に暮れる羽目になるだろう。

そうなれば、のたれ死んでいる自分の姿が目に浮かぶようである・・・・・・。

 それに「恩も義理もないが――恨みさえあるが――、人を密告して売るようなことはしたくない」というのもあった。単に「性に合わない」と言う理由である。

 以上の理由からこの案はすぐに却下し、すでに俺の頭にはない。何より俺自身のメリットが何もないのだ。

 さて一方のグレーテル王妃陣営だが、本当なら今すぐにでも始末したいのが本音では無かろうか。

(ニートの話が保険になるとは思うが、いざとなればどう転ぶか解ったものじゃない。すぐにでもここから逃げ出すべきだが、縁もゆかりもないこの異世界で、無計画に行動したところでのたれ死ぬ運命にしか思えない)

 俺は必死になってこの状況を打破する道を探すべく、頭をひねる。座していても死が待つだけだ・・・・・・。

 俺はない知恵を絞り、いくつかの方策を立てる。失ったものを少しでも 取り戻し、この世界で生きるための策だ。

「ヤン殿、あなたに準備していただきたいものと、協力していただきたい事があります」

 俺は、冷えかけの薬草茶ハーブティが入ったカップをテーブルの上の受け皿に戻すと、おもむろに話を切り出した。

「まず、準備していただきたいのは路銀と当面の生活費です。お恥ずかしい話ですが、着の身着のままに召喚されてしまいましたので、まったく持ち合わせがありません。状況を考えるに、私は出来るだけ早くこの王宮、さらには王都を離れた方が、あなた方にご迷惑をおかけしないでしょう」

 ヤンは、若干驚いた表情で俺を見る。そして、俺の意図を理解し問題解決の糸口を見出したのだろう、若干顔色を戻した顔でうなずく。

「また、協力していただきたい事とは、就職先の斡旋です。実はニートのことなのですが、私はこの世界に来るまでニートではなかったはずなのです。多分、この世界に移動した際、元の職を失ってしまったので、ニートとなる因子が発動してしまったのでしょう。ですからそれを、再度別の職業に就くことでさらに上書きすれば、必ずやニート因子を押さえることが出来ると思うのです」

 俺の真剣な口調に、ヤンもなるほどと頷いている。

「ニートは、長く特定の就職につかないと、やがて『引きこもり』という状態に変化します。そうなると人付き合いをしなくなり、周りには攻撃的に振る舞って自衛しようとします。特に人付き合いが無くなると発症するのが早く、こうなると完治するのは容易ではありません。ですから、なるべく早く就職すべきなのです」

 俺の話を聞き終えたヤンは、しばらくの間考え込んだ。

 俺の案は当座の資金を確保するとともに、この世界で速やかに確固たる基盤を整えるためのものだ。また、すぐにでも俺を厄介払いしたいであろう、グレーテル王妃陣営との利害も一致する。距離を置く話や、生活費の要求は遠回しにフレデリカ王女側に駆け込む気は無いという意思表示だ。これだけの好条件

断る理由は無い・・・・・・、はずだ。

「解りました。すぐに路銀と当面の生活費、あと就職のための紹介状の用意をします」

 ヤンは、俺の要求を実現するための方策を考えて、どうやら可能と判断したらしい。なんとか第一関門は突破と言ったところか。

 気がつくと、外は夕刻となっていた。異世界に来て半日が経過したことになる。正直疲れた。精神的にも肉体的にも限界が近い。

 ヤンもそのあたりを察したらしく、一旦話の打ち切りを告げると食事の手配をするため、王宮内に与えられた私室を出て行く。どうやら人払いをしていたらしく、自分で動く必要があるらしい。俺の正体を隠しておきたいだろうから、賢明な判断と言える。

(とりあえずは、異世界で生きていくための最低限の下地は確保できただろうか・・・・・・)

 ヤンを見送りつつ、俺は交渉の結果を振り返る。正直に言えば、失ったものには比べるべくも無い。

(最悪、始末される恐れすらあったからな、それを回避出来ただけでも運が良かった)

 そう思って、無理矢理自分を納得させる。

 失ったものをいくら嘆いたとしても、取り返すことは出来ない。それは元の世界であったとて同じことである。

 だから前向きに、ポジティブさを失わないで生きていく。その生き方を守る方がよっぽど大切だと思うからだ。

 それにこの世界には、一つだけ元の世界には無いポジティブな要素がある。もちろん『魔法』の存在だ。

 実際に見て確認しただけでも、言語理解――会話――とステータス表示を行う魔法の二つを確認している。

 特に言語理解――会話――の魔法についてヤンに確認したところ、色々と驚異的な魔法である事が解った。

 まず、会話をする能力を持つ生物に対して、こちらの世界の言語を強制的に理解させ、会話を成立させることが出来る。また、効果時間については半永久的に効く。というか、魔法の影響下で言語を行使している間に習得まで行ってしまうそうだ。

 なお、先ほど俺が激しい痛みに襲われたのは、俺の母国語である日本語と異世界言語があまりにもかけ離れていたために、言語間の翻訳を行う際の脳への負担が大きかったのではないかとのことである。

 しかしそれにしても凄すぎる、まさに魔法という感じだ。

(出来れば俺も使えるようになりたい)

 そう漠然と思う。

 だが、何よりまずは生活基盤の確立が先だ。それなくしては生きていけないのだから。

 正直、俺は安定志向がもの凄く強い。いっそ異常なほどと言っていいだろう。

 だから、それがどんなに興味があることでも、恋い焦がれていても、無謀な冒険に挑むことはしないと自分で解っていた。

(魔法は趣味でいいんじゃないか?)

 そんな大胆な考えが浮かぶ。

 この世界には、ゲームや漫画はないだろうが、その代わりが魔法と思えばこの世界もそれほど悪くない気がしてくるから不思議だ。

 実を言えば、勇者は無理でも冒険者くらいならやれるんじゃないかとの淡い期待もあったのだが、ヤンに確認したところ、俺の身体的なステータスは異常なくらい低いらしい。特殊なスキル等もなく冒険者のような荒事は難しいと言われた。まあそんな気がしていたが・・・・・・。

 しかし、町の中でやる仕事なら出来ることもあるだろう。その方が、安定志向の強い自分の性格にも合っている。それに、異世界に来たからと言って、これまでの知識と経験全てが無くなったわけではない。

 この世界において、俺だけしか知らないことがあれば「そのアドバンテージは計り知れないものとなるだろう」とラノベ知識が言っている。それらをうまく使うことが出来れば、元の世界より成功する可能性だってある。持ち前の楽観的ポジティブシンキングを発揮し、前向きに考えることにしよう。

 俺は勢いよくソファーから立ち上がると、大きくのびをして堅くなった体をほぐした。

 気がつけば、外はすっかり暗くなっており、壁の燭台に掛けられた蝋燭の明かりが頼りなく揺れている。正直そんなものですら、現代社会に生きてきた俺の目には物珍しく映る。

 興味深げに、部屋のあちこちを見て回っていると、ヤンが大きな荷物を抱えて戻ってきた。

 重そうなそれを部屋の隅に置くと、再度部屋を出てからカートを押して戻ってくる。カートには、様々な料理がのせられていた。

 メニューとしては、レタスに似た野菜や白いアスパラガスのような野菜などのサラダ、薄いコンソメのようなスープ、鳥肉の香草焼き、魚とカブの煮物、歯ごたえのある黒パン等、元の世界と比べても豪華と言えるメニューだ。流石は王宮の食事だが、逆に言えばこの世界の最高水準であるかもしれないわけだ。

 ヤンを手伝ってテーブルにそれらの料理を並べると、早速食べ始める。正直男と向かい合わせで飯を食っても楽しくはない。

 だが、少しでもこの世界の知識を仕入れたい俺としては、矢継ぎ早の質問に対し的確な反応を見せるヤンは、得難い存在となっていた。流石は王女殿下の家庭教師を任されているだけはある。

 出来れば数日の時間が欲しいぐらいであったが、俺の存在がどこから漏洩するとも限らない。ヤンとも相談して、明日の早朝には王宮を出ることに決まる。

「その荷物は、この世界の旅に必要なものがたいてい揃っています。冒険者の必需品と思っていただければ解りますでしょうか?」

 俺はその言葉に、何となく察しが付くと回答する。

「旅行用の服装と装備、それにお渡しする路銀と当面の生活費については明日の朝お渡しします。こちらはご迷惑をおかけしたお詫びもかねて、なるべく多めにご用意させていただく予定です」

 その言葉に正直少し安堵する。勝手のわからない世界で、手持ちの資金は多い方が良いに決まっている。

「それから、就職先の件についてなのですが、なんの職業がご用意できるかは解りません。といいますのも、ご紹介する先は王都から七日間ほどの距離にある、さる領主様が治めている街になりまして、その領主様から斡旋していただく形になるからです」

 ヤンは一旦言葉を切り、こちらの反応を伺う様子を見せる。俺としては、今のところ問題を感じていないため、先を促す。

「問題はないと思いますが、もし万が一不都合な事態が発生した場合は、その町の手前にある大きな町に魔術師協会がありますからそこを訪ねて下さい。話を通しておきます」

 ヤンは、体の前で両手を組み、親指をせわしなくクルクルと回転させながら、首をかしげて何か言い残したことはないだろうかと思案する様子を見せる。

 俺の方は、食後の薬草茶ハーブティを味わいつつ、香りを立たせるため時折カップの中身をクルクル回す。薬草茶ハーブティなどファミレスのカモミール位しか飲んだことがないので中身の良し悪しなどわからないが、癖がなく香りが爽やかで気分が落ち着く気がする。

 その気分に後押しされるように、俺は提案を切り出した。

「いくつか取り決めをしておきたい」

「といいますと?」

「今後の、お互いの関わり合いについてです。」

 俺はカップをゆっくりとテーブルに戻して、ヤンの目を正面から見つめる。出会いの印象が最悪だったため、一時は抹殺してやろうかと思ったぐらいだが、今日一日話しあう中で、お互いの間に奇妙な連帯感が生まれてきている。少なくともある程度信用してもよいと、考えている自分がいる。

 ここで関係を完全に絶つつもりでいたが、考えてみるとそれも危険な気がする。意思の疎通がなければ、人は容易く疑心暗鬼に囚われるものだ。

「もちろん私が落ち着いてからの話にはなりますが、お互いの関係が知られるのは何かと不都合があるでしょうし、出来るだけ早急に関係を断った方がいい」

「ええ・・・・・・、そうでしょうね」

「しかし、不測の事態というものは常に想定しておく必要があると思うのです。私の国の言葉では『備えあれば憂いなし』と申すのですが、その『備え』 をしておきたいのです」

「なるほど」

「お互いにどうしても連絡を取りたくなった時、お互いが判る合言葉を決めておき、それで連絡し合うというのはどうでしょうか?」

 俺は言葉を切り、相手の反応をうかがった。正直言って断られる可能性もあると考えていたのだが、結果は予想以上の好反応だった。

「ええ、是非お願いします。私も似たようなことを考えていたのですが、言い出していただけるとは有り難いぐらいです」

「そうですか、ありがとうございます。では合言葉ですが、こちらからは 『神風』 よりと連絡しますので、連絡が可能である場合のみ回答には 『トラトラトラ』と入れて回答してください。」

 俺は羊用紙の端っこに日本語で『神風』と漢字で書き『トラトラトラ』と片仮名を書く。日本語にすることで、一応暗号代わりのつもりだ。相手からの返信には書きやすい片仮名を選ぶ。

「そちらから連絡する場合は『ヒョウタン』より、と書いて下さい、回答には 『駒』 と入れて返事をします」

 俺は先ほどの羊用紙の下に片仮名で 『ヒョウタン』と書き、漢字で『駒』と書き、ヤンに手渡す。

 ヤンはその文字をじっくりと眺めた後、懐に仕舞い込んだ。

 やるべきことは終えたと思えたので、大きく椅子にもたれかかり思い切り息を吐く。ヤンも同じ気持ちだったのだろう。しばらく弛緩した時が流れる。

 だがこれが若さだろうか、ヤンの方が先に立ち直ると椅子から立ち上がり扉へ向かう。

「奥の扉が寝室に繋がっています。私の寝台ですが寝具は変えてありますので、今日はお疲れでしょうからここでこのままお休みください」

 そう言うと、一礼して部屋を出て行った。

 そう言われてみると、隠しようのない疲労感に全身が覆われている。極端な環境変化に続き、タフな交渉の連続だったと振り返る。

 これまでの人生を振り返ってみても、これほど濃密な時間は思い当たらなかった。

「お言葉に甘えさせてもらおう」

 俺は素直に寝室に向かい、天蓋付の豪奢なベッドにやや顔をひきつらせながら、それでも寝具に潜り込むと途端に意識を失い深い眠りに落ちたのだった。


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