6-2:物語の欠片
三嶋の指先は、すでに自分の意思を離れていた。
彼はコンロの火を消すこともなく、ただ茫然と、本の厚みの終わりを探した。ページをめくるたび、そこには自身の人生が書かれていた。
幼少期の傷、成長の喜び、そしてこの怪異に巻き込まれてからの焦燥。それら全てが、精緻な言語体系によって綴られていた。
読めば読むほど、三嶋は自身の存在が薄れていくのを感じた。
いや、正確には物語の中に閉じ込められていくという感覚だった。
ついに、指先が最後の硬質な厚紙に触れた。
そこには、これまで見てきたような幾何学模様の羅列はなかった。
ただ一行だけ、記号が刻まれていた。
ʃ̇ɰ̄ʔ̦ɬ̥ʑ̥ɤ̽
それは、この本という宇宙の中心を示す名前だった。
三嶋は震える指で、その記号をなぞった。読み方など分からないはずなのに、彼の脳は直感的にその音を理解した。
『ʃ̇ɰ̄ʔ̦ɬ̥ʑ̥ɤ̽(ミシマ)』
その文字を目にした瞬間、三嶋の視界が反転した。
ページに記された自分の名前は、今書かれたものではなかった。
この本が編纂された遥か昔から、あるいはこの宇宙が始まる前から、そこに存在していたかのように、ページの一部として深く定着していた。
三嶋は戦慄した。自分がこの本の読者だと思っていたのは、傲慢な誤解だった。
自分は、この本の余白を埋めるために召喚されたキャラクターに過ぎない。
最初から、この本という物語を完成させるためのピースとして、そこに自分の名前が書き込まれていたのだ。
――三嶋は地下室で本を見つける。
――三嶋は焼却炉へ走る。
――三嶋は絶望し、そして今、ここで本を抱きしめる。
彼がこれまで体験した恐怖、絶望、そして今この瞬間の諦念すらも、すべては数千年前から準備されていた脚本の一部だった。
三嶋の人生は、彼自身が自由意志で歩んできた道ではなかった。ただ、この本の行間を埋めるための、インクの配列に過ぎなかった。
彼は自分の人生を読み返しているのではない。
本が、彼の人生を再生し、彼にそれを追体験させているだけなのだ。
自分が物語を書いているのではない。物語が、三嶋という肉体を使って、自らを書き進めているのだ。
三嶋は、自分が人間という存在だと思っていた概念そのものが、巨大な誤解だったと悟る。
彼は最初から、本という生命体の、単なる1行の記述に過ぎなかった。




