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第6章:終幕 ―永劫回帰の書  作者: 都桜ゆう


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6-1:捧げられた記憶

 三嶋の部屋は、どこか奇妙な静寂に包まれていた。


 窓の外では初夏の陽光がアスファルトを白く焼き、セミの鳴き声が遠くで響いている。


 しかし、この部屋の四壁の間だけは、まるで時間の流れが真空パックされたかのように淀んでいた。


 三嶋は、先ほどまでベッドの上で抱きしめていた黒い本を、再び両手でしっかりと保持していた。


 先ほどまでの逃走劇、大学の焼却炉、駅の便所、自動販売機――それら全ての断片的な悪夢が、今や遠い過去の出来事のように感じられる。


 彼の手にあるのは、ただ1冊の、ずっしりと重い質量を持った本だけだ。


「……まだ、終わっていない」


 三嶋は低く、自分でも驚くほど落ち着いた声で呟いた。


 意識の端で自分という個の輪郭が薄らいでいくのを感じながら、それを押し留めるように、彼は再び本を焼き捨てるという衝動に突き動かされていた。


 迷うことなくキッチンへ向かい、ガスコンロのつまみを回して青白い炎を立ち上げる。三嶋はその中心へ、容赦なく本の表紙をかざした。


 普通ならば瞬く間に紙が焦げ、表紙の革が丸まり、不快な悪臭とともに燃え広がるはずの状況だ。


 だが、不思議なことに炎の先は本のページに触れた瞬間、目に見えない障壁に阻まれるかのように、周囲へと弾き飛ばされてしまった。


 本は燃えない。それどころか、炎の熱を啜り取るようにして、その漆黒の表紙をより鮮明に際立たせていく。


 三嶋は絶望というより、底知れぬ好奇心に突き動かされるように、さらに本を炎の奥へと押し込んだ。


 すると今度は、乾いた土が水を吸い込むかのように、コンロの青い炎がページの中へと次々に飲み込まれ始めた。


 シュルシュルと、紙を高速でめくるような乾いた音が部屋に響く。


 同時に、三嶋の脳髄が激しく揺さぶられた。


 炎が吸い込まれるたび、彼自身の脳内にあった記憶の断片が、炎と共に本の中へとごっそりと引き抜かれていく感触があったのだ。



 ――初めて一人暮らしをした日の不安。窓の隙間から入り込む夜風の冷たさ。


 ――大学の事務室で、初めて白井と交わした挨拶の緊張。名札のプラスチックが指に当たった感触。


 ――学生時代に、雨の日に食べた定食の味。味噌汁の湯気と、湿った衣服の匂い。


 そうしたささやかな記憶が、炎と共に本のページの中へと移ろっていく。


 ページがめくられるたびに、三嶋の心から一つずつ、色と輪郭が失われていく。


 彼は自分が誰であるか、なぜ今コンロの前に立っているのか、その理由を炎に捧げることで失いつつあった。


 記憶とは、本来ならば自分が所有し、守るべき個人の聖域であるはずだった。


 しかし、この瞬間、その聖域は無惨にも踏み荒らされていた。


 本にとって、彼の記憶はただの燃料に過ぎない。


 ページを埋め尽くす文字の羅列を完成させるため、三嶋の人生という名の物語が、一方的に吸い上げられ、都合よく文脈として組み替えられているのだ。


 三嶋の人生が、1ページずつ本のインクとなって定着していく。


 彼の人生が空っぽになる。


 それは、死よりも静かで、死よりも深い、自己の消失だった。


 三嶋が悲しみのあまり泣こうとしても、その涙を流すための悲しみという感情さえもが、今や本の文字へと還元され、ページの上で冷徹な言葉へと姿を変えていく。


 三嶋という人間は内側から空洞になり、本を燃やそうと手を動かすだけの、プログラムされた人形のような反復動作を繰り返す器と化していた。


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