#002 ベレトの塔 2
花鬱とゴードロックの二人は、巨大な昆虫との戦いに苦しんでいた。
大きなカマキリだった。
飛び跳ねながら、距離を置いて、二人を襲撃する。
鉤爪の付いた脚と、獰猛な顎、それらが巨大な洞窟の中で犇めいていた。
更に、鎧を纏った獣の頭の怪物達も襲ってくる。
一体一体は大した事が無くても、連戦でかなりの苦戦を強いられていた。
「畜生がっ! このままでは弾切れ必須。花鬱、引くかっ!」
「仕方ないわねぇ。このままじゃ、あたし達、ジリ貧だからねぇ」
†
ミキシングは、……哀れな大男は、寝台の上に縛り付けられていた。
両手両足が動かせない。
鎖で繋がれているのだ。
ベレトは美しい顔で、彼を眺めていた。
「今からお前を飾りにしようと思うんだ」
大男は、口を塞がれていた。罵声も悲鳴も上げられない。仲間達への助けも求められない。
そこは、手術室のように、様々な器具が置かれていた。ただ、……麻酔は無さそうだった。
ベレトは壁に掛けられていたナイフを取り出す。
動物の骨で作られているものだろう。
それを、大男の眼球へと近付けてくる。
ベレトの両眼は嬉々としていた。
「お前はムダな肉が多いな。削いでスリムにしてやろう」
ナイフは、深く潜り込んでいく。
†
影は何処かに導いてくれているみたいだった。
洞窟の奥へ、奥へと向かっていく。
途中、階段を下る事になる。少しだけ長い階段だった。
地底湖が見えた。
潮の匂いがする。きっと、この湖は海へと繋がっているのだろう。
この人物には、きっと何かの思惑があるのだろう。だが、カナリーはよく分からなかった。
カナリーは既視感に襲われる。
少女趣味の部屋。絵本や、ヌイグルミが散りばめられた部屋だ。かつての自分の部屋。その場所を思い出す。もう全て焼けてしまった場所。失われた世界。
その色彩が、映像が、現実では無い事に気付く。
まったく違う場所に、今、佇んでいた。
少女趣味の部屋では無い。
そこは、骨董品の置かれた部屋のようだった。
彼女は、揺り籠のような椅子に座って本を読んでいた。
「お前はどうやら特別な存在みたいだな」
彼女は言う。青く、くすんだニットの服に、色褪せた元は黄色であったのであろうマフラーを首に巻いている。灰色の汚いズボンに、茶のブーツを穿いていた。
ギィ、ギィと、彼女は椅子を揺らしていた。
「その木の籠の事を教えてくれないか? 鳥篭みたいだが、何を入れていたんだ?」
彼女の瞳は、カナリーの瞳を見つめ、心の底の深淵を覗き込んでくるかのようだった。
とてつもない怖気が、カナリーを襲った。この女は邪悪と呪詛、そのものを体現している存在ではないのだろうか。そうとしか思えなかった。
そう言えば、メビウスと会った時も、こんな感覚だったような気がする。色々な人間に出会ってきて、人に興味はあるのだけど、決定的に人間を理解出来ないといったような顔だ。
「この場所はベレトの趣味なんだそうだ。奴も可愛らしい一面も持っている。そう思わないか? とても良い趣味をしている」
本棚には魔術書のようなものが並んでいた。別の棚には宝石で柄を加工したナイフが飾られていた。天井からは牛の骨が吊り下げられている。床には虎か何かの毛皮が敷かれている。
窓があり、そこから光が漏れ出している。窓の外は蒼だ。海が広がっているのだ。海鳥が空を羽ばたいていた。
部屋は絶妙な具合に、闇に包まれていた。
青と黒のコントラストだ。
「お前の名を聞かせてくれないか?」
「カナリーです……。貴方は……?」
「デス・ウィング。もっとも、他の色々な名前や偽名を使う時もあるがな」
彼女はゆったりと、椅子にもたれながら、本をめくっていた。
「音楽があれば良かったんだが、何しろ、彼は音楽を聴かないらしい。好事家としては駄目だな。レコードでも置いてあれば、より良いんだが」
「貴方は…………、ベレトと…………」
「そうだな、友人だよ」
カナリーは息を飲む。
自分達は、ベレトを倒しに此処に来たのだ。
「私はお前だけには、興味があった。他の面子はどうでも良かったんだけどな」
デス・ウィングと名乗った女は、本を閉じる。
そして、棚の中に本を戻す。
何かを考え込んでいるみたいだった。
「カナリー、初めて会う者同士の話題では無いかもしれないが、人間は何故、生きているのだろうと感じた事は無いか? 私はお前の物語を知りたいんだ。どのように生き、どのような価値を信じて、何を夢見ているのかをな」
彼女はカナリーの瞳を覗き込んでくる。
メビウスの面接を思い出す。少し前の事だ。あれから何日も経っていない。けれども、とても長い時間が経過しているように思えた。
メビウスは光を感じた。というよりも、今、思い出すと、善なるものに触れているような感覚だった。
けれども、眼の前にいる相手から、ひらすらに湧き上がってくるのは、禍々しい悪なるものだ。それを巧く言葉に出来なくて、カナリーはもどかしい気持ちになる。ただ、とても息苦しかった。
「私に興味があるのですか……。私なんて何も……」
「それは違うだろう? お前は何かを封じているみたいだがな」
ぞわりっ、と、悪寒がする。
デス・ウィングは、気付けば、カナリーの背後に立っていた。
一瞬の事だった。
「着いてこないか? この先にある通路から、浜辺へと通じている場所があるんだ」
何か、自分の心の黒へと、その場所は繋がっているかのようだ。
潮の匂いが強くなっていく。
途中、炎が揺れる燭台があった。カナリーは震える。
「火が怖いのか?」
カナリーは頷く。
安らかな声だった。まるで、過去の記憶を全て吐露してしまいたいような気分だ。
「理由があるなら、話してみないか?」
彼女はとても、楽しげだった。
「幼い頃、家を焼かれたんです。怪物に。私の父と母は、焼き殺されました。私も両脚に大きな火傷を負いました……、それ以来…………」
思い出したくない……、眼の前の存在は、カナリーの心の傷を、容赦なく覗き込もうとしているみたいだ。
「その木の鳥篭はなんなのかな?」
「形見みたいなものなんです」
「成る程」
風が吹き抜ける。カナリーは瞼を閉じる。
また、一瞬の出来事だった。
デス・ウィングが、カナリーの鳥篭を奪っていた。
「少し見させてくれ。どんな素材なんだろうな? 何の木だ? 何が詰まっている?」
強い好奇心が、その瞳には灯っていた。
「やめて……」
カナリーは、取り返そうと、迫る。
「冗談だよ」
デス・ウィングは、悪戯っぽく笑う。そして、鳥篭を返してくれた。
「訊ねるが、お前は復讐したいか?」
「何にでしょうか……」
「お前の両親を殺した奴らにだよ」
カナリーは胸が高鳴る。
「大きな……、カメレオンの怪物でした。炎を吐くんです。それ以来、私はトカゲや、炎が怖いんです。特に炎は駄目です。…………」
復讐は……、考えた事は無かった。成人した時に再び来る。あの言葉がとても怖かった。
「お前は復讐心よりも、恐怖心が勝っている、って顔だな。違うか? まあいい。それよりも、お前も力を持つ者なのだろう? 一つ、私に見せて貰えないか?」
デス・ウィングは、燭台を手にする。
炎が揺らめいている。
カナリーは、動悸が激しくなる。
「見せないと、お前の鳥篭を壊すぞ?」
周辺を、風が吹き荒れていく。
それは、少しずつ、暴風へと変わっていく。やがて、カナリーの周辺で、小さな風の渦が生まれていく。
彼女は、オイルを地面に垂らしていく。何処かに隠し持っていたのだろう。彼女は燭台を落とす。暗い洞窟の中に、炎が広がっていく。
「止めて、止めて、やめっ……っ!」
風が吹き荒れる。
炎はいつの間にか、カナリーを囲んでいた。
カナリーは、鳥篭を握り締める。
すると…………。
一帯が、竜巻によって、覆われていく。
炎が吹き飛ばされていく。
そして、……篭の中から、ねじれた奇怪な腕達が現れていた。次に起こったのは、篭の中から、魚達が現れて、空中を浮遊しながら、洞窟の壁を喰い破り始める。
炎は消えていた。
カナリーは地面にへたり込む。
「あ、あ、一体…………っ。…………」
「成る程。最初の竜巻、あれは私の力だな。次は何だ? その篭には一体、何が封じられている?」
魚達は洞窟の壁を喰い続けていた。
「あれは、あれは、私が十六の頃に出会った、怖い殺し屋の力……っ! 何? 何が起きているの? 分からない…………」
「成る程」
デス・ウィングは、とても楽しそうな顔をしていた。
「その篭は興味深いな。お前のトラウマを具現化しているのか、それとも、お前が受けた力を封じ込めているのか」
物欲しそうな声で、デス・ウィングは、鳥篭を見つめていた。
「いずれにしても、お前を此処に使わせた奴が、お前に価値を見出すのは分かったような気がする」
きっと、こいつは、メビウスの事を知っているのではないか……。
そのような気がした。
†