表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

8/58

疾走する幼馴染の涙と、泥濘に足を取られた僕の境界線

10月の風は、火照った自意識を冷やすには少しばかり鋭すぎる。

放課後の誰もいない渡り廊下で、僕は立ち尽くしていた。

目の前で、和久井檸檬が泣いていたからだ。


あの、太陽をそのまま形にしたような、無敵のスポーツ少女が。

日焼けした頬を涙で濡らし、今にも壊れてしまいそうな表情で僕を見つめている。


「……ねえ、和彦。どうしてかな。ずっと一緒だと思ってたのに、私だけが、みんなと違う場所にいる気がするんだ」


彼女の絞り出すような声が、コンクリートの壁に跳ね返って僕の耳に突き刺さる。

和久井檸檬。

彼女の家で起きた問題――両親の不仲と、それに伴う引っ越しの可能性。

17年間、この「幼馴染」というぬるま湯に浸かってきた僕たちにとって、それは世界が根底から覆るような大事件だった。


「和久井。君はどこにも行かないだろ。僕たちが、そんなの許すはずがない」


「……和彦は優しいね。でも、その優しさが一番キツいんだよ。だって、和彦が私を見てるのは、『幼馴染』だからでしょ?」


檸檬が、一歩詰め寄ってきた。

彼女の瞳には、湿った熱が宿っている。

羽賀杏菜の直球とも、一ノ瀬佳樹の独占欲とも違う、これはもっと根源的な、誰にも自分の場所を譲りたくないという飢餓感に近い。


「私、テニスの試合に勝ったら、わがまま聞いてって言ったよね。……あのさ、私、本当は試合なんてどうでもよかったんだ。ただ、和彦に私だけを見てほしかった。杏菜たちみたいに、器用に立ち回れないから……」


彼女はそこまで言うと、顔を伏せて激しく肩を揺らした。

やれやれ。

僕はただの背景役なんだ。

こういう時、気の利いた台詞を吐いてヒロインの涙を拭うのは、僕の担当じゃないはずだろ。

それなのに、僕の足は勝手に動いて、彼女の震える肩を抱き寄せていた。


「……バカだな、君は。1メートル以内に常駐してる奴を、見てないわけないだろ。僕の視界の3割は、だいたい君の派手な動きで占領されてるんだから」


「……何それ。ひどい言い草」


檸檬は僕の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で笑った。

けれど、その腕は僕の背中に回され、折れそうなほど強く締め付けられる。

制服越しに伝わる彼女の体温と、かすかな汗の匂い。

これが、僕が知っているようで知らなかった、和久井檸檬という一人の「女の子」の重みだ。


「……和彦。私、どこにも行きたくない。ずっと、和彦の隣で、こうして笑ってたいよ」


「……ああ。そうすればいい。僕が、全力で現状維持をサポートしてやる」


現状維持。

それは僕にとって、最も心地よい言葉のはずだった。

けれど、こうして彼女の涙に触れ、その細い体温を感じてしまっている以上、僕たちの関係が「現状」のままではいられないことを、僕の脳細胞は冷静に理解していた。


「……西野。和久井。あなたたち、そこで何をしているの?」


冷ややかな声が、僕たちの背後から響いた。

一ノ瀬佳樹だ。

その後ろには、息を切らした杏菜と、不安げな表情の小鞠もいる。


「……あ。佳樹」


檸檬が慌てて僕から離れる。

けれど、その頬は赤く染まり、瞳には先ほどまでの絶望ではなく、かすかな「光」が宿っていた。

佳樹は僕たちの間にある空気を一瞬で読み取り、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。


「……和久井。事情は聞いたわ。でも、西野を独り占めして泣き落とすのは、ルール違反じゃないかしら?」


「佳樹ちゃん……。それは、その……」


「和彦くん! 私も、私も檸檬のこと助けるよ! だから、二人きりでこっそり進めるのは禁止!」


杏菜が僕の右腕を取り、佳樹が左側に立って僕を冷たく見下ろす。

そして小鞠が、僕の背後に回ってシャツの裾をそっと掴んだ。


ああ、これだ。

17歳の秋。

一人の少女の危機さえも、彼女たちにとっては僕を巡る新たな攻防の火種でしかない。

僕の平穏は、こうしてまた、彼女たちの熱気によって蒸発していく。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


夕暮れの渡り廊下。

4人の少女たちに囲まれ、逃げ場を失った僕は、もはや定型文となったその独白を、これまでで一番深い諦めとともに口にした。

けれど、胸元に残った檸檬の涙の跡だけは、やけに熱く、僕の心臓を叩き続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ