疾走する幼馴染の涙と、泥濘に足を取られた僕の境界線
10月の風は、火照った自意識を冷やすには少しばかり鋭すぎる。
放課後の誰もいない渡り廊下で、僕は立ち尽くしていた。
目の前で、和久井檸檬が泣いていたからだ。
あの、太陽をそのまま形にしたような、無敵のスポーツ少女が。
日焼けした頬を涙で濡らし、今にも壊れてしまいそうな表情で僕を見つめている。
「……ねえ、和彦。どうしてかな。ずっと一緒だと思ってたのに、私だけが、みんなと違う場所にいる気がするんだ」
彼女の絞り出すような声が、コンクリートの壁に跳ね返って僕の耳に突き刺さる。
和久井檸檬。
彼女の家で起きた問題――両親の不仲と、それに伴う引っ越しの可能性。
17年間、この「幼馴染」というぬるま湯に浸かってきた僕たちにとって、それは世界が根底から覆るような大事件だった。
「和久井。君はどこにも行かないだろ。僕たちが、そんなの許すはずがない」
「……和彦は優しいね。でも、その優しさが一番キツいんだよ。だって、和彦が私を見てるのは、『幼馴染』だからでしょ?」
檸檬が、一歩詰め寄ってきた。
彼女の瞳には、湿った熱が宿っている。
羽賀杏菜の直球とも、一ノ瀬佳樹の独占欲とも違う、これはもっと根源的な、誰にも自分の場所を譲りたくないという飢餓感に近い。
「私、テニスの試合に勝ったら、わがまま聞いてって言ったよね。……あのさ、私、本当は試合なんてどうでもよかったんだ。ただ、和彦に私だけを見てほしかった。杏菜たちみたいに、器用に立ち回れないから……」
彼女はそこまで言うと、顔を伏せて激しく肩を揺らした。
やれやれ。
僕はただの背景役なんだ。
こういう時、気の利いた台詞を吐いてヒロインの涙を拭うのは、僕の担当じゃないはずだろ。
それなのに、僕の足は勝手に動いて、彼女の震える肩を抱き寄せていた。
「……バカだな、君は。1メートル以内に常駐してる奴を、見てないわけないだろ。僕の視界の3割は、だいたい君の派手な動きで占領されてるんだから」
「……何それ。ひどい言い草」
檸檬は僕の胸に顔を埋めたまま、くぐもった声で笑った。
けれど、その腕は僕の背中に回され、折れそうなほど強く締め付けられる。
制服越しに伝わる彼女の体温と、かすかな汗の匂い。
これが、僕が知っているようで知らなかった、和久井檸檬という一人の「女の子」の重みだ。
「……和彦。私、どこにも行きたくない。ずっと、和彦の隣で、こうして笑ってたいよ」
「……ああ。そうすればいい。僕が、全力で現状維持をサポートしてやる」
現状維持。
それは僕にとって、最も心地よい言葉のはずだった。
けれど、こうして彼女の涙に触れ、その細い体温を感じてしまっている以上、僕たちの関係が「現状」のままではいられないことを、僕の脳細胞は冷静に理解していた。
「……西野。和久井。あなたたち、そこで何をしているの?」
冷ややかな声が、僕たちの背後から響いた。
一ノ瀬佳樹だ。
その後ろには、息を切らした杏菜と、不安げな表情の小鞠もいる。
「……あ。佳樹」
檸檬が慌てて僕から離れる。
けれど、その頬は赤く染まり、瞳には先ほどまでの絶望ではなく、かすかな「光」が宿っていた。
佳樹は僕たちの間にある空気を一瞬で読み取り、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。
「……和久井。事情は聞いたわ。でも、西野を独り占めして泣き落とすのは、ルール違反じゃないかしら?」
「佳樹ちゃん……。それは、その……」
「和彦くん! 私も、私も檸檬のこと助けるよ! だから、二人きりでこっそり進めるのは禁止!」
杏菜が僕の右腕を取り、佳樹が左側に立って僕を冷たく見下ろす。
そして小鞠が、僕の背後に回ってシャツの裾をそっと掴んだ。
ああ、これだ。
17歳の秋。
一人の少女の危機さえも、彼女たちにとっては僕を巡る新たな攻防の火種でしかない。
僕の平穏は、こうしてまた、彼女たちの熱気によって蒸発していく。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
夕暮れの渡り廊下。
4人の少女たちに囲まれ、逃げ場を失った僕は、もはや定型文となったその独白を、これまでで一番深い諦めとともに口にした。
けれど、胸元に残った檸檬の涙の跡だけは、やけに熱く、僕の心臓を叩き続けていた。




