ハッピーエンドの延長線上。あるいは、新居の合鍵を巡る防衛戦について
2030年、初夏。
世間が「未来」だの「革新」だのと騒いでいた2030年も、実際に住んでみれば相変わらず夏は暑く、湿気は不快で、僕の人生の難易度は一向に下がる気配を見せなかった。
僕、西野和彦は、新居という名の中古マンションの一室で、段ボールの山を前に途方に暮れていた。
「……ねえ、和彦くん。このお皿、どこに置けばいいかな。……あ、それとも、新しい生活に合わせて、もっと可愛いのに買い替えちゃう?」
隣で羽賀杏菜が、僕の着古したTシャツをパジャマ代わりにして、楽しそうに荷解きをしていた。
結婚式から数ヶ月。左手の薬指に収まった銀色の輪っかは、すっかり僕の肌の一部として馴染んでいる。
10代の頃に夢見た「お嫁さん」になった彼女は、僕の予想を遥かに超えて、家庭内における僕のパーソナルスペースをじわじわと、かつ確実に侵食していた。
「……杏菜。皿の可愛さよりも、まずは収納の効率を考えろ。……あと、僕のTシャツを勝手に着るな。それは僕の数少ない安らぎなんだ」
「いいじゃん、夫婦なんだから。……ねえ、和彦くん。改めて言うけど、これからずっと、よろしくね」
杏菜が僕の背中に、ぽすんと頭を預けてくる。
20代の終わり。僕たちは、かつてのタイムカプセルに閉じ込めた夢の、その先の景色を歩き出していた。
だが、その景色には、僕たちが招待した覚えのない「特別ゲスト」たちが、当然のような顔をして居座っていた。
「西野。新居のセキュリティレベルが低すぎるわ。……杏菜、あなたの家事動線の設計は、私の査定では効率性ゼロよ。私が作成した『新婚生活における24時間最適化マニュアル』に従って、家具を再配置しなさい」
チャイムも鳴らさずにリビングに現れたのは、一ノ瀬佳樹だ。
彼女は法曹界の若きエースとして名を馳せているが、プライベートでは僕の生活全般を「監査」することをライフワークにしていた。
彼女の手に握られているのは、引越し祝いのシャンパン……ではなく、僕の新居の「予備の合鍵(自作)」だった。
「一ノ瀬……お前、その鍵どうしたんだよ。僕のプライバシーに関する法的保護はどうなってるんだ」
「あなたの安全を守ることは、私の基本的人権に付随する義務よ。……西野、その冷蔵庫。賞味期限の管理が甘いわね。私が一週間ごとに抜き打ち検査を行うから、覚悟しておきなさい」
佳樹の独占欲は、今や「家族の法的アドバイザー」という鉄のカーテンを纏い、僕たちの家庭生活を緻密に包囲していた。
「よっ! 新居祝いにビールと肉持ってきたぞ! ほら、和彦! 杏菜! 今日は朝まで飲み明かすぞ!」
ベランダの窓から(なぜか3階なのに)和久井檸檬がひょいと現れた。
彼女はスポーツ指導者として全国を飛び回っているはずだが、どういうわけか僕がビールを飲みたいと思うタイミングで、必ず視界の端に出現する。
檸檬は僕の肩をガシッと掴むと、少しだけ眩しそうな瞳で僕たちの部屋を見渡した。
「和彦、お前が本当に結婚しちゃうなんてさ、未だに信じられないよ。……でもさ、寂しくなったら、いつでも呼べよな。私が全力でスクラム組んで、お前の悩みごと全部場外へ飛ばしてやるから!」
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、かすかな名残惜しさが宿っているのを、僕は知っている。
変わっていく関係。けれど、彼女にとって僕は、どんなに立場が変わろうとも「守るべきエース」のままなのだ。
「……和彦、さん。……これ、新居の……魔除け……です。……嘘です、ただの、私の……等身大……じゃなくて、手作りの、人形……です。……これを、寝室の……隅に、置いておけば……二十四時間、私が、見守って……あげます」
押し入れの中から(いつからいたんだ)、柏木小鞠が現れて不気味なサイズのぬいぐるみを差し出してきた。
彼女は今や人気作家として筆を振るっているが、その瞳に宿る執念は、物語を紡ぐたびにより深く、より湿った重力を帯びていた。
小鞠の瞳。それは、僕がどんなに「幸福な家庭」という名の要塞に籠もろうとも、その隙間から音もなく忍び込み、共に在り続けるという、静かな共生の誓いだった。
やれやれ。
結局、僕たちは段ボールをテーブル代わりにして、いつもの五人で乾杯をした。
杏菜が僕の料理を奪い、佳樹が僕の貯蓄計画を問い詰め、檸檬が昔話を笑い飛ばし、小鞠が僕の背後で静かに微笑んでいる。
「……ねえ、和彦くん。私たち、本当に幸せだね」
窓の外には、2030年の夜景が広がっている。
かつての僕たちが想像した未来とは少し違うけれど、相変わらず騒がしく、相変わらず僕は四人の情念に振り回されている。
「……ああ。……まあ、これだけ賑やかなら、退屈することだけはなさそうだな」
僕の口から零れた、人生最終章の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の笑顔が、どんな未来のネオンよりも鮮やかに、僕のこれからの日常を照らし出していた。
10年前のタイムカプセル。
そこに書いた「幸せ」の定義は、今の僕たちが手にしているものとは少し形が違うかもしれない。
けれど、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度。
それが僕の選んだ、最高に「負け」の込んだ、最高のハッピーエンドだ。
「……どうせ、一生恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、散らかった新居の真ん中で零れた、永遠の敗北宣言。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、未来へと続く夜風の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、幸せな溜息をついた。




