文化祭の狂騒と、予定調和を裏切る幼馴染の体温
文化祭。それは学校という閉鎖空間が、合法的に「青春の自家中毒」を起こす二日間だ。
廊下は模擬店のチープなソースの匂いと、浮足立った生徒たちの嬌声で満ちている。
僕、西野和彦は、クラスの出し物のシフトという義務を適当にこなし、喧騒から逃れるようにして屋上へ続く階段の踊り場に身を潜めていた。
「……ふう。やっぱり、僕にはこのくらいの彩度の低い場所がちょうどいい」
一人、持参した文庫本を開こうとしたその時。
ドタドタと騒がしい足音が響き、踊り場の扉が勢いよく開け放たれた。
「あー! 見つけた! 和彦くん、こんなところでサボってる!」
羽賀杏菜。
チア部の衣装に身を包んだ彼女は、暴力的なまでの眩しさを放ちながら僕の隣に飛び込んできた。
衣装の露出度は、僕の貧弱な自制心を破壊するには十分すぎる。
「……羽賀。その格好で校内をうろつくのは、公序良俗的にどうなんだ。というか、チア部の公演は?」
「もう終わったよ! 今は休憩中。それより、和彦くんも行こうよ。後夜祭、一緒に見たいって言ったじゃん」
「言った覚えはない。君が勝手に僕のスケジュールに書き込んだだけだろ」
「あはは、細かいことはいいの!」
杏菜は僕の腕を当たり前のように掴むと、自分の体の方へと引き寄せた。
柔らかな感触と、ダンスで上気した彼女の体温が、薄暗い階段の踊り場に生々しく伝わってくる。
「……ねえ、和彦くん。さっきの公演、見ててくれた?」
「……端の方で、少しだけな」
「嘘。私、ステージから和彦くんのこと見つけたもん。一番後ろの、柱の陰にいたでしょ?」
図星を刺され、僕は言葉に詰まった。
羽賀杏菜の動体視力というか、僕に対する探知能力は、もはや最新鋭のレーダー並みだ。
彼女は僕の反応を楽しむように、顔を近づけてくる。
「ねえ、和彦くん。私、今日、すごく楽しかった。でも、一番楽しいのは、こうして和彦くんと二人でいる時なんだよ」
「……そういうのは、もっと別の、ふさわしい相手に言えよ」
「ふさわしい相手なんて、和彦くん以外にいないよ。……知ってるでしょ? 私が17年間、誰を一番近くで見てきたか」
杏菜の声が、ふっと熱を帯びた。
屋上から聞こえてくる後夜祭のバンド演奏が、遠い背景音に退いていく。
彼女の大きな瞳が、僕の視線を逃がさない。
和久井檸檬の疾走感とも、一ノ瀬佳樹の独占欲とも、柏木小鞠の執着とも違う。
それは、あまりにも真っ直ぐな、混じり気のない「好意」の形をしていた。
「……私はね、和彦くん。幼馴染で終わるつもり、本当にないんだよ。あの『賭け』だって、私が勝つために提案したんだから」
彼女の手が、僕のシャツの胸元をぎゅっと掴んだ。
心臓の音が、どちらのものか分からないほど速く、激しく共鳴する。
逃げ場はない。
この17年間、僕たちが築き上げてきた「幼馴染」という鉄壁の要塞が、彼女の手によって一枚ずつ剥がされていく。
「……杏菜」
名前を呼んだ瞬間、彼女の顔がさらに近づき――。
その時、屋上の扉が再び開き、眩い光とともに喧騒が流れ込んできた。
「和彦ー! 杏菜ー! 何やってんの、早く来ないと花火上がっちゃうよ!」
檸檬の声。
その後ろには、不機嫌そうに腕を組む佳樹と、僕の服の裾をそっと掴みに来る小鞠の姿もあった。
「……ちぇ、いいところだったのに」
杏菜はぺろっと舌を出すと、いつもの天真爛漫な笑顔に戻った。
けれど、僕を離さないその指先の力は、最後まで緩むことはなかった。
やれやれ、これだ。
文化祭の魔法か、それとも17年という歳月の重みか。
僕の平穏なモブ生活は、この夜、完全に「詰み」を迎えたのだと確信せざるを得なかった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
夜空に打ち上がった大輪の火花。
その音にかき消されながら、僕は自分の心臓のうるささを、ようやく認めることにした。




