初夏のデッドエンド。あるいは、僕らが未来と引き換えに差し出す現在地について
6月。梅雨という名の、空全体が湿った雑巾で覆われたような不快な季節。
僕、西野和彦は、湿気でページが波打った講義資料を前に、大学のラウンジで呆然としていた。
二十歳。成人という名の免罪符を手に入れた僕たちを待っていたのは、バラ色の自由などではなく、「お前は何者になるのか」という、社会からの執拗な職務質問だった。
「……ねえ、和彦くん。就活のセミナー、一緒に行かない? 私、一人だと不安で、履歴書の『長所』の欄に『和彦くんが好き』って書いちゃいそうなんだもん」
隣で羽賀杏菜が、僕の二の腕に自分の額を擦り付けながら呟いた。
彼女の瞳には、かつての期末テスト前のような、けれどそれよりもずっと重苦しい「現実」への恐怖が宿っている。
20歳の梅雨。僕たちはもう、若さという名の無敵モードを解除されようとしていた。
「……杏菜。長所の欄にそれを書いたら、即座に不採用通知という名のラブレターが届くぞ。……自分の価値を僕に外注するな」
「いいの。私の価値は和彦くんが決めてくれれば。……ねえ、ずっと一緒にいてくれるって、もう一度言って?」
杏菜が、僕のシャツの袖をぎゅっと握りしめる。
付き合っているという事実は、荒れ狂う社会という大海において、僕たちを繋ぎ止める唯一の錨だ。だが、その錨には、今や四方八方から巨大な重力波が叩きつけられていた。
「西野。感情の不法投棄はやめなさい。……杏菜、あなたのキャリアパスの欠如は、私の人生設計における重大な計算ミスを招くわ。私の作成した『三十代までの共同生活及び資産運用シミュレーション』を、今すぐ暗記しなさい」
一ノ瀬佳樹が、分厚いノートPCを盾のように構えて現れた。
彼女は法学部のエリートとして、すでに僕と同じ官公庁や企業への道を緻密に舗装し終えている。
佳樹にとって、この就職活動は僕との「永続的な共同体」を社会的に承認させるための、最終的な包囲網の完成を意味していた。
「一ノ瀬……お前、自分のゼミの発表準備はどうしたんだよ」
「あなたの未来を担保すること以上に、優先すべき研究テーマなど存在しないわ。……西野、そのネクタイの結び目の緩み。それは、あなたの倫理観の緩みと同じよ。私が完璧に締め直してあげるから、呼吸を止めなさい」
佳樹の独占欲は、今や「完璧なパートナーシップの構築」という名のドグマとなり、僕の喉元までを法的に包囲していた。
「おーい! 和彦! 杏菜! ジメジメしてんなよ! 私がバイトしてるスポーツジムの優待券だ! 体動かして、モヤモヤを汗と一緒に流そうぜ!」
和久井檸檬が、他大学の垣根を軽々と飛び越えてラウンジに乱入してきた。
彼女はスポーツ推薦枠での生活に、将来への不安というスパイスが加わり、その肌は以前よりも一段と引き締まっている。
檸檬は僕の肩をバシッと叩くと、少しだけ潤んだ瞳で僕を見つめた。
「和彦、お前、社会人になったからって、スーツ着て遠いところに行くなよ。……私がどこにいても見つけられる距離にいろ。……いいな?」
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、震えるような執着があることを、僕は知っている。
変わっていく身分。大人という名の別離。彼女はそれを、僕という不変の座標を掴むことで、必死に食い止めていた。
「……和彦、さん。……これ、未来を……呪……占う、水晶……です。……嘘です、ただの、ガラス玉……です。……これを、覗けば……二十年後の、私たち……の、愛欲図が……見えます」
影の中から、柏木小鞠が現れて不気味な球体を差し出してきた。
彼女は女子大での生活を「外界との断絶」と定義し、こうして僕の周辺に「顕現」することで、僕の精神的領土に自分の墓標を立て続けている。
小鞠の瞳。それは、僕が新しい世界へ踏み出そうとするたびに、その影をより深く、より濃くしていく、静かな愛の重力だった。
やれやれ。
結局、僕たちはいつもの五人で、雨の降る窓の外を眺めながら、カフェテリアの片隅に固まっていた。
杏菜が僕のコーヒーを勝手に飲み、佳樹が僕の履歴書を添削し、檸檬が昔話を笑い飛ばし、小鞠が僕の影を静かに踏んでいる。
「……ねえ、和彦くん。私たち、どこまで行けるかな」
窓の外には、激しさを増す雨が、キャンパスの景色を曖昧に塗りつぶしていた。
僕たちは、もう子供じゃない。
けれど、この騒がしい幼馴染たちと、隣で震える彼女の手を握っている限り、どんな不確かな未来だって「僕たちの日常」に引きずり込める気がした。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、湿った空気と喧騒の中で零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、雨の中へと一歩を踏み出した。
物語は核心へ向かう。
それは、青春という名の美しい地獄を、僕たち五人で永遠に彷徨い続けるための、愛すべき敗北の記録だった。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、雨の帳の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




