未来予想図のラビリンス。あるいは、春の嵐にさらされた僕らの未確定事項について
4月。キャンパスを彩る桜が、新入生たちの根拠のない希望を祝福するかのように舞い散る季節。
僕、西野和彦は、大学2年生という「フレッシュマン」という免罪符を失った中途半端な身分で、講義棟の屋上にいた。
一年前、僕たちは必死で掴み取ったこの場所に、今は当然のような顔をして座っている。だが、その「当然」を維持するためのコストは、年々跳ね上がる一方だった。
「……ねえ、和彦くん。私たち、このまま大人になっていくのかな。……なんだか、最近の和彦くん、ちょっとだけ遠くにいっちゃいそうで怖いんだ」
隣の席で、羽賀杏菜が春風に髪をなびかせながら呟いた。
彼女の瞳には、かつての放課後とは違う、けれど根底にある不安は同じ、あの独特の湿り気が宿っている。
20歳の春。僕たちはもう「学生だから」という言い訳で、将来から目を逸らすことはできない。
「……杏菜。僕がどこへ行くって言うんだ。……君が僕の袖をこうして握りしめている限り、僕の移動可能距離は半径数十センチに制限されているだろ」
「もう、またそうやって理屈で誤魔化す! ……でも、その制限、一生解除してあげないからね」
杏菜が僕の腕をぎゅっと抱きしめる。
付き合っているという事実は、大学という大海原において僕たちを繋ぎ止める錨のようなものだ。だが、その錨には、常に四方向からの強烈な引力が働いていた。
「西野。感情の不確定要素を放置するのは、知的怠慢よ。……杏菜、あなたのその依存体質は、二十代のキャリア形成において致命的なバグになるわ。私の作成した『ライフプランニング・プロトコル ver.2.0』を音読しなさい」
一ノ瀬佳樹が、分厚いタブレットを手に現れた。
彼女はすでに法学部のエリートとして、専門科目の履修だけでなく、僕との「将来的な同居及び資産管理に関する合意書」のドラフトまで作成済みだ。
佳樹にとって、この春は僕との関係を「恋愛」という曖昧な概念から、「法的な共同体」へと昇華させるための重要なフェーズだった。
「一ノ瀬……お前、自分のゼミの予習はどうしたんだよ」
「あなたの生活を最適化することが、私の人生における最優先の演習よ。……西野、そのネクタイの結び目。0.2ミリほど左に寄っているわ。私の手で完全に再構築してあげるから、動かないで」
佳樹の独占欲は、今や「管理責任」という名の絶対正義を振りかざし、僕のパーソナルスペースを緻密に侵食していた。
「おーい、和彦! 杏菜! 春だぞ、花見だぞ! 私がバイトしてるスポーツショップの裏で、特製焼肉パーティーだ!」
和久井檸檬が、他大学のフェンスを乗り越えてきたんじゃないかという勢いで教室に乱入……はできず、屋上の扉を豪快に蹴り開けた。
彼女はスポーツ推薦枠で、毎日極限まで自分を追い込んでいるはずだが、僕たちの前に現れる時だけは、あの頃と同じ「幼馴染」の爆発的なエネルギーを放ってみせる。
檸檬は僕の肩をバシッと叩くと、少しだけ潤んだ瞳で僕を見つめた。
「和彦、お前、二十歳になったからって、一人で勝手に酒飲んで大人ぶるなよ。……最初の乾杯は、絶対に私たちが一緒じゃなきゃダメだからな!」
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、かすかな震えがあるのを僕は知っている。
変わっていく環境。大人という未知の領土。彼女はそれを、僕という不変の存在を掴むことで、必死に食い止めていた。
「……和彦、さん。……これ、春の……夜長を、呪……彩る、押し花……です。……嘘です、ただの、毒草……じゃなくて、薬草……です。……これを、栞にして……本を読めば、私の、囁きが……二十四時間、脳内に……響きます」
影の中から、柏木小鞠が現れて不気味な小瓶を差し出してきた。
彼女は女子大での生活を「精神的な隠遁」と定義し、こうして僕の周辺に「定期的に降臨」することで、僕の無意識領域に自分の楔を打ち込み続けている。
小鞠の瞳。それは、僕が新しい世界へ踏み出そうとするたびに、その影をより深く、より濃くしていく、静かな愛の重力だった。
やれやれ。
結局、僕たちはいつもの五人で、夕暮れのキャンパスを見下ろしながら、学食のテラス席に陣取っていた。
杏菜が僕のコーヒーを勝手に飲み、佳樹が僕の将来を査定し、檸檬が昔話を笑い飛ばし、小鞠が僕の影を静かに踏んでいる。
「……ねえ、和彦くん。私たち、どんなに変わっても、こうして集まれるよね?」
窓の外には、新しい季節を告げる夜風が吹き抜けていた。
僕たちは、もう子供じゃない。
けれど、この騒がしい幼馴染たちと、隣で微笑む彼女の手を握っている限り、どんな不確かな未来だって「僕たちの物語」に変えていける気がした。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、春の星座が瞬き始めたキャンパスで零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、新しい一歩を踏み出した。
物語は終わらない。
それは、青春という名の迷宮を、僕たち五人で彷徨い続けるための、愛すべき永久機関だった。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、夜の帳の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




