秋冷のレゾンデートル。あるいは、赤本を捨てた僕らが彷徨うキャンパスという名の迷宮について
10月。キャンパスを彩る銀杏が、鼻を突く独特の臭気を放ち始める季節。
僕、西野和彦は、講義の合間に図書館の隅で、もはや「受験」という共通言語を失った僕たちの所在について考えていた。
大学生。それは、自分で選んだはずの自由という名の荒野で、迷子になることが許された贅沢な身分だ。だが僕の場合、その荒野には常に四人の熟練した追跡者が潜んでいた。
「……ねえ、和彦くん。大学の課題、全然終わらなくて。……私、やっぱり向いてないのかな。和彦くんみたいに、スマートにこなせなくて」
隣の席で、羽賀杏菜がレポート用紙の余白に僕の似顔絵を描きながら呟いた。
19歳の秋。彼女が纏うカーディガンは少しだけ大人びたけれど、その不安げな瞳は、かつての放課後と少しも変わっていない。
「……杏菜。レポートはスマートに書くものじゃない。血と汗と、適度なコピペ……いや、引用で構築するものだ。ほら、ここ、論理が飛躍してるぞ」
「えへへ、やっぱり和彦くんがいなきゃダメだ。……ねえ、これ終わったら、学食の新作パフェ食べに行かない?」
杏菜が僕の腕に自分の腕を絡めてくる。
付き合っているという肩書きは、こうした公共の場での「甘え」を正当化する免罪符にはならない。むしろ、僕を狙う狙撃手たちのスコープを調整させる合図となっていた。
「西野。公共の場での過度な親密行為は、周囲の学生の学習権を侵害するわ。……杏菜、あなたのレポートの論理構成は、私の査定ではFランクよ。私の厳格な指導の下で、一から書き直しなさい」
一ノ瀬佳樹が、分厚い六法全書を盾のように構えて現れた。
彼女は法学部の特待生として、すでに将来のキャリアをミリ単位で設計し終えている。
佳樹にとって、この大学生活は僕との「永続的な共同体」を法的に定義するための、長い準備期間に過ぎないのだ。
「一ノ瀬、お前……自分の学部の演習はどうしたんだよ」
「あなたの位置情報を把握している以上、私の演習室はここにあると言っても過言ではないわ。……西野、そのシャツのボタン。また緩んでいるわね。私の管理が行き届かない場所で、誰にその隙を見せているの?」
佳樹の独占欲は、今や「管理責任」という名の正義を掲げ、僕の生活の隅々まで法的に包囲していた。
「おーい、和彦! 杏菜! 秋と言えば食欲だろ! 私がバイトしてるカフェで試作のバーガー、食べに来いよ!」
窓の外から、和久井檸檬が全速力で手を振っていた。
彼女は他大学のスポーツ推薦枠で、毎日泥にまみれながらも、週に数回はこうして僕たちのキャンパスに不法侵入……もとい、友情という名のアポなし訪問を繰り返している。
檸檬は僕の肩をガシッと掴むと、「和彦、お前、最近筋肉落ちたんじゃないか? 私が鍛え直してやるよ!」と笑い飛ばした。
「檸檬……お前、自分の練習はどうしたんだ」
「オフの日くらい、あんたらの顔見ないと落ち着かないんだよ。……ねえ、和彦。……いつかさ、私たちが本当に大人になっても、こうして集まれるのかな」
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、かすかな震えがあるのを僕は知っている。
かつての「幼馴染」という記号だけでは繋ぎ止められない、新しい世界への恐怖。彼女はそれを、僕という錨に繋ぎ止めることで、必死に耐えているのだ。
「……和彦、さん。……これ、秋の……夜長を、呪……癒やす、アロマ……です。……中に、私の、吐息……じゃなくて、エキス……入れて、おきました。……これを、焚けば……夢の中で、私と……永久に、お話し……できますから」
机の下、あるいは影の中から、柏木小鞠が現れて不気味な小瓶を差し出してきた。
彼女は女子大での生活を「外界」と断絶させ、こうして僕の周辺に「出没」することで、僕の精神的領土を侵食し続けている。
小鞠の瞳。それは、僕が新しい自由を享受するたびに、その影をより深く濃くしていく、静かな呪縛のようだった。
やれやれ。
結局、僕たちはいつもの五人で、夕暮れの学食に集まっていた。
杏菜が僕のコーヒーを勝手に一口飲み、佳樹が僕の履修状況を検閲し、檸檬が文化祭の思い出話を熱弁し、小鞠が僕の足元で静かに気配を消している。
「……ねえ、和彦くん。私たち、ずっとこのままでいられたらいいのにね」
窓の外には、秋の夜長を告げる涼しい風が吹き抜けていた。
僕たちは、もう子供じゃない。
将来への不安、進路、そして大人になっていくという責任。
けれど、この騒がしい幼馴染たちと、隣で微笑む彼女がいれば、どんな未知の季節だって歩いていける気がした。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、銀杏の匂いと喧騒の中で零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、夜のキャンパスを歩き出した。
秋が深まる。
それは、終わりのない青春という名の、僕たちの愛すべき地獄の続きだった。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、秋の星座の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




