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熱帯夜のパラダイス・ロスト。あるいは、打ち上げ花火の下で僕が失う冷静沈着について

8月。夜になってもアスファルトの熱が引かない、嫌な湿気を帯びた熱帯夜。

僕、西野和彦は、地元で開催される花火大会という名の「リア充たちの戦場」に立っていた。

大学生になったからといって、僕の社交性が急上昇するわけでもない。むしろ、自由という名の空白を持て余した結果、僕はかつてと同じ、この騒がしい「檻」の中にいた。


「……ねえ、和彦くん。浴衣、変じゃないかな。……大人っぽすぎるって、思われてない?」


人混みの中、羽賀杏菜が少しだけ緊張した面持ちで僕の腕を掴んだ。

高校生の頃よりも少しだけ落ち着いた色合いの浴衣を纏った彼女は、夜店の電球に照らされて、僕の知る「幼馴染」の枠を容易く踏み越えていく。

19歳の夏。付き合っているという肩書きは、周囲の視線から彼女を守るための盾にはならない。むしろ、僕自身の独占欲を煽る、質の悪いスパイスとなっていた。


「……別に、変じゃない。……というか、裾を踏むなよ。転んでも僕は助けないからな」

「もう、和彦くんは! 嘘でも『綺麗だよ』くらい言ってくれてもいいのに!」


杏菜が頬を膨らませ、僕の二の腕をぎゅっと抱きしめる。

その柔らかな感触。だが、その甘い時間を引き裂くように、僕たちの背後から鋭い「査定」の声が飛んできた。


「西野。そのだらしなく緩んだ口角を今すぐ矯正しなさい。……杏菜、あなたの浴衣の着付け、左前になっていないでしょうね? 私の厳格なチェックをパスしていない以上、あなたを彼の隣に立たせるわけにはいかないわ」


一ノ瀬佳樹だ。彼女は大学でも法学部のエリート街道を突き進み、その手には「祭りの混雑時における群衆心理と法的責任」という、これまた風情のない論文のコピーが握られている。

佳樹にとって、この花火大会は僕との「将来の合意」を再確認するための公式な会談に過ぎない。


「一ノ瀬……お前、今日はゼミの合宿じゃなかったのかよ」

「あなたの位置情報は私の脳内GPSに同期されているわ。……西野、その第二ボタン、浴衣の下で緩んでいないでしょうね? 大学に入ってからのあなたの緩みは、私の管理能力の不備に直結するのよ」


佳樹の独占欲は、今や「リスクマネジメント」という名の絶対正義を振りかざし、僕を包囲していた。


「あはは! 佳樹、相変わらずだな! ほら和彦、杏菜! リンゴ飴買ってきたぞ! 食って気合入れろ!」


和久井檸檬が、他大学の部活帰りのような身軽さで人混みを割って現れた。

彼女はスポーツ推薦で入った大学での練習でさらに逞しくなり、その肌は夜の闇でも眩しく光っている。

檸檬は僕の肩に腕を回すと、わざと杏菜に見せつけるように僕の耳元で「和彦、お前、浴衣の杏菜に見惚れてただろ? スケベ!」と笑い飛ばした。


「檸檬、お前は少しは落ち着け。……というか、そのリンゴ飴、一個しか買ってないのか?」

「当たり前だろ! みんなで回し食いするのが『友情』だろ? ……でもさ、和彦。……あんまり遠くに行くなよ。私、追いかけるの、結構疲れるんだからさ」


檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、かすかな震えがあることを僕は見逃さなかった。

それぞれの大学、それぞれの生活。かつての「五人」という記号が、少しずつ変質していくことへの、彼女なりの切実な抵抗。


「……和彦、さん。……これ、花火の……音を、封じ込めた……貝殻、です。……嘘です、ただの、耳栓……です。……これを、着ければ……私の、呪……じゃなくて、想い……だけが、聞こえます」


影の中から柏木小鞠が現れ、僕に不気味な小瓶を手渡した。

彼女は女子大での生活を「外界」と断絶させ、こうして祭りの喧騒の中でも僕の背後を執拗にマークし続けている。

小鞠の瞳。それは、僕が新しい自由を享受するたびに、その影をより深く濃くしていく、静かな呪縛のようだった。


やれやれ。

結局、僕たち五人は、高校時代と同じ、あの川沿いの防波堤に座っていた。

夜空に大輪の花火が咲き、一瞬だけ僕たちの顔を色鮮やかに染める。


「……ねえ、和彦くん。私たち、大学生になっても、こうして一緒にいられるんだね」


爆音の合間に、杏菜が僕の肩に頭を預けてきた。

他の三人の視線に晒されながらも、彼女は僕の左手の下に、自分の手を滑り込ませる。


「……ああ。……どうせ、君たちはどこへ行ってもついてくるんだろうからな」


僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。

それを聞いた杏菜の笑顔が、打ち上げ花火の光よりも眩しく僕の胸を焼いた。


19歳の夏。

僕たちは、もはや何の結果も待っていない。

けれど、この騒がしい幼馴染たちに囲まれ、彼女の温もりを感じているこの瞬間だけは、どんな論理的な正解よりも、僕を強くこの場所に繋ぎ止めていた。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、火薬の匂いと歓声の中で零れた、最大級の敗和宣言。

僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、夜空を見上げた。


夏が終わる。

けれど、僕たちの終わらない物語は、まだ始まったばかりなのだ。


僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、真夏の熱気の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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