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真夏のタイムカプセル。あるいは、潮風にさらされた僕らの賞味期限について

8月。アスファルトが陽炎を立ち昇らせ、街全体が巨大な電子レンジと化したかのような昼下がり。

僕、西野和彦は、かつて通った母校の校門前に立っていた。

大学生という肩書きを得てから初めての夏休み。自由という名の空白を持て余した僕たちが辿り着いたのは、結局のところ、自分たちの「原点」という名の檻だった。


「……ねえ、和彦くん。こうして制服を着ていない私たちでここに来ると、なんだか不思議な感じだね」


隣で羽賀杏菜が、少しだけ大人びた夏服の裾を揺らしながら微笑んだ。

高校生の頃、この門を潜るたびに感じていたあの息苦しいほどの焦燥感は、今や淡いノスタルジーへと姿を変えている。

だが、彼女の手が僕のシャツの袖をぎゅっと掴む強さだけは、あの頃と少しも変わっていなかった。


「……ああ。……まあ、不法侵入で通報されないうちに、さっさと用件を済ませよう」

「もう、和彦くんはロマンがないんだから! 今日はみんなで『あの場所』に行くって決めたでしょ?」


杏菜が僕の腕を抱きしめる。

19歳の夏。付き合っているという事実は、もはや周囲の目を気にする段階を超え、僕たちの日常に深く、静かに根を張っていた。


「西野。公共の場での過度な密着は、母校の風紀に対する事後的な冒涜よ。……あと、あなたが今日着ているシャツ、第2ボタンの糸が0.3ミリほど緩んでいるわ。私の予備の裁縫セットで補強してあげるから、動かないで」


校舎の陰から、一ノ瀬佳樹が氷のような、それでいて熱を帯びた声を響かせた。

彼女は大学でも法学部のトップを走り、その手には「夏休み中に読破すべき判例集」が握られている。

佳樹にとって、この母校への再訪は、僕との過去を再定義し、未来への法的拘束力を強めるための儀式に過ぎない。


「一ノ瀬……お前、今日は非番じゃなかったのかよ」

「あなたの隣に非番など存在しないわ。……杏菜、あなたも。その露出の多い服で西野の視神経を刺激するのはやめなさい。彼の集中力が散漫になるのは、私の損失でもあるのよ」


佳樹の独占欲は、今や「管理責任」という名の正義を掲げ、僕と杏菜のプライベートを緻密に包囲していた。


「おーい! 遅いぞ三人とも! 砂浜の方はもう準備できてるからな!」


グラウンドの向こうから、和久井檸檬が全速力で走ってきた。

彼女は他大学の部活で一段と小麦色に焼け、その肌は真夏の光を反射して眩しい。

檸檬は僕の肩に腕を回すと、僕の顔を覗き込んで「和彦、お前、大学に入って少しは男らしくなったか? 私が海で鍛え直してやるよ!」と笑い飛ばした。


「檸檬……お前は相変わらずだな」

「当たり前だろ! 変わらないのが、私たちの良いところだろ? ……でもさ、たまに怖くなるんだ。……私たちが、本当の意味でバラバラになる日が来るのが」


檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、かすかな震えがあることを、僕は知っている。

それぞれの大学、それぞれの生活。

かつての「幼馴染」という記号だけでは繋ぎ止められない何かが、この夏の湿気の中に溶け出していた。


「……和彦、さん。……これ、母校の……土、です。……嘘です、ただの、砂……です。……これを、瓶に入れて……枕元に、置いておけば……私の、執念が……夢の中に、お邪魔します」


影の中から柏木小鞠が現れ、僕に不穏な小瓶を手渡した。

彼女は女子大での生活を「外界」と断絶させ、こうして定期的に僕の周辺に「侵入」することで、僕の精神的領土を確保し続けている。

小鞠の瞳。それは、僕が外の世界で新しい自由を謳歌するたびに、その影をより深く濃くしていく、静かな呪縛のようだった。


やれやれ。

結局、僕たち五人は、高校時代によく通ったあの海辺の防波堤に座っていた。

潮風が、僕たちの髪を乱し、ベタつく熱気を運んでくる。


「……ねえ、和彦くん。あの頃の私たち、本当に一生懸命だったよね」


夕暮れ。空が燃えるようなオレンジ色に染まる中、杏菜が僕の肩に頭を預けてきた。

他の三人の視線に晒されながらも、彼女は僕の手を離そうとはしない。


「……ああ。……まあ、今も大して変わってない気がするけどな」

「ううん、変わったよ。……私、もっと和彦くんのこと、好きになったもん」


杏菜の小さな囁き。

それを受けた瞬間、佳樹が咳払いをし、檸檬が空を見上げ、小鞠が僕の服の裾を強く握った。

19歳の夏。

僕たちは、もはや何の結果も待っていない。

合格発表も、卒業式も、全部終わった。

けれど、この騒がしい幼馴染たちに囲まれ、彼女の温もりを感じているこの瞬間だけは、どんな「正解」よりも僕を強く繋ぎ止めていた。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、波の音にかき消されるほど小さな声で零れた、最大級の敗和宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、夜の気配を孕んだ海を眺めた。


夏が終わる。

けれど、僕たちの物語は、まだ始まったばかりなのだ。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、真夏の蜃気楼の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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