初夏のハレーション。あるいは、二十歳の入り口で僕が失う独身主義について
5月。ゴールデンウィークという名の「新入生が現実逃避するための猶予期間」が終わり、キャンパスには少しずつ五月病の気だるい空気が漂い始めていた。
僕、西野和彦は、講義の合間に空き教室の窓から、不必要に眩しい初夏の日差しを眺めていた。
「……ねえ、和彦くん。サークルの新歓、結局どこにも入らないことにしたよ。だって、和彦くんがいないサークルなんて、私には意味がないもん」
隣の席で、羽賀杏菜がノートの端に僕の名前を書き殴りながら呟いた。
大学生。それは本来、新しい出会いや未知の体験に身を投じる季節だ。だが彼女にとっての「世界」は、どうやら僕という狭い半径から一歩も外へ広がる気配がないらしい。
「……杏菜。少しは人間関係を広げろよ。僕に依存しすぎると、将来的に君の社会性が死滅するぞ」
「いいよ、和彦くんが養ってくれるなら。……ねえ、それより、今度の休み……二人でどこか行かない?」
杏菜が僕のジャケットの裾を、控えめに、けれど確かな所有権を主張するように握りしめる。
19歳の初夏。制服という鎧を脱ぎ捨てた僕たちは、お互いの体温をよりダイレクトに感じてしまっていた。
「……西野。彼女の甘言に耳を貸すのは、あなたの学問的キャリアに対する背信行為よ」
扉が音もなく開き、一ノ瀬佳樹が姿を現した。
彼女はすでに専門科目の予習を完璧に終え、その手には「公務員試験対策」の分厚い参考書が握られている。
佳樹にとって、この大学生活は僕との「将来的な安定」を法的に確定させるための、長い前哨戦に過ぎない。
「一ノ瀬、お前……自分の学部のラウンジはどうしたんだよ」
「あちらは騒がしすぎるわ。あなたの隣の方が、私の集中力は0.15%向上する。……杏菜、あなたも。西野とのデートを画策する暇があるなら、私の作成した『大学生のための教養読書リスト100選』を完遂しなさい」
「佳樹ちゃん、それ一冊が枕にできるくらい厚いんだけど……」
佳樹の独占欲は、今や「知的向上心」という名の、反論不可能な正義を纏って僕たちを包囲していた。
「おーい! 和彦! 杏菜! 夏休みの予定、もう決めたぞ! 私がバイトしてる海の家で合宿だ!」
和久井檸檬が、他大学の垣根を軽々と飛び越えて教室に乱入してきた。
彼女はスポーツ推薦で入った大学の練習で日焼けし、その肌は初夏の光を反射して眩しい。
檸檬は僕の肩に腕を回すと、僕の耳元で「和彦、お前、杏菜と二人きりになれると思ってただろ? 甘いぞ!」と笑い飛ばした。
「檸檬、お前……自分の大学の部活はどうしたんだ」
「オフの日くらい、あんたらの顔見ないと落ち着かないんだよ。ほら、海に行くぞ。和彦の情けない水着姿、私がしっかり拝んでやるからな!」
檸檬の天真爛漫な独占欲は、僕たちの間に漂う微妙な空気感を、一瞬で「いつもの騒がしさ」へと塗り替えていく。
「……和彦、さん。……これ、熱中症、対策の……お守り、です。……中に、私の、涙……じゃなくて、保冷剤……入れて、おきました。……溶けたら、私の、想いが……溢れ出して……大変なことに、なります」
床下から、あるいは影の中から、柏木小鞠が現れて奇妙な物体を差し出してきた。
彼女は女子大での生活を「外界」と断絶させ、週に数回、こうして僕の周辺に「出没」することで、僕の精神的領土を侵食し続けている。
小鞠の瞳。それは、僕が外の世界で誰かに微笑みかけるたびに、その影をより深く濃くしていく、静かな執念の塊だった。
やれやれ。
結局、僕たちは大学の学食で、いつもの五人でテーブルを囲むことになった。
杏菜が僕のトレイから唐揚げを奪い、佳樹が僕のスケジュール帳を検閲し、檸檬が夏休みの計画を熱弁し、小鞠が僕の足元で静かに気配を消している。
「……ねえ、和彦くん。私たち、ずっとこうして一緒にいられるのかな」
食後の喧騒の中、杏菜が僕の左手の上に、自分の手をそっと重ねた。
他の三人の視線が僕たちの手に突き刺さる。佳樹の鋭い分析、檸檬の寂しげな笑み、小鞠の湿った執着。
「……ああ。……どうせ、どこへ行っても君たちがついてくるんだろうからな」
僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の笑顔が、窓から差し込む初夏の日差しよりも鮮やかに僕の胸を焼いた。
19歳の夏が、すぐそこまで来ている。
高校生の頃とは違う、少しだけ自由で、けれどこれまで以上に複雑に絡み合う僕たちの糸。
それを解く気など、僕には最初からないのかもしれなかった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、カフェテリアに満ちるカレーの匂いと喧騒の中で零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、午後の講義へと向かった。
新しい季節が始まる。
それは、終わりのない青春という名の、僕たちの愛すべき迷路だった。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、初夏のハレーションの中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




