キャンパスライフの蜃気楼。あるいは、新歓コンパの裏で僕を狙う四つの視線について
4月。満開だった桜が潔く散り、代わりにフレッシュマンたちの根拠のない自信と、得体の知れない期待感がキャンパスを埋め尽くす季節。
僕、西野和彦は、真新しい紺のジャケットに袖を通し、大学生という名の「自由という名の荒野」に放り出されていた。
だが、その自由は、入学式の数分後にはすでに霧散していた。
「……ねえ、和彦くん。やっぱり、大学って広いね。……私、迷子になっちゃいそうだよ」
講義棟の入り口。羽賀杏菜が、僕のジャケットの裾を不安そうに握りしめていた。
同じ大学、同じ学部。受験という地獄を共に潜り抜けた僕たちは、こうして晴れて「キャンパスライフ」という名の甘い果実を享受する権利を手に入れた。
はずなのだが。
「……杏菜。自分の教室の番号くらい覚えろ。それに、そんなに密着してると、新歓サークルの連中にカモにされるぞ」
「いいの。だって、離れたら誰かに和彦くんを連れて行かれちゃう気がするんだもん」
杏菜が、わざとらしく僕の腕を抱きしめる。
18歳の春。付き合っているという事実は、大学という大海原において、僕たちを繋ぎ止める唯一の命綱だ。
だが、その命綱は、想像以上に多くの「外圧」に晒されることになる。
「西野。浮ついた行動は控えなさい。大学は学問の府であって、あなたの欲求不満を解消する場所ではないわ」
背後から、一切の感情を排した高周波の音声が飛んできた。一ノ瀬佳樹だ。
彼女は法学部の分厚い基本書を抱え、入学初日から「司法試験予備校」のパンフレットを片手に、僕たちの間に無言で割り込んできた。
佳樹にとって、この大学生活は僕との「知的共生関係」を盤石にするための、法的な闘争の場なのだろう。
「一ノ瀬……お前、学部が違うだろ。なんでここにいるんだ」
「共通科目の履修登録を最適化した結果よ。あなたの空き時間を全て把握し、私の自習スケジュールと同期させておいたわ。……杏菜、あなたも。その偏差値ギリギリで入学した学力を維持するために、私の監視下で基礎講義を再受講しなさい」
「佳樹ちゃん……大学に入ってまで監視されるの……?」
佳樹の独占欲は、今や「カリキュラム」という名の、大学公認の管理システムへと昇華されていた。
「おーい、和彦! 杏菜! こっちだこっち! このサークル、飲み会が無料だってよ!」
噴水広場から、和久井檸檬が全速力で走ってきた。
彼女は別のスポーツ推薦の大学に通っているはずだが、なぜか僕たちのキャンパスに当然のような顔で馴染んでいる。
檸檬は僕の肩をガシッと掴むと、周囲の男子学生たちに「こいつは私の獲物だ」と言わんばかりの野生的な笑みを向けた。
「和彦、お前、さっそく女子学生に鼻の下伸ばしてないだろうな? 浮気したら、私の大学のラグビー部員全員連れてきて、お前をスクラムで潰してやるからな!」
「……和久井。他大の人間が不法侵入した挙句、スクラムを組むのは立派な事件だぞ」
檸檬の奔放な独占欲は、大学という枠組みさえも軽々と超えて、僕の日常を浸食し続けている。
「……和彦、さん。……これ、新生活の……お札、です。……嘘です、ただの、GPS……じゃなくて、御守り……です。……大学の、カフェテリアの……椅子の下に……貼って、おきました。……私が、モニターの……向こうで、見ていますから」
植え込みの影から、柏木小鞠が現れて小さなデバイス(?)を差し出してきた。
彼女だけは、電車で一時間かかる女子大に通っている。
けれど、その物理的距離は、彼女の「執念」をより鋭利にする砥石でしかなかったらしい。
小鞠の瞳。それは、僕が新しい出会いに戸惑うたびに、その闇に僕を引きずり込む準備ができていると告げていた。
やれやれ。
結局、僕たちはいつもの五人で、キャンパスの隅にある静かなカフェに落ち着いた。
杏菜が、僕の左手の下に自分の手を滑り込ませる。
佳樹が、僕の履修表をペンで赤入れし、檸檬が僕の飲み物を勝手に一口飲み、小鞠が足元から僕を見つめている。
「……和彦くん。私たち、大学生になったんだよね」
窓の外には、新しい生活への期待に満ちたキャンパスの喧騒が広がっている。
僕たちは、もう子供じゃない。
制服を脱ぎ、自分の進む道を、自分の責任で選んでいく季節。
けれど、この騒がしい幼馴染たちと、隣で少し背伸びして笑う彼女がいれば、どんな未知の世界だって歩いていける気がした。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、新しい革靴の窮屈さに耐えながら、新緑のキャンパスで零れた最大級の敗北宣言。
僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の決意を噛み締めながら、最初の講義へと向かった。
新しい物語が始まる。
それは、これまで以上に厄介で、けれど何よりも愛おしい、僕たちの「日常」という名の迷宮だった。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、春の陽光の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




