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卒業式のデッドエンド。あるいは、第二ボタンを巡る僕らの最終防衛ラインについて

3月。別れの季節という名の、情緒不安定な気候が続く午前。

僕、西野和彦の胸元には、朝から降り注ぐ桜の花びらと、それ以上に重苦しい卒業証書が抱えられていた。

式典は滞りなく終わり、教室には「もう二度とここへは戻れない」という、どこか他人事のような喪失感が漂っている。


「……ねえ、和彦くん。最後くらい、いつもの屋上……行かない?」


放課後の喧騒の中、羽賀杏菜が僕の袖をそっと引いた。

彼女の瞳は、式の最中からずっと潤みっぱなしだ。

18歳の春。僕たちは、制服という名の「保護服」を脱ぎ捨て、社会という名の荒野へ放り出されようとしている。


「……ああ。屋上か。あそこなら、後輩たちに見つかってボタンを強奪される心配もなさそうだしな」

「もう、和彦くんのボタン、全部私の予約済みなんだからね。一つもあげちゃダメだよ?」


杏菜が僕の第二ボタンを、壊れ物を扱うような手つきで確かめる。

その独占欲に満ちた仕草に、僕の心臓は共通テストの数学の時よりも激しく跳ねた。


人気のなくなった屋上。

フェンス越しに見える街並みは、3年前と変わらない。変わったのは、僕たちの距離と、抱えている感情の質量だけだ。


「……終わっちゃったね、高校生活」

「ああ。……でも、ここから始まるんだろ。君と同じ大学での、新しい生活が」


僕がそう告げた瞬間、杏菜の瞳から我慢していた涙が溢れ出した。

彼女は僕の胸に飛び込み、制服の生地が湿るのも構わずに泣きじゃくる。

その熱い体温。けれど、そんな二人の聖域を切り裂くように、扉が音を立てて開け放たれた。


「西野。卒業式の余韻に浸るのは自由だけれど、大学の入学手続き書類の不備をチェックする時間は、あと48時間しかないわ」


一ノ瀬佳樹だ。彼女は卒業証書の筒をバトンのように構え、琥珀色の瞳を鋭く光らせていた。

佳樹にとって、この卒業は「高校生という枷」が外れ、より高度で戦略的な「和彦独占計画」へと移行するためのステップに過ぎない。


「佳樹ちゃん! 今、いいところだったのに……!」

「感情の垂れ流しは時間の無駄よ。西野、第二ボタンは私が用意した保存用ケースに収めなさい。酸化を防ぐために真空パックにするわ」

「……一ノ瀬、お前、僕のボタンを検体か何かだと思ってるのか」


佳樹の独占欲は、もはや科学的領域へと足を踏み入れようとしていた。


「おーい、二人とも! 記念写真撮るぞ! ほら、檸檬様がシャッター押してやるから並べ!」


和久井檸檬が、フェンスを乗り越えてくるんじゃないかという勢いで現れた。

推薦で一足先に進路を決めていた彼女は、今日、誰よりも寂しげで、それでいて誰よりも力強く笑っていた。

彼女は僕の肩に腕を回すと、わざと杏菜の顔を覗き込んで悪戯っぽく笑う。


「和彦、お前が大学で他の女に鼻の下伸ばしたら、私が全力でタックルかましてやるからな。覚悟しとけよ!」

「……和久井。大学はラグビー場じゃないんだぞ」


「……和彦、さん。……これ、私の、髪の毛……じゃなくて、制服の……切れ端、です。……和彦さんの、ボタンの、裏に……縫い付けて……おきました。……どこへ、行っても……私が、くっついて……いますから」


影の中から柏木小鞠が現れ、僕の背中をそっと撫でた。

彼女だけは別の大学へと進む。けれど、その瞳に宿る執念は、距離などという物理法則を軽々と超越していた。

小鞠の瞳。それは、僕が新しい環境で孤独を感じた時、いつでもその闇で僕を包み込む準備ができていると告げていた。


やれやれ。

結局、僕たち五人は、屋上のフェンスに並んで座った。

夕暮れ。空は燃えるようなオレンジ色から、深い藍色へと溶け込んでいく。

杏菜が、僕の左手を握りしめる。

右側からは、佳樹が当然のように僕の肩を寄せ、檸檬が背中を叩き、足元では小鞠が裾を掴んでいる。


「……ねえ、和彦くん。大好きだよ。……これからも、ずっと」


杏菜の小さな囁きが、春の風に乗って僕の耳をくすぐった。

他の三人の殺気混じりの視線を受け流しながら、僕はただ、彼女の手を強く握り返す。


18歳の春。

僕たちは、まだ何も成し遂げていない。

確かな未来も、揺るぎない自信も、何一つ持っていない。

けれど、この騒がしい幼馴染たちと、隣で泣き笑いする彼女がいれば、どんな荒野だって歩いていける気がした。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、校舎に響く閉館のチャイムを背景に零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の決意を噛み締めながら、最後の一歩を踏み出した。


卒業。

それは、僕たちの「最高に騒がしい青春」という章が幕を閉じ、また新しい、さらに厄介で愛おしい物語が始まる合図だった。


僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、夜の帳の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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