合格発表のデッドヒート。あるいは、掲示板の前で僕が飲み込んだ祝辞について
3月。校庭の桜の蕾が、空気を読まずに膨らみ始めた昼下がり。
僕、西野和彦の人生における最大級の「審判の日」がやってきた。
合格発表。それは、これまでの数千時間に及ぶ努力が「正解」だったか「無駄骨」だったかを、数桁の数字だけで無慈悲に宣告する残酷な儀式だ。
「……ねえ、和彦くん。私、怖くて画面が見られない。……もし、私の番号だけなかったら、私、そのまま砂になって消えちゃうかも」
大学の構内、掲示板へと続く並木道。
羽賀杏菜が、僕のダッフルコートの裾を千切れんばかりの力で握りしめていた。
彼女の指先は、春の陽気とは裏腹に氷のように冷たい。
18歳の春。付き合っているという事実は、不合格の絶望を半分にしてはくれない。むしろ「自分だけが落ちる」という恐怖を、何倍にも増幅させる劇薬となっていた。
「……杏菜。砂になる前に、僕の番号を先に確認しろ。……僕がいれば、砂になっても集めて瓶に入れてやるよ」
「もう、和彦くんはいつもそうやって……! ……でも、ありがとう。少しだけ、息ができるようになったよ」
杏菜が、僕のシャツの胸元に顔を埋める。
その熱い体温。けれど、掲示板へと向かう僕の足取りは、まるで泥沼の中を歩いているかのように重かった。
「……非効率な足止めね。運命はもう、解答用紙を提出した瞬間に確定しているわ」
背後から、凛とした、けれどどこか震える声が響いた。一ノ瀬佳樹だ。
彼女は自分のスマートフォンを握りしめ、眼鏡の奥の琥珀色の瞳を鋭く光らせている。
佳樹にとって、この日は「和彦と同じ地平に立てるか」を決める、聖戦の結果発表だ。
彼女の独占欲は、今や「同じ大学の学生証」という、法的な裏付けさえも手に入れようとしていた。
「西野。あなたの番号は、私の予測では98.7%の確率で存在するわ。……問題は、その隣に誰が並ぶか……。杏菜、あなたも覚悟を決めなさい」
「佳樹ちゃん……。……うん。……私、見てくる!」
「よっしゃあ! 全員まとめて合格だ! 落ちてたら、私が学長に直談判して枠をこじ開けてやるよ!」
並木道の向こうから、和久井檸檬が全速力で走ってきた。
推薦組の彼女にとって、この一日は、自分の大切な居場所がバラバラにならないかを確認するための、最後の立会人としての役目だった。
彼女は僕の肩をガシッと掴むと、杏菜の背中を強引に掲示板の方へと押し出した。
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先が、今までになく強張っていたのを僕は知っている。
「……和彦、さん。……これ、合格、祝いの……わら人形、です。……嘘です、ただの、ストラップ……です。……もし、落ちていたら……私の、部屋で……一生、飼って……あげますから」
影の中から、柏木小鞠が現れて不気味なマスコットを差し出してきた。
彼女は別の大学への進学が決まっていたが、わざわざ僕たちの結末を「観測」しに来たらしい。
小鞠の瞳に宿る、僕が挫折した時にこそ、自分の胸の中で僕を再構築しようとする、深くて湿った執念。
やれやれ。
人だかりをかき分け、僕たちは掲示板の前に立った。
無機質な数字の羅列。
僕の視線が、自分の番号を探して泳ぐ。
あった。
心臓が一度だけ大きく跳ね、視界が急速にクリアになっていく。
そして、その数行下。
僕がこの数ヶ月間、自分の参考書の余白に何度も書き殴ってきた、あの番号。
「……あった。……あったよ、和彦くん! 私、受かったんだよ!」
杏菜が、僕の首にしがみついて叫んだ。
彼女の瞳から溢れ出した涙が、僕の首筋を熱く濡らす。
18歳の春。
合格という二文字は、ただの通行許可証ではない。
それは、僕たちがこれからも同じ空気を吸い、同じ景色を見続けることを許された、世界からの承認だった。
「……おめでとう、杏菜。……約束、守れたな」
僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の顔が、桜色よりも鮮やかに赤く染まり、彼女は僕の唇に、ほんの一瞬だけ、春の風のような柔らかい感触を残した。
「……ふん。順当な結果ね。……でも、西野。キャンパス内での不純異性交遊は、学問の府に対する冒涜よ。……これからは、私がより厳しくあなたを監視するわ」
佳樹が、自分の番号を確認した安堵を隠すように、ツンと横を向いて言い放った。
彼女の琥珀色の瞳には、敗北感ではなく、次なる「4年間の包囲網」を構築せんとする、不屈の闘志が宿っていた。
結局、僕たち五人は、いつものファミレスで祝勝会を開いた。
檸檬が騒ぎ、小鞠が影から囁き、佳樹が講義の履修計画をブツブツと呟く。
そして隣では、杏菜が僕の腕をぎゅっと抱きしめたまま、幸せそうに笑っている。
「……ねえ、和彦くん。私たち、ずっと一緒だね」
窓の外には、新しい季節を告げる夜風が吹き抜けていた。
僕たちは、まだ何も成し遂げていない。
これから始まる大学生活。広がる世界。そして、大人になっていく恐怖。
けれど、この騒がしい幼馴染たちと、隣で微笑む彼女がいれば、どんな未来でも受け入れられるような気がした。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、春の気配が満ちる夜の駐車場で零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の決意を噛み締めながら、夜の空を吸い込んだ。
受験が終わる。
それは、僕たちの「最後の一年」という物語が、終わりを告げ、また新しい物語が始まる合図でもあった。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、桜の香りが混じる夜風の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




