国立二次という名の最終決戦。あるいは、解答用紙の余白に消えた僕らの冬について
2月25日。国立大学二次試験、当日。
昨日までの雪が嘘のように晴れ渡った空は、僕たちの絶望や希望などどこ吹く風といった様子で、ただ冷たく、どこまでも高かった。
僕、西野和彦の戦場は、もはや見慣れた予備校の自習室ではなく、この国の知性の最高峰を自負する大学の、無機質な大講義室だ。
「……和彦くん。……私、大丈夫かな。心臓が、耳のすぐ横で鳴ってるみたい」
試験開始30分前。正門前の時計塔の下で、羽賀杏菜が僕のコートの袖をぎゅっと握りしめていた。
彼女の指先は氷のように冷たく、けれどその瞳には、これまでの数えきれないほどの学習時間が生んだ、鈍い光が宿っている。
18歳の冬。付き合っているという事実は、数学の証明問題を完遂させる助けにはならない。
けれど、彼女が僕の隣にいるというだけで、僕の脳内では「ここで負けるわけにはいかない」という生存本能が、アドレナリンと共に暴走を始めていた。
「……杏菜。お前が解けない問題は、会場の全員が解けない。……お前がやるべきことは、今まで僕の隣で書き殴ってきたあのノートを、そのまま再現するだけだ」
「……うん。……そうだよね。私、和彦くんの隣で、ずっと頑張ってきたもんね」
杏菜が、僕のシャツの胸元に小さく、けれど力強く拳を当てた。
「……待ってるからな。終わったら、いつもの場所で」
「うん! 行ってきます!」
彼女が自分の試験会場へと消えていく背中を見送りながら、僕は自分の手のひらの汗を、ズボンで乱暴に拭った。
僕自身の試験も、もはや他人事ではない。
解答用紙という名の、僕たちの未来を決定づける白紙の舞台に、僕はペンを突き立てた。
――数時間の沈黙と、思考の火花。
そして、試験終了を告げる非情なチャイム。
「終わった……。……本当に、終わっちゃったんだね」
夕暮れ。約束の時計塔の下で再会した杏菜は、幽霊のような足取りで現れた。
解放感と、終わってしまったことへの恐怖。
答え合わせをする勇気もなく、僕たちはただ、冬の冷たい風に吹かれながら並んで歩いた。
「西野。お疲れ様。……自己採点をするまでもなく、あなたの表情を見れば結果は推測できるけれど……。一応、私の解答速報と照らし合わせなさい」
一ノ瀬佳樹だ。彼女は自分の試験が終わるや否や、僕の追跡を開始していたらしい。
佳樹の琥珀色の瞳は、試験疲れなど微塵も感じさせない冷徹な輝きを放っている。
彼女にとって、この国立二次は僕と同じキャンパスへの「入場許可証」を受け取るための、ただの儀式に過ぎないのだ。
「佳樹ちゃん……今は、そっとしておいてよ……」
「無駄よ。現実から目を逸らしても、採点官の赤ペンは止まらないわ。……杏菜、あなたも。西野の隣に座る資格があるかどうか、その答えはもう、あの教室に残してきたはずよ」
佳樹の言葉は相変わらず鋭いナイフのようだったが、その瞳の奥には、僕と杏菜が同じ苦難を乗り越えてしまったことへの、言葉にできない焦燥が透けて見えていた。
「よっしゃあ! 全員生還! 今日は私がご馳走してやるからな! ……あ、親のカードだけど!」
和久井檸檬が、どこからともなく自転車で現れた。
推薦組の彼女にとって、この数時間は、僕たちが「別の世界」へ行ってしまわないか監視するための、果てしなく長い待機時間だったのだろう。
彼女は僕の肩をガシッと掴むと、そのまま無理やり繁華街の方へと引きずり出す。
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む力が、いつもより少しだけ震えているのを僕は知っている。
「……和彦、さん。……これ、お疲れ様の……お札、です。……嘘です、ただの、チョコレート……です。……糖分、摂って……私の、ことも……思い出して、ください」
影の中から柏木小鞠が現れ、僕のポケットに溶けかかったチョコをねじ込んできた。
彼女は別の大学を受験していたはずだが、どうやら「執念」という名のナビゲーションで僕たちを見つけ出したらしい。
小鞠の瞳に宿る、この試験の結果がどうあれ、僕は永遠に自分の「幼馴染」という檻の中に閉じ込めておけるという、深くて湿った執念。
やれやれ。
結局、いつものファミレスに集まり、僕たちは静かにドリンクバーのコップを傾けた。
まだ合否は分からない。けれど、僕たちの「最後の一年」を支配していたあの息苦しい重圧が、少しずつ、夜の闇に溶け出していくのを感じていた。
「……ねえ、和彦くん。私、出し切ったよ。……和彦くんと一緒にいたいって、それだけを考えて、一文字ずつ書いてきたの」
杏菜が、テーブルの下で僕の手を握りしめた。
他の三人の視線に晒されながらも、彼女は僕の手を離そうとはしない。
窓の外には、春を待つ冬の星座が、僕たちの未来を静かに見守っていた。
「……ああ。……分かってる。……お疲れ様、杏菜」
僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、彼女は僕の肩に顔を埋めた。
18歳の冬。
僕たちは、一つの大きな山を越えた。
合格も、確かな将来も、二人だけの穏やかな春も、まだ確定したわけじゃない。
けれど、この騒がしい幼馴染たちに囲まれ、彼女の温もりを感じているこの瞬間だけは、どんな高得点よりも僕の心を熱くさせていた。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、深夜の国道沿いで零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の温度を噛み締めながら、夜の風を吸い込んだ。
卒業まで、あと少し。
その先に待っている景色が、五人全員で笑えるものであることを、僕は初めて本気で信じようと思った。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、春の気配を孕んだ夜風の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




