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二次試験のポラリス。あるいは、赤本の余白に書き込んだ僕らの逃避行について

2月。立春とは名ばかりの、肌を刺すような寒さが続く午後。

僕、西野和彦は、静まり返った自習室で、二次試験という名の最終決戦に向けてペンを走らせていた。

共通テストの自己採点から二週間。浮かれた正月の余韻など、予備校の冷たい床に吸い込まれて消えた。


「……ねえ、和彦くん。ここ、過去問の解説を読んでも、どうしても理解できなくて」


隣で羽賀杏菜が、掠れた声で僕を呼んだ。

彼女の指先は、焦りと冷えからか微かに震えている。

ボーダーラインギリギリ。その事実が、彼女から「恋する乙女」としての余裕を奪い、代わりに「崖っぷちの受験生」としての悲壮感を与えていた。


「……どれだ。ああ、これは数Ⅲの微積か。……いいか、まずはこの定積分の式を、図形として捉え直すんだ。ほら、ここを見て」

「……うん。……ありがとう。和彦くんが教えてくれると、不思議と解ける気がするんだ」


杏菜が、僕のシャツの袖をぎゅっと掴んだ。

18歳の冬。付き合っているという事実は、数学の難問を解く役には立たない。

けれど、彼女が僕の手を握るたびに、僕の脳内では「何が何でも彼女を合格させる」という、論理とは無縁の生存本能が爆発するのだ。


「……西野。彼女に教える時間を、自分の英作文の添削にあてなさい。その効率の悪さが、あなたの合格圏を危うくしているのよ」


背後から、凍てつくような判決が下された。一ノ瀬佳樹だ。

彼女は自分の完璧な参考書セットを抱え、僕たちの前の席に音もなく座る。

佳樹にとって、この冬は僕と同じキャンパスに行くための「最終整理」の期間だ。

彼女の琥珀色の瞳は、杏菜の不安を「不確定要素」として切り捨て、僕に向かって「西野、私と一緒に高みへ行きなさい」と無言で誘いかけてくる。


「西野。愛は盲目と言うけれど、学力まで盲目にしてはいけないわ。……杏菜、あなたが彼を本当に想っているなら、彼の足を引っ張る行為はやめなさい。……この応用問題、私が解説してあげるから。西野は自分の課題に戻って」

「佳樹ちゃん……。……うん、分かった。ごめんね、和彦くん」


佳樹の言葉は冷酷だが、その裏にある彼女自身の「僕と離れたくない」という焦燥を、僕は感じずにはいられなかった。

彼女の独占欲は、今や「最も効率的な指導」という形を借りて、僕を包囲している。


「みんな、根詰めてんなー! ほら、ホットココア買ってきたぞ! 甘いもん摂らないと、脳みそがカピカピになるからな!」


和久井檸檬が、北風を連れて自習室の外に現れた。

推薦組の彼女にとって、この緊迫した空気は、もはや別次元の出来事なのだろう。

彼女は窓ガラス越しに僕たちに手を振り、強引に僕と杏菜を外へと連れ出した。


「和彦、お前も顔色が悪いぞ。たまには深呼吸しろ! ……杏菜、お前の根性は私が保証する。だから、最後まで和彦の背中を追いかけろよ!」


檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の肩を叩く力が、いつもより少しだけ弱かったのを僕は知っている。

自分だけが「受験」という共通の苦しみを持っていない寂しさ。

彼女の奔放さは、いつか離れ離れになってしまう僕たちの絆を、必死に繋ぎ止めるための彼女なりの「祈り」だった。


「……和彦、さん。……これ、私の、お気に入り……の、耳栓……です。……これを着けると、私の、声……じゃなくて、想い……だけが、聞こえますから。……試験会場で、寂しく……なったら、使って……ください」


影の中から柏木小鞠が現れ、僕に小さなケースを手渡した。

彼女はクラスが分かれて以来、こうした「精神的な依り代」を僕に渡すことで、僕の記憶に自分の場所を確保しようとしていた。

小鞠の瞳に宿る、僕がこの冬の寒さに負けそうになった時、真っ先に自分を頼ってほしいと願う、深くて湿った執念。


やれやれ。

2月下旬。二次試験前日。

結局、僕と杏菜は二人きりで、夕暮れの街を歩いていた。


「……和彦くん。私、怖い。……明日、全部出し切れるかな。……和彦くんと同じ春を、迎えられるかな」


杏菜が、僕のコートのポケットの中で、僕の手を強く握りしめた。

他の三人の視線がない、夕焼けに染まった二人だけの空間。


「……杏菜。僕は、君を信じてる。……だから、君も僕を信じろ。……明日が終わったら、また、いつもの五人で笑おう」


僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。

それを聞いた杏菜の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ち、彼女は僕の胸に顔を埋めた。

18歳の冬。

僕たちは、まだ何も手に入れていない。

合格も、確かな将来も、二人だけの静かな生活も。

けれど、この冷たい夜風の中で共有した体温だけは、どんな高得点よりも僕を強く奮い立たせていた。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、静まり返った住宅街で零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の決意を噛み締めながら、夜の空を見上げた。

いよいよ明日。

僕たちの「最後の一年」が、一つの大きな審判を迎えようとしていた。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、冬の星座の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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