自己採点のデッドヒート。あるいは、マークシートの神様に嫌われた僕らの明日について
1月。共通テスト当日。
空は、僕たちの将来を暗示するかのように、冷たく、雲一つない真っ青な色をしていた。
僕、西野和彦の戦場は、いつもの教室ではなく、冷房と暖房の効きが微妙な国立大学の大講義室だ。
周りを見渡せば、どの受験生も「自分が一番賢い」という顔を装いながら、実際はマークシートの記入ミス一つで人生が詰むという恐怖に、ガタガタと震えている。
「……和彦くん。……私、お腹痛くなってきちゃった。どうしよう、頭が真っ白だよ……」
試験開始直前、会場の外の廊下で羽賀杏菜が僕のコートの裾を掴んで震えていた。
彼女の顔色は、今朝食べたであろう消化に良いうどんよりも白い。
18歳の冬。付き合っているという事実は、マークシートの正解を教えてはくれないが、誰かのために頑張るという「呪い」にも似た力だけは、十二分に与えてくれる。
「……杏菜。お前が頭真っ白なら、隣の奴は透明人間になってるさ。……ほら、これ。……深呼吸しろ」
僕は彼女の手に、温かい缶コーヒーを押し付けた。
実際、僕の心拍数も、かつての定期試験の比ではない。けれど、ここで僕まで動揺すれば、彼女はそのまま北極の氷の下まで沈んでいくだろう。
「……うん。……頑張る。和彦くんが見ててくれるから、私、絶対大丈夫だよね」
杏菜が、僕のシャツの胸元に小さく拳を当てて、自分の戦場へと消えていった。
その背中を見送りながら、僕は自分の手のひらの汗を、ズボンでそっと拭った。
――それから、永遠にも感じられる二日間が過ぎた。
「終わった……。……終わっちゃったんだね、和彦くん」
二日目の夕暮れ。試験会場の正門前で、杏菜が廃人のような足取りで現れた。
解放感と絶望感が五分五分で混ざり合った、受験生特有の表情だ。
帰り道の電車、僕たちの間には沈黙が流れていた。
試験の感触を話すのは、地雷原をタップダンスで渡るようなものだ。
けれど、駅の改札を出た瞬間、待ち構えていたのは、あの喧騒だった。
「西野。お疲れ様。……自己採点用のデータ、私のスマホに全て打ち込んでおいたわ。あなたの回答を言いなさい。0.1秒で合否判定を出してあげる」
一ノ瀬佳樹だ。彼女は自分の試験が終わるや否や、僕の追跡を開始していたらしい。
佳樹の琥珀色の瞳は、試験疲れなど微塵も感じさせない冷徹な光を宿している。
彼女にとって、このテストは「僕との将来」という方程式を解くための、ただの定数に過ぎないのだ。
「佳樹ちゃん……まだ、心の準備が……」
「無駄よ。データは残酷なまでに客観的だわ。……杏菜、あなたも。現実から逃げても、偏差値は追いかけてくるわよ」
「よっしゃあ! 和彦、杏菜! お疲れさん! 肉だ、肉を食いに行くぞ!」
和久井檸檬が、極寒の駅前で半袖……ではないが、妙に薄着で現れた。
推薦組の彼女にとって、この二日間は、僕たちが「別の世界」へ行ってしまわないか監視するための、長い待機時間だったのだろう。
彼女は僕の肩をガシッと掴むと、そのまま無理やり焼肉屋の方へと引きずり出す。
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先が、冷え切って震えているのを僕は知っている。
彼女なりに、僕たちの失敗を、誰よりも恐れていたのだ。
「……和彦、さん。……これ、慰めの……煮干し、です。……噛めば、噛むほど……現実の、苦味が……しますから。……私が、後ろで……ずっと、数えて……いました。……和彦さんの、マーク……した回数……」
影の中から柏木小鞠が現れ、僕のポケットに小魚の袋をねじ込んできた。
彼女は別の会場だったはずだが、どうやら「心眼」か何かで僕の動向を追っていたらしい。
小鞠の瞳に宿る、僕がこのテストで打ちのめされた時にこそ、自分の胸の中で僕を飼い殺そうとする、深くて湿った執念。
やれやれ。
結局、いつものファミレスに集まり、僕たちは震える手で自己採点を始めた。
問題冊子に書き込んだ回答を、解答速報と照らし合わせる。
カチカチと鳴るシャープペンシルの音。ページをめくる音。
「……あ」
杏菜の声が漏れた。
彼女の採点結果は、志望校のボーダーライン上に、ギリギリのところで踏みとどまっていた。
A判定でも、B判定でもない。けれど、まだ「夢を見ていい」と言える、そんな危うい数字。
「……和彦くん。私、まだ……繋がってるよね?」
杏菜が、テーブルの下で僕の手を握りしめた。
その手のひらは、冷え切っているのに、微かに汗ばんでいた。
「……ああ。……まだ、終わってない。……ここからが、本当の戦いだ」
僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の瞳から、大粒の涙がボロボロとこぼれ落ち、彼女は僕の肩に顔を埋めた。
18歳の冬。
共通テストという第一関門を突破した僕たちを待っているのは、さらに過酷な二次試験という名の地獄だ。
けれど、このファミレスのドリンクバーの甘ったるい匂いの中で共有した安堵感だけは、どんな高得点よりも僕の心を熱くさせていた。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな, 僕は」
本日、深夜のファミレスの駐車場で零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の震える体温を噛み締めながら、夜の風を吸い込んだ。
春まで、あと少し。
その先に待っている景色が、五人全員で笑えるものであることを、僕は初めて神に祈った。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、冬の星座の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




