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共通テストの亡霊。あるいは、鉛筆の芯より脆い僕らの自信について

1月。共通テストまで残り一週間。

学校の廊下を歩けば、すれ違う生徒全員が「不合格」という名の死神に取り憑かれているように見える。

僕、西野和彦の胃袋は、過度のストレスとカフェイン摂取によって、すでにボロ雑巾のような状態に成り果てていた。


「……ねえ、和彦くん。もし、私が失敗して、和彦くんだけが受かったら……私たち、どうなっちゃうのかな」


放課後の薄暗い教室。

羽賀杏菜が、解きかけの数学のプリントの上に涙を一粒落とした。

冬の乾燥した空気の中で、その涙は残酷なまでに輝いて見えた。

18歳の冬。付き合っているという肩書きは、マークシートの塗りつぶしミスを防いでくれない。

むしろ、彼女を「和彦の足を引っ張っているのは自分ではないか」という自責の念で縛り付けていた。


「……杏菜。失敗することを前提に話すな。今はただ、目の前の一点をどう稼ぐかだけ考えろ」

「分かってる……! 分かってるけど、怖いんだよ! 和彦くんはいつも正論ばっかり。……私の不安、分かってくれてるの?」


杏菜が、僕のシャツの胸元をぎゅっと掴んで叫んだ。

その熱い体温。けれど、今の僕には彼女の不安を溶かすような気の利いた言葉なんて一つも持ち合わせていなかった。

僕は、ただ無言で彼女の肩を抱き寄せることしかできなかった。


「……非効率的な感傷ね。その涙一滴を生成するエネルギーを、歴史の暗記に回しなさい」


教室の入り口で、一ノ瀬佳樹が氷のような声を響かせた。

彼女は自分の完璧に整理された「最終チェックリスト」を手に、僕たちの間に無言の楔を打ち込むように座り込む。

佳樹にとって、この共通テストは僕と同じ大学へ行くための「手続き」に過ぎない。

彼女の琥珀色の瞳は、杏菜の動揺を「管理ミス」として切り捨て、僕に向かって「西野、共犯者として自覚を持ちなさい」と無言の圧力をかけてくる。


「西野。彼女の甘えを放置するのは、愛ではなく怠慢よ。……杏菜、あなたが西野と同じ場所に行きたいのなら、今すぐ目を拭きなさい。……でないと、私があなたの代わりに彼の隣に座り続けることになるわよ」

「佳樹ちゃん……。……分かってる。分かってるよ……」


佳樹の言葉は冷酷だが、それが杏菜を現実へと繋ぎ止める唯一の錨でもあった。


「おーい! 合格祈願のチョコ買ってきたぞ! これ食って、脳ミソにガソリンぶち込もうぜ!」


和久井檸檬が、北風を連れて教室に乱入してきた。

推薦で合格を決めている彼女にとって、この教室の重苦しさは、もはや異次元の光景なのだろう。

彼女は僕の肩をバシッと叩くと、杏菜の頭を強引に撫で回した。


「杏菜、お前が落ちたら、私が毎日その大学の正門前でスクワットしてやるよ! 恥ずかしくて、和彦も逃げ出せなくなるだろ!」

「檸檬ちゃん……あはは、何それ、最悪だよ……」


檸檬の明るい笑い声。けれど、彼女が僕の腕を掴む力が、いつもより少しだけ強かったのを僕は見逃さなかった。

自分だけが「別の未来」へ行く寂しさ。

彼女の奔放さは、バラバラになっていく僕たちの距離に対する、彼女なりの精一杯の抵抗だった。


「……和彦、さん。……これ、合格、祈願の……爪、です。……嘘です、ただの、貝殻……です。……机の、隅に……置いておけば……私の、執念が……マークミスを、防ぎます」


影の中から柏木小鞠が現れ、僕の手に奇妙な形の貝殻を握らせた。

彼女は別クラスになってから、物理的な接触よりも「精神的な侵食」に力を入れている。

小鞠の瞳に宿る、僕が挫折した時にこそ、自分の存在価値が最大化されると信じているような、深くて暗い執念。


やれやれ。

共通テスト本番前、最後の放課後。

結局、僕たち五人はいつものように集まり、静まり返った教室でそれぞれの問題集に向き合った。


「……和彦くん。私、絶対、合格するから。……待っててね」


帰り道。

駅のホームで、杏菜が僕のコートのポケットの中で、僕の手を強く握りしめた。

電車のライトが、僕たちの足元を照らし、残酷なまでの「現実」を突きつけてくる。


「……ああ。……待ってる。……だから、自分を信じろ」


僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。

それを聞いた杏菜の顔が、街灯の光の中で一瞬だけ輝き、彼女は僕の胸に顔を埋めた。

18歳の冬。

僕たちは、まだ何も手に入れていない。

合格も、確かな将来も、二人だけの穏やかな春も。

けれど、握りしめた手のひらの熱さだけは、僕をどこまでも遠くへ連れて行ってくれるような気がした。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、凍てつく夜の駅舎で零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の決意を噛み締めながら、夜の闇に消えていく電車を見送った。

いよいよ明日。

僕たちの「最後の一年」が、一つの審判を迎えようとしていた。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、白い吐息の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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