除夜の鐘と、参考書に挟んだ僕らの未解決事項について
12月31日。世間が「ガキ使」の休止を嘆いたり、紅白の出演者に一喜一憂したりして、一年の総決算という名の思考停止に陥っている中。
僕、西野和彦の視界にあるのは、除夜の鐘の音ではなく、キッチンタイマーが刻む「過去問演習・残り10分」の非情なカウントダウンだった。
今年の冬休み、僕たちは「合格」という免罪符を手に入れるため、幼馴染五人による地獄の合同学習合宿(という名の監禁)を強行していた。
「……ねえ、和彦くん。もう、数字がゲシュタルト崩壊してきた。……ちょっとだけ、休憩しない?」
リビングのテーブルの向かい側で、羽賀杏菜が力なくシャープペンシルを置いた。
彼女の指先には、この数週間で刻まれた深いペンダコの跡。
18歳の冬。恋人らしいイベントなんて何一つない。クリスマスは佳樹の厳格な管理下で「英単語1000本ノック」に消え、大晦日の今も、僕たちは暖房の効きすぎた部屋で、ただひたすらに紙と格闘している。
「……あと一セット終わったら、近所の神社に初詣に行こう。……それが、今夜の僕たちに許された唯一の娯楽だ」
「初詣……! うん、頑張る。和彦くんと一緒にお願い事、したいもん」
杏菜が、僕の足に自分の足をこっそりと絡めてきた。
テーブルの下。佳樹の視線から隠れたわずか数センチの密会。
その控えめな接触に、僕の理性が「今は勉強だ」と警告を鳴らす。だが、彼女の潤んだ瞳を見ると、その警告音は冬の隙間風にかき消されてしまうのだった。
「西野。足元の不穏な動きを止めなさい。床の振動で私の計算が1ミリ秒狂ったわ」
向かいの席で、一ノ瀬佳樹が顔も上げずに言い放った。
彼女の琥珀色の瞳は、僕たちの甘い空気を一瞬で凍らせる絶対零度の輝きを放っている。
佳樹にとって、この年越しは「西野と同じ大学に滑り込むための最終調整期間」。そこには、幼馴染としての情けも、ましてや杏菜への譲歩など一欠片も存在しなかった。
「……一ノ瀬。お前、背中にセンサーでもついてるのか」
「いいえ。あなたの呼吸が0.5ヘルツ上がっただけよ。……杏菜、あなたも。合格祈願に頼る前に、その甘えを神に懺悔してきなさい」
「あはは! 佳樹、相変わらず厳しいなー。ほら、年越しそば持ってきたぞ! これ食って、景気良く新年迎えようぜ!」
キッチンから、和久井檸檬が湯気の立つどんぶりを抱えて現れた。
推薦組の彼女は、今や僕たちの「給食係」兼「メンタルサポーター」だ。
彼女は僕の肩に腕を回すと、わざとらしく杏菜に見せつけるように僕の頬を小突いた。
「和彦、お前が倒れたら、私が代わりに試験受けてやるからな! 顔は似てないけど、根性で押し通してやるよ!」
「……和久井。それは替え玉受験という名の犯罪だ。あと、お前の作るそばは、なぜかプロテインの味がするんだが」
「……和彦、さん。……これ、私の、手作り……お守り、です。……中に、私の、爪……じゃなくて、想い……詰めて、おきました。……浮気、したら……鐘の音とともに、呪……祝福が、届きます」
影の中から、柏木小鞠が現れて不穏な袋を差し出してきた。
彼女は3年生になってから、物理的な距離を呪術的な呪縛で埋めようとする傾向が強まっている。
小鞠の瞳に宿る、僕が弱った瞬間にその魂を掠め取ろうとする、静かで深い執念。
やれやれ。
23時55分。
結局、僕たち五人は厚手のコートを羽織り、近所の小さな神社へと足を運んだ。
冷たい夜気が、火照った脳を心地よく冷やしてくれる。
「……和彦くん。私、本当に行けるかな。……和彦くんの隣」
拝殿の前。杏菜が僕のコートのポケットに、自分の手を滑り込ませてきた。
他の三人がおみくじに夢中になっている、一瞬の隙。
「……行くんだよ。僕が、君の隣を予約してるんだから」
僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の顔が、焚き火の光の中で一瞬で赤く染まり、彼女は僕の腕をぎゅっと抱きしめた。
18歳の終わり。
僕たちは、まだ何も手に入れていない。
合格も、確かな将来も、二人だけの静かな生活も。
けれど、握りしめた手のひらの熱さだけは、新年の凍てつく空気の中でも、僕を支える唯一の真実だった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、除夜の鐘の第一打が響き渡る中、僕の口から零れた最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、新しい年の空気を吸い込んだ。
共通テストまで、あと二週間。
僕たちの「最後の一年」が、クライマックスに向かって加速し始める。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、雪の予感の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




