師走のカウントダウン。あるいは、不合格通知という名のラブレターについて
12月。カレンダーの枚数が最後の一枚になり、街がクリスマスだの正月だのという浮ついた祝祭の準備を始める中、僕、西野和彦の周囲だけは、北極圏並みの冷気が支配していた。
共通テストまで一ヶ月を切ったこの時期、高校3年生の教室は、もはや学びの場ではなく、生存競争を繰り広げるコロシアムと化している。
「……ねえ、和彦くん。やっぱり、私、ダメかもしれない」
放課後の図書室。
積み上げられた赤本の山から顔を上げた羽賀杏菜が、今にも壊れそうな声で呟いた。
彼女の目の前にある模試の判定は、夏からの必死の追い上げも虚しく、依然として志望校合格圏内には届いていない。
付き合っているからといって、僕の知識を彼女にインストールできるわけじゃない。18歳の冬、僕たちは「愛」だけでは乗り越えられない、あまりに即物的な壁に直面していた。
「……杏菜。判定なんてただの統計だ。最後に一点上回れば、それで僕たちの勝ちだろ」
「でも……! 和彦くんはもう合格が見えてるのに、私だけがこのまま置いていかれたら……。私、和彦くんのいない春なんて、想像できないよ」
杏菜の瞳が、乾燥した冬の空気の中で潤んでいく。
彼女の手が、僕のダッフルコートの袖をぎゅっと握りしめる。
その熱さは、僕の理性を容易に焼き切るほど強烈だったが、今の僕にできるのは、彼女の隣で一緒にペンを動かすことだけだった。
「その通りよ。羽賀杏菜、あなたのその『想像力』の欠如が、今の絶望を招いているのよ」
背後から、凍てつくような正論が飛んできた。一ノ瀬佳樹だ。
彼女は自分の完璧なタイムスケジュール表を僕の机に叩きつけるように置くと、眼鏡の奥の琥珀色の瞳を鋭く光らせた。
佳樹にとって、杏菜の不安は、僕の学習時間を削る「害悪」でしかない。
「西野。情に流されるのは、彼女を奈落の底に突き落とすのと同じよ。……杏菜、今のあなたに必要なのは、感傷ではなく、忘却曲線を意識した徹底的な反復演習。……この冬休み、私の管理下で24時間体制の学習合宿を組んだわ。もちろん、西野も一緒よ。無駄な接触は一切禁止だけどね」
「佳樹ちゃん、それって勉強じゃなくて監禁だよ……!」
佳樹の独占欲は、今や「合格」という絶対的な正義を盾に、僕と杏菜のプライベートを完全に侵食しようとしていた。
「なんだ、またみんなで難しい顔して。ほら、肉まん買ってきたぞ! 冬は栄養摂らないと戦えないからな!」
和久井檸檬が、寒空の下から元気に飛び込んできた。
推薦で進路を決めている彼女は、このピリついた空気の中でも、唯一「日常」を保っている。
彼女は僕の肩に腕を回すと、ホカホカの肉まんを僕の口元に押し付けてきた。
「和彦、あんまり根詰めんなよ。……杏菜もさ、和彦が見てるんだから、もっと自分を信じろって! 最悪、私が毎日あんたの大学まで和彦を拉致してきてやるからさ!」
檸檬の明るい笑い声。けれど、彼女が僕の腕を掴む力が、いつもより少しだけ強かったのを僕は感じていた。
自分だけが「受験」という共通言語を失っていく寂しさ。
彼女の激励は、いつかバラバラになってしまう僕たちの未来に対する、精一杯の抵抗だった。
「……和彦、さん。……これ、合格、祈願の……カイロ、です。……中に、私の、魂の……叫び……じゃなくて、想い、込めて……ありますから」
影の中から柏木小鞠が現れ、僕のポケットにカイロをねじ込んできた。
彼女は別のクラスになってから、こうした「呪術的なサプライズ」を僕に仕掛けることを生きがいにしていた。
小鞠の瞳に宿る、僕が挫折した時にこそ、自分が唯一の理解者になれると確信しているような、深くて暗い執念。
やれやれ。
12月の図書室。
結局、僕たち五人はいつものように集まり、閉館のベルが鳴るまで机を並べた。
杏菜は、佳樹に叱責され、檸檬に励まされ、小鞠に監視されながら、泣き出しそうな顔で英文法を書き殴り続けている。
「……ねえ、和彦くん。私、絶対に行くよ。和彦くんの隣に」
帰り道。
雪が降り始めそうな夜空の下で、杏菜が僕のコートのポケットの中で、僕の手を握りしめた。
他の三人の視線がない、ほんの数分間の贅沢。
「……ああ。……待ってるからな。……だから、もう泣くなよ」
僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。
それを聞いた杏菜の顔が、街灯の光の中で一瞬だけ輝き、彼女は僕の腕に顔を埋めた。
18歳の冬。
僕たちは、まだ何も掴んでいない。
合格も、確かな絆も、その先にある穏やかな春も。
けれど、この冷たい夜風の中で共有した体温だけは、どんな正解よりも僕を強く奮い立たせていた。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、凍てつく駅のホームで零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の決意を噛み締めながら、夜の闇に消えていく電車を見送った。
共通テストまで、あと少し。
その先に待っている運命が、僕たちをどこへ連れて行くのか。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、白い吐息の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




