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後夜祭のデッドヒート。あるいは、舞台袖で僕が飲み込んだ台詞について

11月。文化祭当日。

校内は、受験生という名の「現実主義者」たちの理性をも焼き尽くす、熱狂的な祭りの熱気に包まれていた。

僕、西野和彦は、裏方として舞台袖の暗がりに身を潜めていた。

手に持った進行台本は、手汗で少しふやけている。僕が緊張しているのではない。僕の目の前で、ヒロインの衣装に身を包んだ羽賀杏菜が、今まさに人生最大の舞台に上がろうとしているからだ。


「……和彦くん。私、ちゃんとできるかな。……セリフ、飛ばしちゃわないかな」


幕が上がる直前、杏菜が僕の衣装の裾をぎゅっと握りしめた。

劇中の華やかなドレス姿の彼女は、いつも隣で赤本を解いている彼女とは別人のように眩しい。

18歳の秋。付き合っているという肩書きさえも、今の彼女の輝きの前では、ただの付属品に思えてしまう。


「……大丈夫だ。あんなに練習したんだ。……それに、もし君が詰まったら、僕が照明を落として強制終了させてやるよ」

「もう、ひどいよ! ……でも、ありがとう。……行ってくるね」


杏菜が舞台へ飛び出していく。

ライトに照らされた彼女の背中を見送りながら、僕は自分の心臓が、受験の合格発表を待つ時よりも激しく鼓動しているのを感じた。


「……ふん。感情の昂ぶりを演技に転化できているようね。及第点だわ」


隣から、冷静沈着な声がした。一ノ瀬佳樹だ。

彼女は記録係としてビデオカメラを構え、そのレンズ越しに杏菜の動きを冷徹に追っている。

佳樹にとって、この劇は「羽賀杏菜がどれだけ僕に相応しい女か」をテストする査定の場でもあった。

彼女の琥珀色の瞳は、舞台上の杏菜ではなく、その影で彼女を支える僕の視線を、正確に射抜いていた。


「西野。彼女が舞台で輝くほど、あなたは自分の『不足』を自覚することになるわ。……でも、安心して。その欠落を埋めるのは、いつだって私なんだから」


佳樹の独占欲は、もはや応援の形を借りた呪いだった。


「和彦ー! 杏菜マジで最高だぞ! 私も客席から、プロテインのシェイカー振って応援してきた!」


和久井檸檬が、舞台袖に乱入してきた。

彼女は模擬店の手伝いで走り回っているはずだが、幼馴染の晴れ舞台を見逃すほど薄情ではない。

檸檬は僕の背中をバシッと叩くと、少しだけ潤んだ瞳で舞台を見つめた。


「なんかさ……みんな遠くに行っちゃうみたいだな。……でも、私は絶対、あんたたちを追い抜いてやるからな。見てろよ!」


檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕の腕を掴む指先に、かすかな震えがあることを、僕は知っている。

推薦で進路が決まっている彼女にとって、この文化祭は「子供時代の終わりの始まり」なのだ。


劇は大成功のうちに終わった。

後夜祭。校庭ではキャンプファイヤーが焚かれ、フォークダンスの音楽が流れている。

「後夜祭で一緒にいたカップルは、一生結ばれる」

そんな、受験の偏差値よりも信憑性の低い都市伝説が、今の僕たちにはひどく現実的な重みを持って迫っていた。


「……和彦くん。……一緒に、行こう?」


衣装を着替えた杏菜が、少しだけ赤くなった顔で僕を誘う。

だが、その僕たちの周りには、当然のように佳樹と檸檬、そして影から覗く柏木小鞠が集まっていた。


「……和彦、さん。……これ、私の……クラスの、占い……の結果です。……和彦さんの、隣には……黒髪の、影の……薄い、女子が……いるべき、だと」


小鞠が、不気味な呪文のような占い結果を差し出してきた。

彼女は自分の存在を、僕の未来という名の台本に、無理やり書き込もうとしていた。


やれやれ。

結局、僕たち五人は、キャンプファイヤーの火を遠巻きに眺めながら、自販機の温かいココアを飲むという、例年と変わらないスタイルに収まった。


「……ねえ、和彦くん。来年の今頃、私たちはどこにいるんだろうね」


杏菜が、僕のコートのポケットに自分の手を滑り込ませてきた。

他の三人の視線に晒されながらも、彼女は一歩も引かない。

火の粉が夜空に舞い上がり、僕たちの顔を赤く照らす。


「……どこにいても、やることは変わらないだろ。……僕が君の隣で、溜息をついてるだけだ」


僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。

それを聞いた杏菜の笑顔が、炎よりも熱く僕の胸を焼いた。

18歳の秋。

僕たちは、まだ何も掴んでいない。

けれど、この騒がしい夜が、いつか僕たちの人生の「正解」だったと思える日が来ると、僕はどこかで信じていた。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、祭りのあとの静寂の中に消えていった、最大級の敗北宣言。

僕は、四人の少女たちの重すぎる情念と、隣で微笑む彼女の温度を噛み締めながら、夜の空を見上げた。

文化祭が終わる。

それは、いよいよ「受験」という名の、孤独な冬が始まる合図でもあった。


僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、消えゆく炎の匂いの中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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