祭囃子のプレリュード。あるいは、段ボールの城で密会する僕らの罪悪感について
10月。受験生という名の「社会からの隔離者」たちにとって、文化祭というイベントは、まさに信仰心を試される踏み絵のようなものだ。
校内はクラス出し物の準備で浮き足立ち、ペンキの匂いと段ボールの山が、僕たちの神聖なる学習環境を汚染していく。
僕、西野和彦は、教室の片隅で英単語帳を開きながら、この狂乱が過ぎ去るのを静かに待とうとしていた。
「……ねえ、和彦くん。ちょっとだけ、休憩しない? ほら、衣装の試着、手伝ってほしいんだけど……」
背後から、羽賀杏菜が申し訳なさそうに、けれど期待に満ちた声で囁いた。
僕たちのクラスの出し物は「劇」。受験生がやるにしてはあまりに重労働な選択だが、杏菜はそのヒロイン役に選ばれてしまっていた。
付き合っている身としては、他の男子と舞台に立つ彼女を見るのは面白くない。だが、それ以上に、彼女がこの貴重な学習時間を「思い出作り」という名の浪費に充てている事実に、僕は胃の痛みを覚える。
「……杏菜。衣装の試着なら他の女子に頼めよ。僕は今、仮定法過去完了と格闘中なんだ。……それに、君の判定、まだDから動いてないだろ」
「分かってるよ。でも、高校生活最後なんだよ? 和彦くんと一緒に、何か残したいって思うのは、私だけなのかな……」
杏菜の瞳に、うっすらと涙が浮かぶ。
18歳の秋。正しさと正しさがぶつかり合い、どちらも選べないまま、僕たちは段ボールの壁に囲まれた薄暗い資材置き場へと逃げ込んでいた。
狭い空間。密着する肩。彼女のつけている柔軟剤の香りが、僕の脳内の英文法を片っ端から書き換えていく。
「……分かった。10分だけだぞ。……ほら、どこを直せばいいんだ」
「えへへ、ありがとう。……ここ、背中のリボンがうまく結べなくて」
杏菜が背中を向ける。
震える手でリボンに触れた瞬間、資材置き場の扉が、まるでガンダムのハッチでも開くような重量感でスライドした。
「西野。やはりここにいたのね。……公共の資材置き場をラブホテル代わりに使うのは、校則以前に衛生概念に対する冒涜だわ」
一ノ瀬佳樹だ。彼女はクラスの会計係として、手に持った電卓を鋭く叩きながら僕たちの前に立ちはだかった。
佳樹の琥珀色の瞳は、僕が杏菜のリボンに触れている指先を、顕微鏡のような精度で検閲していた。
彼女にとって、この文化祭は「和彦との共同作業」を演出するための合法的な戦場。杏菜にその主導権を握られることは、戦略的敗北を意味するのだ。
「佳樹ちゃん! これは、その、衣装の調整で……!」
「調整なら家庭科部の私に任せなさい。西野、あなたは舞台装置の設計図を確認して。……杏菜、あなたはセリフを覚える前に、昨日の模試で間違えた関係代名詞を100回書き出しなさい。……思い出作りと合格、どちらがあなたたちの未来を保証するか、考えるまでもないはずよ」
佳樹の言葉は相変わらず冷徹だが、その瞳の奥には、僕と杏菜の「密室」に割り込めなかった自分への、微かな苛立ちが透けて見えていた。
「おーい、修羅場ってるかー! 和彦、お前はこっちを手伝えよ! 力仕事なら任せろ!」
和久井檸檬が、ペンキのついた顔を覗かせて現れた。
推薦組の彼女は、今やクラスの出し物の中心人物だ。
彼女は僕の腕をガシッと掴むと、そのまま強引に段ボールの山へと引きずり出す。
檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕に向ける視線には、自分の進路が決まっているからこそ、僕たちの「足掻き」の中に踏み込めない、深い断絶の色が混ざっていた。
「和彦、あんまり根詰めんなよ。……杏菜のことも、ちゃんと見てやれよ。……私じゃ、代わりになれないんだからさ」
檸檬の呟きは、喧騒の中に消えていった。
「……和彦、さん。……これ、文化祭の……お守り、です。……劇の、衣装の……裏地に、縫い込んで……おきました。……私が、ずっと……和彦さんの、心音……聞いていますから」
影の中から柏木小鞠が現れ、僕に不気味な形をしたマスコットを手渡した。
彼女は別クラスの出し物(占いの館らしい。適役すぎて怖い)の準備を抜け出し、僕の背後を執拗にマークしていた。
彼女の瞳に宿る、この文化祭という喧騒の中で、僕の魂だけを自分の影に閉じ込めようとする、静かな執念。
やれやれ。
文化祭準備という名の狂騒曲。
僕を巡る4人の幼馴染たちの感情は、ペンキと段ボールの匂いに混ざり合い、発酵し、臨界点を超えようとしていた。
「……ねえ、和彦くん。劇、絶対成功させようね。……そして、一緒に合格するんだよ」
夕暮れの教室。
作業の手を休めた一瞬、杏菜が僕の小指に自分の小指を絡めてきた。
窓の外には、祭りを待つ秋の空が、燃えるようなオレンジ色に染まっている。
18歳の秋。
僕たちは、まだ何も決まっていない白紙の舞台の上に立っている。
けれど、この騒がしい日々が、いつか僕たちの人生の「最高のハイライト」になることを、僕は予感せずにはいられなかった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、ペンキの匂いが充満する廊下で零れた、最大級 of 最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の決意を噛み締めながら、再び段ボールの山に向き合った。
文化祭が始まる。
それは、僕たちの「子供時代」が、終わりを告げるための号砲でもあった。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、夕闇の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




