九月の断層。あるいは、僕の「隣」という特等席の所有権について
9月。文化祭の足音が聞こえ始める一方で、教室には夏休みの模試という名の「戦死者名簿」が貼り出されていた。 僕、西野和彦の成績は、皮肉にも夏の間ずっと僕の隣で泣き言を言っていた羽賀杏菜との距離を、物理的な偏差値以上に引き離してしまっていた。
「……ねえ、和彦くん。これ、何かの間違いだよね? 私、あんなに頑張ったのに。和彦くんの隣で、ずっとペンを動かしていたのに……」
放課後の教室。杏菜の手にある成績表には、志望校「D判定」の無慈悲な刻印。 彼女の瞳には、かつてないほどの絶望と、僕に置いていかれることへの剥き出しの恐怖が宿っていた。 これまでは「次は頑張ろう」で済んだ。けれど18歳の秋、時間はもはや僕たちの味方ではない。
「……羽賀杏菜。その結果は、あなたの甘えが招いた必然よ」
氷の楔を打ち込むように、一ノ瀬佳樹が現れた。 彼女は「A」で埋め尽くされた自身の成績表を、まるで聖書のように掲げ、僕と杏菜の間に割り込んだ。 「西野。彼女の停滞はあなたの学習効率を削ぐ癌だわ。今日限りで、彼女との共同学習を禁止することを提案する。彼女は私の管理下で、基礎から叩き直す。あなたは、私と同じ高みを目指すことだけに集中なさい」
佳樹の琥珀色の瞳は、独占欲を「正論」という名のオブラートで包み、僕を杏菜から引き剥がそうとしていた。
「おい、佳樹。それはあんまりだろ!」 和久井檸檬が、窓の外から飛び込んできた。推薦で合格を決めた彼女は、部活引退後のエネルギーを全て僕たちの「監視」に注いでいる。 「和彦、お前も何か言えよ! 杏菜を独りぼっちにするつもりか? それとも、佳樹の言う通り『賢い奴ら』だけで固まるつもりかよ!」
檸檬の言葉には、自分だけが「受験」という共通言語を失っていくことへの苛立ちと、僕たちへの執着が混ざり合っていた。
「……和彦、さん。……私の、クラスに……来れば……いいです。……ここは、光が……強すぎて……目が、腐りますから」 影の中から柏木小鞠が現れ、僕のシャツの裾を力強く握りしめた。彼女の瞳には、僕たちがバラバラになることへの、静かな、けれど狂気じみた期待。
四人の少女の想いが、僕の五感を四散させていく。 いつもなら、ここで溜息をついて終わる。けれど、隣で肩を震わせる杏菜の指先を見て、僕の中で何かが弾けた。
「……全員、黙れ」
僕の声に、教室内が氷ついた。 佳樹の眼鏡が驚きに揺れ、檸檬の笑みが消え、小鞠の指先が強張る。
「一ノ瀬、お前の正論は正しい。和久井、お前の友情も、柏木の気遣いも分かってる。……でもな、杏菜を合格させるって決めたのは、僕だ。彼女の隣に座る資格があるかどうかを決めるのは、偏差値じゃなくて、僕なんだよ」
本日、初めて僕が自らの意志で放った、最大級の反逆宣言。 驚愕に目を見開く4人を背に、僕は杏菜の冷え切った手を、全員の前で強く握りしめた。
「……行くぞ、杏菜。今日の分の英単語、まだ終わってないだろ」 「……あ、和彦くん……。うん、……うん!」
背中に突き刺さる三人の、殺意に近い執着。 佳樹の「許さないわよ」という呟きも、檸檬の「……格好つけやがって」という悔しげな声も、小鞠の「……逃がさない」という執念も、今はただのノイズだ。
やれやれ。 九月の夕焼けは、驚くほど赤く、そして残酷だった。 僕はこの日、四人の幼馴染という包囲網を壊すのではなく、その包囲網ごと、杏菜を抱えて走り抜ける覚悟を決めた。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
帰り道、杏菜の小さな手の温もりを感じながら、僕は自分の選択の重さに、けれど心地よい絶望を覚えながら、深く、深く、決意の溜息をついた。




