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晩夏の逃避行。あるいは、自習室を抜け出した僕たちの共犯関係について

8月下旬。カレンダーの残りが心許なくなり、宿題という名の遺言書を書き上げる時期がやってきた。

僕、西野和彦の夏休みは、結局のところ、冷房の効きすぎた予備校の自習室と、そこから見える灼熱の現実との往復だけで終わろうとしていた。


「……ねえ、和彦くん。もう、頭がウニだよ。……ちょっとだけ、外の空気吸いに行かない?」


隣の席で、羽賀杏菜が力なくノートを閉じた。

彼女の指先には、ペンだこ一歩手前の赤みが差し、その瞳には夏の終わりに特有の、深い疲労の色が浮かんでいる。

付き合ってから初めての夏。その大半を数式と英単語に捧げてきた彼女にとって、この暑さはもはや暴力に等しい。


「……あと一時間で、この章が終わるだろ。……一ノ瀬が戻ってくるまでに終わらせないと、またあの説教を食らうぞ」

「いいの。佳樹ちゃんなら、上のクラスの質問会でしばらく戻ってこないもん。……ね、お願い」


杏菜が、僕のシャツの袖をぎゅっと握りしめる。

その潤んだ瞳に、僕は自分の「効率」という名の防壁が、脆くも崩れ去る音を聞いた。

僕は溜息をつき、自分のノートを閉じた。18歳の夏、最後くらいは、僕だって少しは「彼氏」らしいことをしても罰は当たらないはずだ。


「……わかった。ただし、30分だけだぞ」


予備校の裏口からこっそりと抜け出した僕たちは、公園の自販機で買ったぬるいスポーツドリンクを手に、木陰のベンチに座った。

街は夏休みの終わりを惜しむように、セミの鳴き声がひときわ激しく響いている。


「……ああ、夏だね。……私たち、本当にずっと勉強ばっかりだったね」

「受験生だからな。……でも、おかげで君の英語の偏差値、5は上がっただろ」

「それは和彦くんのおかげ。……ねえ、和彦くん。……私、本当に行けるかな。……同じ大学」


杏菜が、僕の肩に頭を預けてきた。

彼女の髪から漂う、微かな汗と石鹸の混じった匂い。

18歳の僕たちは、未来という名の不透明なガラス越しに、お互いの存在を確認し合っている。

合格すれば、このまま一緒にいられる。不合格なら、物理的な距離が僕たちを切り裂く。

その残酷な二択が、夏の終わりの風に乗って、僕の胸を締め付けた。


「……行くんだよ。僕が、君の隣を空けて待ってるんだから」


僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。

それを聞いた杏菜の顔が、夕暮れの陽光を浴びて一瞬で赤く染まり、彼女は僕の腕をぎゅっと抱きしめた。

だが、そんな二人の聖域を、容赦ない現実の足音が踏みにじる。


「……そこまでよ。西野、杏菜。自習室からの逃亡は、学習計画に対する重大な背任行為だわ」


一ノ瀬佳樹だ。彼女は自分の完璧な進捗管理表を手に、公園の入り口に仁王立ちしていた。

佳樹の琥珀色の瞳は、僕たちの密着具合をミリ単位で計測し、一瞬だけ鋭く細められた。

彼女にとって、この夏休みは僕との「知的距離」を縮めるための期間。杏菜との逃避行など、万死に値する愚行なのだろう。


「西野。あなたが彼女の甘えを許容することは、結果的に彼女を不合格へと導いているのよ。……杏菜、今のあなたの成績では、そのネックレスの輝きさえ失わせることになる。……すぐに戻って、残りの問題を解きなさい」

「佳樹ちゃん……。……うん、ごめん。……でも、少しだけ、元気出たから」


佳樹の言葉は冷酷だが、その背後に隠された、彼女自身の「僕と離れたくない」という焦燥を、僕は感じずにはいられなかった。

彼女の独占欲は、今や「正義の指導」という形を借りて、僕を包囲している。


「あはは! 見つけたぞ、サボり魔ども! ほら、スイカのアイス買ってきたから、これ食って気合入れろ!」


和久井檸檬が、どこからともなく自転車で現れた。

推薦組の彼女にとって、この夏は友情を繋ぎ止めるための、必死の巡回任務だったのかもしれない。

彼女は僕の肩をガシッと掴むと、耳元で「和彦、あんまり杏菜をいじめるなよ」と笑いながら囁いた。


「……和彦、さん。……これ、私の、家で……採れた、ひまわり……の種、です。……自習室の、机に……置いておくと……私の、執念が……見守ります」


影の中から、柏木小鞠が現れて小さな袋を差し出してきた。

彼女は別のクラスになってから、こうした「呪術的な支援」に特化し始めていた。

彼女の瞳に宿る、僕の未来に自分の居場所を予約しようとする、静かな、けれど逃れられない執念。


やれやれ。

結局、予備校の閉館時間まで、僕たちはいつもの五人で机を並べることになった。

杏菜は、僕に言われた通り、半泣きになりながらも最後の問題を解ききった。


「……ねえ、和彦くん。夏、終わっちゃうね」


帰り道。

駅のホームで、杏菜が僕の服の裾をそっと握りしめた。

電車のライトが、僕たちの足元を照らし、季節の終わりを告げている。


「……秋が来れば、もっと厳しくなるぞ。……覚悟しろよ」

「うん。……でも、和彦くんが隣にいてくれるなら、私、どこまでも行ける気がする」


杏菜の笑顔が、夜の闇の中で一瞬だけ輝いた。

18歳の夏。

僕たちは、まだ何も手に入れていない。

合格も、確かな将来も、二人だけの静かな生活も。

けれど、握りしめた手のひらの熱さだけは、僕を支える唯一の真実だった。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、夏の終わりの涼しげな夜風の中で零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣を歩く彼女の決意を噛み締めながら、階段を上がった。

2学期という名の、最後の戦場がやってくる。

その先に待っている結末を、僕たちは、ただ信じて。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、遠ざかるセミの声の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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