表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

38/58

夏休みの青写真。あるいは、予備校の冷房で冷やせない僕らの独占欲について

7月。期末試験という名の定期処刑を終えたはずの校舎に、セミの声が容赦なく降り注いでいる。

だが、僕、西野和彦を含む三年生のフロアには、夏休みを待ちわびるような浮ついた空気は微塵もない。

あるのは、これから始まる夏期講習という名の強制労働に対する、諦観と焦燥だけだ。


「……ねえ、和彦くん。夏休み、毎日一緒に勉強してくれるって……約束、忘れてないよね?」


放課後の教室。羽賀杏菜が、僕の机に身を乗り出して覗き込んできた。

彼女の瞳には、夏の太陽に負けないくらいの熱量と、それと同じくらいの「置いていかれたくない」という切実な不安が同居している。

付き合っているのだから、一緒にいるのは当然の帰結だ。しかし、この「一緒に」が、受験生にとってはどれほど過酷な制約になるか、彼女は理解しているのだろうか。


「……忘れてないよ。でも、予備校の自習室は私語厳禁だぞ。僕が隣にいても、やるのは問題集との対話だけだ」

「いいの。和彦くんと同じ空間にいるっていう事実だけで、私の脳細胞は活性化する予定なんだから」


予定、か。彼女の脳内シミュレーションが、せめて次の模試の判定に反映されることを切に願うばかりだ。

僕が溜息をつきながら参考書を鞄に詰め込んでいると、教室の扉が、音速を突破せんばかりの勢いで開かれた。


「西野。夏期講習のコマ割り、私の計画と完全に同期させておいたわ。……杏菜、あなたも私の監視下で学習を進めるのが、合格への最短ルートよ」


一ノ瀬佳樹が、分厚い講習パンフレットを僕の机に叩きつけた。

佳樹の琥珀色の瞳は、すでに夏休みの24時間を15分単位で管理し終えた後の、戦士のような光を宿している。

彼女にとっての夏。それは、僕との学習効率を最大化し、同時に杏菜という不確定要素を「管理」下に置くための、聖戦の季節なのだ。


「なーんだ、みんな予備校予備校って。夏なんだから、一回くらい海とか行こうぜ! 和彦、私が車(の親の運転)で連れてってやるよ!」


和久井檸檬が、窓際からひょっこりと顔を出した。

推薦組の彼女にとって、夏休みは純粋な娯楽の季節だ。

彼女は僕の肩に腕を回すと、首筋に流れる汗を拭うこともせず、快活に笑う。

だが、その笑顔の裏で、僕たちが「受験」という共通の苦しみで繋がっていることに、微かな疎外感を感じているのを僕は見逃さなかった。


「……和彦、さん。……夏休み、私の家、自習室として……開放、します。……クーラー、効いてますし……私の、手作り、ドリンクも……用意、してあります」


いつの間にか、足元に柏木小鞠がうずくまっていた。

彼女はクラスが分かれて以来、こうした神出鬼没なアプローチを好むようになっている。

小鞠が差し出した紫色の液体からは、精神を安定させるというよりは、理性を麻痺させるような香りが漂っていた。


やれやれ。

夏休み。それは僕たち五人の関係が、物理的な「学校」という枠組みを超えて、より剥き出しに交錯する時間だ。


「ねえ、和彦くん。……私、絶対に追いつくから。だから、夏休みの間、ずっと隣にいてね」


杏菜が、僕のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。

他の三人の視線が僕たちに突き刺さる。佳樹の鋭い検閲、檸檬の寂しげな期待、小鞠の湿った執着。


「……ああ。……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、セミの鳴き声に掻き消されそうなボリュームで零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、四人の少女たちの重すぎる想いを、夏の湿った空気と一緒に吸い込んだ。

受験という壁。そして、幼馴染という名の、終わりのない包囲網。

僕の夏休みは、始まる前からすでに、完敗の予感に満ちていた。


僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、夕立の予感の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ