夏休みの青写真。あるいは、予備校の冷房で冷やせない僕らの独占欲について
7月。期末試験という名の定期処刑を終えたはずの校舎に、セミの声が容赦なく降り注いでいる。
だが、僕、西野和彦を含む三年生のフロアには、夏休みを待ちわびるような浮ついた空気は微塵もない。
あるのは、これから始まる夏期講習という名の強制労働に対する、諦観と焦燥だけだ。
「……ねえ、和彦くん。夏休み、毎日一緒に勉強してくれるって……約束、忘れてないよね?」
放課後の教室。羽賀杏菜が、僕の机に身を乗り出して覗き込んできた。
彼女の瞳には、夏の太陽に負けないくらいの熱量と、それと同じくらいの「置いていかれたくない」という切実な不安が同居している。
付き合っているのだから、一緒にいるのは当然の帰結だ。しかし、この「一緒に」が、受験生にとってはどれほど過酷な制約になるか、彼女は理解しているのだろうか。
「……忘れてないよ。でも、予備校の自習室は私語厳禁だぞ。僕が隣にいても、やるのは問題集との対話だけだ」
「いいの。和彦くんと同じ空間にいるっていう事実だけで、私の脳細胞は活性化する予定なんだから」
予定、か。彼女の脳内シミュレーションが、せめて次の模試の判定に反映されることを切に願うばかりだ。
僕が溜息をつきながら参考書を鞄に詰め込んでいると、教室の扉が、音速を突破せんばかりの勢いで開かれた。
「西野。夏期講習のコマ割り、私の計画と完全に同期させておいたわ。……杏菜、あなたも私の監視下で学習を進めるのが、合格への最短ルートよ」
一ノ瀬佳樹が、分厚い講習パンフレットを僕の机に叩きつけた。
佳樹の琥珀色の瞳は、すでに夏休みの24時間を15分単位で管理し終えた後の、戦士のような光を宿している。
彼女にとっての夏。それは、僕との学習効率を最大化し、同時に杏菜という不確定要素を「管理」下に置くための、聖戦の季節なのだ。
「なーんだ、みんな予備校予備校って。夏なんだから、一回くらい海とか行こうぜ! 和彦、私が車(の親の運転)で連れてってやるよ!」
和久井檸檬が、窓際からひょっこりと顔を出した。
推薦組の彼女にとって、夏休みは純粋な娯楽の季節だ。
彼女は僕の肩に腕を回すと、首筋に流れる汗を拭うこともせず、快活に笑う。
だが、その笑顔の裏で、僕たちが「受験」という共通の苦しみで繋がっていることに、微かな疎外感を感じているのを僕は見逃さなかった。
「……和彦、さん。……夏休み、私の家、自習室として……開放、します。……クーラー、効いてますし……私の、手作り、ドリンクも……用意、してあります」
いつの間にか、足元に柏木小鞠がうずくまっていた。
彼女はクラスが分かれて以来、こうした神出鬼没なアプローチを好むようになっている。
小鞠が差し出した紫色の液体からは、精神を安定させるというよりは、理性を麻痺させるような香りが漂っていた。
やれやれ。
夏休み。それは僕たち五人の関係が、物理的な「学校」という枠組みを超えて、より剥き出しに交錯する時間だ。
「ねえ、和彦くん。……私、絶対に追いつくから。だから、夏休みの間、ずっと隣にいてね」
杏菜が、僕のシャツの裾をぎゅっと握りしめた。
他の三人の視線が僕たちに突き刺さる。佳樹の鋭い検閲、檸檬の寂しげな期待、小鞠の湿った執着。
「……ああ。……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、セミの鳴き声に掻き消されそうなボリュームで零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、四人の少女たちの重すぎる想いを、夏の湿った空気と一緒に吸い込んだ。
受験という壁。そして、幼馴染という名の、終わりのない包囲網。
僕の夏休みは、始まる前からすでに、完敗の予感に満ちていた。
僕は、自分を縛り付ける四つの視線と体温を、夕立の予感の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




