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梅雨空の停滞。あるいは、僕の模範解答を彼女が拒む理由について

6月。空を分厚い雲が覆い、湿り気を帯びた空気が、ただでさえ重い受験生の胃を圧迫する季節がやってきた。

僕、西野和彦の日常は、相変わらず四人の幼馴染という名の包囲網に包まれているが、最近のその空気は、どこか刺々しいものを孕んでいる。


「……ねえ、和彦くん。ここの構文、昨日も教わったのに、また間違えちゃった」


放課後の教室。

羽賀杏菜が、真っ赤に添削された英語のプリントを机に広げ、消え入りそうな声で呟いた。

18歳の誕生日に交わした熱い誓い。けれど、恋心という燃料だけで、受験勉強という名の長距離マラソンを走り抜くのは至難の業だ。

彼女のペンを持つ指先は、焦燥からか、微かに震えていた。


「……杏菜。一回で覚えられる奴なんて、この学校には一ノ瀬くらいしかいない。……ほら、もう一度、基本のSVOCから整理しよう」

「でも……! 和彦くんはどんどん先に進んでるのに、私だけ同じところで足踏みして……。このままだと、本当に和彦くんの隣に行けなくなっちゃうよ!」


杏菜が、投げ出すようにペンを置いた。

その瞳には、自分の不甲斐なさへの怒りと、僕に置いていかれることへの恐怖が混ざり合っている。

付き合っているからこそ、その「差」が残酷なまでに可視化されてしまう。18歳の僕たちにとって、愛は時に、毒よりも深く心を蝕むものだった。


「その通りね。羽賀杏菜、あなたのその『焦り』が、脳の記憶領域を無駄に消費しているわ」


背後から、氷のような冷徹な声が響いた。一ノ瀬佳樹だ。

彼女は自分の完璧に整理されたノートを閉じ、眼鏡の奥の琥珀色の瞳を鋭く光らせた。

佳樹にとって、杏菜の停滞は、僕の学習環境を乱すノイズでしかない。


「西野、甘やかすのは時間の無駄よ。彼女に必要なのは、あなたの慰めではなく、論理的な自己分析。……杏菜、不合格の未来を嘆く暇があるなら、この単語テストを百点満点で終わらせなさい。それができないなら、西野の隣に座る資格はないわ」

「佳樹ちゃん、そんな言い方……! 私だって、一生懸命やってるよ!」


佳樹の言葉は、杏菜の傷口に塩を塗り込むようなものだった。

けれど、佳樹自身もまた、僕と同じ大学を目指すライバルとして、一歩も引けない焦燥を抱えていることを、僕は知っている。

彼女の独占欲は、今や「偏差値」という数値化された戦場で、静かに牙を剥いていた。


「なーんだ、また始めてんのか。和彦、杏菜。気分転換に、中庭の紫陽花でも見に行こうぜ!」


和久井檸檬が、窓の外から賑やかに声をかけてきた。

推薦で合格を決めている彼女にとって、この教室の重苦しい空気は、別世界の出来事のように見えるかもしれない。

だが、彼女が差し出した冷たいスポーツドリンクは、僕の熱を持った頭を冷やすにはちょうどよかった。


「あんまり根詰めると、脳みそが筋肉になっちゃうぞ! ……まあ、それも悪くないけどさ。和彦、たまには杏菜を外に連れ出してやれよ」


檸檬の明るい声。けれど、彼女が僕に向ける視線には、自分だけが「別の道」へ行くことが確定している寂しさが、隠しきれずに零れていた。


「……和彦、さん。……これ、精神、安定の……お香、です。……杏菜さんに、焚いて……あげて、ください。……私の、執念……じゃなくて、想い……詰まって、ますから」


隣のクラスから、柏木小鞠が壁の影を伝うように現れた。

彼女は一人だけ別のクラスになったことで、逆に「観察者」としての立場を強化していた。

彼女の瞳に宿る、僕と杏菜の綻びを静かに見守るような執念。それは、湿った梅雨の空気よりも重く、僕の背中にまとわりついた。


やれやれ。

放課後の図書室。

結局、いつもの五人が集まり、それぞれがそれぞれの想いを胸に、参考書と向き合う。

杏菜は、僕が教えた構文を、泣き出しそうな顔で何度もノートに書き写している。


「……ねえ、和彦くん。私、嫌いにならないでね。こんなにバカな私でも、和彦くんの隣がいいんだよ」


帰り道。

雨が降り出したバス停で、杏菜が僕の制服の袖をぎゅっと握りしめた。

他の三人の視線がない、雨音に包まれた二人の時間。


「……嫌いになるわけないだろ。……バカなのは、お互い様だ。僕だって、君を合格させるなんて大口叩いてるんだからな」


僕の口から零れた、本日最大級の譲歩。

それを聞いた杏菜の顔が、一瞬で赤く染まり、彼女は僕の肩に額を預けた。

18歳の梅雨。

僕たちは、まだ何も成し遂げていない。

けれど、この雨が上がった先にある景色を、僕は彼女と一緒に見たいと、心から願っていた。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、紫色の雨雲が街を飲み込む夕暮れに零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる情念と、隣で震える彼女の体温を噛み締めながら、バスを待った。

受験という壁。

それがどれほど高くても、僕たちは、ただ手を繋いで進むしかない。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、雨の匂いの中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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