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18歳のバースデー・ログ。あるいは、僕の未来を彼女に予約された件について

5月。羽賀杏菜がこの世に生を受けてから、ちょうど18年が経過した日。

僕、西野和彦は、日曜日の午後の図書室で、目の前の参考書ではなくスマートフォンの時計ばかりを気にしていた。

今日は杏菜の誕生日だ。本来なら、どこか景色のいい場所でパンケーキの一つでも突つくのが「正解」の恋人像なのだろうが、僕たちを縛り付ける「受験」という名の鉄鎖は、そんな浮ついた外出を許してはくれない。


「……お待たせ、和彦くん。模試の復習、やっと終わったよ」


閉館間際の図書室に、少しだけ息を切らした杏菜がやってきた。

彼女の頬は赤らみ、その瞳には今日という日を僕と過ごせることへの、隠しきれない期待が灯っている。

18歳。法律上は成人となり、自分の意志で人生を選び取れる年齢。

けれど、僕の前に座る彼女は、まだ制服の袖をぎゅっと握りしめる、あの頃のままの幼馴染だった。


「……誕生日おめでとう、杏菜。はい、これ。……一応、約束してたやつ」


僕は、鞄の奥から丁寧に包装された小さな箱を取り出した。

中身は、彼女が以前から欲しがっていたシンプルなネックレスだ。

僕の乏しい小遣いと、冬休みまでのバイト代の残りを注ぎ込んだ一品。それを差し出す僕の指先は、微積分を解く時よりもひどく震えていた。


「わあ……! 嬉しい、和彦くん。……つけて、くれる?」


杏菜が椅子から立ち上がり、僕に背中を向ける。

図書室の静寂の中、彼女のうなじにかかる細い髪を払いながら、僕は慎重に留め金を繋いだ。

指先に触れる彼女の体温。

付き合っているのだから、これくらいの接触は日常茶飯事のはずなのに、今日という日の重みが、僕の心拍数を非常事態レベルまで押し上げていく。


「……似合ってるよ。……それから、もう一つ。……これ、僕からの誓約書だと思ってくれ」


僕はネックレスの箱と一緒に、一枚のルーズリーフを差し出した。

そこには、僕が志望している大学の資料と、その近くにある杏菜の志望校のデータ、そして二人が同じ街で暮らすための、あまりに現実的で、あまりに夢見がちなシミュレーションが書き込まれていた。


「……和彦くん、これ……」

「僕も、君を置いていく気はない。……来年の春、この紙に書いた通りになるように、僕が君を合格させる。……それが、僕からのプレゼントだ」


僕の口から零れた、本日最大級の敗北宣言。

それを聞いた杏菜の瞳から、大粒の涙がポロポロと零れ落ちた。

18歳の誕生日。

彼女が欲しかったのは、高価な宝石でも、派手なパーティーでもなかった。

ただ、僕の未来の中に、自分の席が確保されているという確信だったのだ。


「……うん。私、頑張る。和彦くんと同じ空気を吸える場所まで、絶対に行くから」


杏菜が、僕のシャツの胸元に顔を埋めてきた。

図書室の片隅。

司書の先生の目も、他の生徒の気配も、今の僕たちには遠い世界の出来事のように思えた。

だが、そんな甘い空気を切り裂くように、聞き覚えのある鋭い足音が近づいてくる。


「……そこまでよ。西野、杏菜。図書室の閉館時間は過ぎているわ。それに、感情の昂ぶりは記憶の定着を妨げるわよ」


一ノ瀬佳樹だ。彼女は自分の完璧な参考書セットを片手に、僕たちの前に仁王立ちした。

佳樹の琥珀色の瞳は、杏菜の胸元で光るネックレスを捉え、一瞬だけ寂しげに揺れた。

彼女にとって、この18歳の誕生日は、自分が踏み込めない二人の聖域を再確認させられる、屈辱の日でもあったのだろう。


「佳樹ちゃん! もう、空気読んでよ!」

「空気なら十分に読んでいるわ。だから、あえて忠告しているの。……西野、そのネックレスに見合う男になりなさい。……杏菜、あなたも。その輝きを、不合格通知で曇らせないことね」


佳樹の言葉は、相変わらず冷徹な正論だった。けれど、その声の端々には、彼女なりの「祝福」と「執着」が混ざり合っていた。


「あはは、佳樹は相変わらずだな! さあ、主役はこっちだ! 杏菜、誕生日おめでとう!」


和久井檸檬が、巨大なデコレーションケーキ(と、なぜか大量のプロテイン)を抱えて図書室の入り口に現れた。

推薦組の彼女にとって、この誕生会は、幼馴染五人の絆を繋ぎ止めるための大切な儀式だ。

彼女は僕の肩をガシッと掴むと、耳元で「和彦、泣かせたら承知しないからな」と笑いながら囁いた。


「……和彦、さん。……私も、お祝い……持て、きました。……杏菜さんの、好きな……花の、種……です。……来年の春に、和彦さんの、隣で……咲くように」


影の中から柏木小鞠が現れ、杏菜に小さな袋を手渡した。

彼女は、杏菜の幸せを素直に祝っているように見えて、その瞳の奥には「私も来年、その隣に行く」という、静かな、けれど誰よりも強い執念を宿らせていた。


やれやれ。

杏菜の18歳の誕生日は、結局いつもの五人が集まる、騒がしくて、けれど温かい時間へと収束していった。

受験生という名の、自由を奪われた僕たち。

けれど、この図書室で交わした拙い約束だけは、どんな難問よりも確かな答えとして、僕の胸の中に刻まれていた。


「……ねえ、和彦くん。大好きだよ」


帰り道。

自転車を押す僕の隣で、杏菜が僕の腕をぎゅっと抱きしめた。

ネックレスの小さな石が、街灯の光を反射して、僕たちの未来を微かに照らしている。


「……知ってる。……さあ、明日からはまた、地獄の特訓だぞ」

「うん、望むところだよ!」


18歳の春。

僕たちは、まだ何も手に入れていない。

合格も、自立も、その先にある二人だけの生活も。

けれど、握りしめた手のひらの熱さだけは、僕をどこまでも遠くへ連れて行ってくれるような気がした。


「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」


本日、紫色の夜の帳が降りる街角で零れた、最大級の敗北宣言。

僕は、4人の少女たちの重すぎる想いと、隣を歩く彼女の笑顔を噛み締めながら、夜風の中を歩き続けた。

受験という壁。

それを乗り越えた先に待っている景色を、僕たちは、ただ信じて。


僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、5月の夜空に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。

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