模試の判定と、僕の隣にいたい彼女の泣き言について
3月。春の足音が聞こえてくるはずの季節だが、進学校の教室には、北風よりも冷淡な「現実」が吹き荒れていた。
僕、西野和彦の手元にあるのは、先日受けた記述模試の結果だ。
判定は、良くも悪くも志望校に対して現実的な数字を示している。だが、問題は僕の成績ではない。
「……ねえ、和彦くん。これ、見て」
隣の席で、羽賀杏菜が力なく差し出してきた紙。
そこには、僕の志望校と同じ欄に、残酷なまでに無慈悲なアルファベットの「E」が刻まれていた。
指定校推薦という安全圏を自ら捨て、僕と同じ場所を目指すと決めた彼女。その覚悟の代償は、偏差値という名の高い壁となって、彼女の前に立ちはだかっていた。
「……杏菜。まだ3月だ。判定なんて、これからいくらでも変わる。……それに、君の得意な英語は伸び代しかないだろ」
「分かってるよ。でも、和彦くんはもうあんなに先にいて……。私だけ、置いていかれちゃいそうで、怖いんだよ」
杏菜の瞳が、今にも溢れ出しそうな涙で潤んでいる。
付き合っているからといって、脳の中身を共有できるわけではない。17歳の冬、恋心だけで偏差値を20押し上げるのは、物理法則を無視した暴挙に近い。
僕は、かける言葉が見つからず、ただ彼女の震える指先をそっと見つめることしかできなかった。
「……失礼。その程度の数字で絶望している暇があるなら、単語帳の一枚でもめくるべきだわ」
背後から、冷徹なまでの正論が突き刺さった。一ノ瀬佳樹だ。
彼女の模試結果は、言うまでもなく「A」判定。管理の化身である彼女にとって、感情に流されて効率を落とす杏菜の姿は、教育的指導の対象でしかなかった。
「西野、甘やかすのは毒よ。杏菜、あなたに必要なのは感傷ではなく、忘却曲線を意識した反復練習。……私が作成したスケジュール表を使いなさい。ただし、西野との接触時間は、成績が向上するまで今の半分に制限するけれど」
「佳樹ちゃん、それはひどいよ! 私、和彦くんがいないと頑張れないもん!」
佳樹の琥珀色の瞳は、杏菜の泣き言を完全にスルーし、僕に向かって「分かっているわね?」と無言の圧力をかけてくる。
彼女にとっての進路は、僕という資源を独占するための聖戦。そこには、幼馴染としての情けなど、一欠片も存在しなかった。
「なーんだ、みんなで集まって葬式みたいな顔して。和彦、気分転換に走りに行こうぜ!」
和久井檸檬が、引退したはずの部活ジャージのまま教室に乱入してきた。
彼女は推薦で進学が決まっているため、この重苦しい空気とは無縁だ。だが、彼女は僕の肩を叩く力が、いつもより少しだけ強かった。
「杏菜、あんたが必死なのは分かるけどさ。和彦を困らせんなよ。……和彦、あんたも。あんまり根詰めてると、先に倒れるぞ。私が特製のプロテイン、作ってきてやったからさ」
檸檬の差し出した怪しい色のシェイカー。
彼女なりの優しさなのだろうが、今の僕の胃には、その友情は少し重すぎた。
「……和彦、さん。……これ、合格、祈願の……お守り、です。……中に、私の、念……込めて、おきました。……浮気、したら……針が、出て、きます」
闇の中から、柏木小鞠が不穏な笑みを浮かべて現れた。
彼女は僕の制服の裾を握りしめ、その瞳の奥に、誰にも渡さないという湿った執念を宿らせている。
彼女にとっての受験とは、僕という獲物を逃がさないための、最後の包囲網なのだ。
やれやれ。
放課後の図書室。
杏菜の隣で、僕は彼女のノートに解説を書き込んでいく。
判定の低さに落ち込む彼女。それを叱責する佳樹。励ます(物理的に)檸檬。そして影から見つめる小鞠。
「……ねえ、和彦くん。私、本当に行けるのかな。……和彦くんと同じところに」
杏菜が、僕のシャツの袖をぎゅっと握りしめた。
他の3人が、別の参考書を探しに席を立った一瞬の隙。
「……行くんだよ。僕も、君が隣にいないと、落ち着かないんだから」
僕の口から零れた、柄にもない言葉。
それを聞いた杏菜の顔が、一瞬で赤く染まる。17歳の男子として、これは最大級の譲歩であり、敗北宣言でもあった。
「……うん。私、頑張る。絶対、諦めないから!」
杏菜の瞳に、再び強い光が宿る。
その熱量は、模試の判定なんていう冷たい数字を、一瞬で焼き尽くすほどだった。
「……どうせ、恋でもなんでもしてしまうんだろうな、僕は」
本日、春を待つ静かな校舎で零れた、最大級の敗北宣言。
僕は、4人の少女たちの重すぎる想いと、自分自身の甘さを噛み締めながら、再び参考書に向き合った。
2年生が終わる。
それは、僕たちの「逃げ場のない一年間」が始まる合図でもあった。
僕は、自分を縛り付ける4つの視線と体温を、夕闇の中に溶け込ませながら、ただ深く、深く、諦めの溜息をついた。




